深夜、お腹が減って、夜中でも開いているいちばん近所の店が松のやで、その松のやに行った。とんかつ定食の食券を買って水を注いで席について、これから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝する店内放送を聴きながら番号で呼ばれるのを待っていた。
壁にはこれもまたこれから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝するポスターが貼られており、店を見渡すと、松屋グループの廃油が飛行機の燃料に使われている旨を知らせるポスターも貼られていた。なんと年間で東京大阪間を238回飛ぶ量の廃油が提供されていて、それは「FRY to FLY Project」と呼ばれているらしい。久しく見ない愉快なニュースに元気が出た。ピンチョン的なユーモアというか。豚を揚げる。飛行機を飛ばす。なんだっていいのだ。
年始からじんぶん大賞受賞の知らせがあったりして、気持ちが落ち着かない状態が続いていた。受賞自体は発表の直前に知らされていて、その時点でひととおり喜んでしまったので、発表以降はむしろネガティブな反応ばかり気になってしまったのかもしれない。なぜだかずっと悔しくて、ほんとに悔しくて、ちくちょうちくしょうと思っていて、松のやのおかげでやっと、受賞したのにこれだけ悔しがれているのならまだ大丈夫だなと思えるようになった。それにしても、これもまた嫌味と思われそうだが、賞は体に悪いですね。いまはまた楽しくなってきた。これもまたウソつけよと思われそうだが、『非美学』も基本的には楽しく生きていくための愉快な本ですからね。ドゥルーズの本はぜんぶそうだし。
サブスクを始めてふたつの記事はなんだか思いのほか気張って書いてしまったので、今回は近況と、この場で今後やりたいいくつかのことについて気楽に書こうと思う。
フィロショピー第2期ももう折り返しに突入していて、第3期はいちど趣向を変えてふつうの連続講義にしようかなと思う。テクストと講義を往復するのに疲れたひともいるだろうし。初夏に日記本が出る予定なので、それに合わせて、非常勤でやっていた日記と哲学の講義をブラッシュアップさせて全10回くらいでやろうかな。権力は発言を抑圧するのではなくむしろ奨励すること、そのなかで書いたり表現したりすること、その両義性の場として生きることを考えること、日記は反自伝であること、等々を実際自分が3年続けて日記を書いて考えたことや、ドゥルーズ、フーコー、デリダの言語論・文学論を使って話したい。SNSも含む、個人的な表現と制度の交差点として日記を考えることもできるし、そういう身近な話からフランス現代思想にも入門できる。いい企画だと思うのでお楽しみに。
直近でヤバいのは、もうすぐ締め切りのヴェネチア・ビエンナーレのレビューがまだぜんぜん書けていないことだ。そもそもヴェネチア・ビエンナーレなんかにいま誰が感心をもっているのか。まあ独立した文章として面白いものになるよう書けばいいのだと思う。こないだ書いた曽根裕さんの個展に寄せたエッセイ(会場で販売されているブックレットに掲載)を書いたときに、曽根さんと自分のあいだにある空間のちょうど真ん中に置くように書く、つまり、自分に引き寄せたり彼の作品にすべてを預けたりせずに、両者の接する線をなぞるように書くということができた感覚があって、それを拡張できればいいなと思う。あれは新しい感覚があった。実際評判もいいし。ギャラリストのミヅマさん(80歳で、めちゃめちゃ元気)も気に入ってくれて、曽根さんもそうだが、SNSなんか歯牙にもかけない元気な老人に自分の仕事が届くと嬉しい。僕含め若者も中年もイライラしすぎだから。それで言えば曽根さんはもっとも愉快に『非美学』を読んでくれているひとのひとりだと思う。
元気を削がれた要因のひとつに先日のゲンロンの若手批評イベントがあったと思う。批評はどうあるべきかという話で、僕としてはどうもこうもなく批評の外にあるものと関わってこその批評なのだからと思って盛り上がりを横目に見ながら魚豊についての文章を書いたりしたのだけど、ともかくあれはそれぞれの仕事の内容についての話がなくて、「批評」という言葉がその迂回のために機能しているようで自分が出ているわけではないのにダメージを受けてしまった。まあそれだけ気にしてしまっているということでもあるのだが。
サブスク上でやりたいことのひとつは、相談を募集して、それに回答するのではなくただ相談文を添削し、そのビフォー/アフターを公開することだ。いま「ビフォー/アフター」と書いて思ったが、それこそ僕は匠で、「リフォームの匠」が出てきたときはイジられたりもしたし、企画タイトルは「添削の匠 相談文ビフォーアフター」とかでいいのかもしれない。
この企画を思いついたのは、まず、「相談」って強いなということで、SNS上でも質問・相談を文章のかたちで募って解答するマシュマロやmond(こう書いていま、ひょっとしてこれって「問答」から来ているのか?と気づいて恥ずかしくて鳥肌が立った。いや、「添削の匠」も十分恥ずかしいか)サービスが流行っていて、解答せずに添削だけするのはいい感じのスカし方かなということがひとつ。あれで何かが解決しているようには思えないし、相談者と回答者の非対称な相互承認自体が「拗れ」の要因でもあるはずで、それは回答者の道徳的スタンスとは別の構造的な問題だ。
もうひとつは、こないだフィロショピーで講座の感想をエッセイとして募る「フィロショ感想文コンテスト」をやって、応募作すべてを僕が添削してリライトしてもらったのだが、そのプロセスがとても面白かったことだ。実際、大学に行ってレポートを書いても点数がつくだけで細かく添削してもらうことはほとんどないし、応募者の方々からも添削・改稿によって晴れ晴れとした気持ちになったという感想をもらった。悩みは答えではなく添削を必要としているのかもしれない。哲学の世界でもよく「うまく問いを立てられた時点で仕事は9割終わっている」という言い方がされるけど、それと似たようなことが悩み事にも言えると思う。
あと、ここではもっと創作というか習作というか、もうちょっと実験的な文章も書いていきたいし、誰かに寄稿依頼したり、動画や音声を上げたり、いろいろやってみたいことがある。