水曜日のダウンタウンの最大の歴史的な発明は、ドッキリやリアリティショーの新しいかたちにあるのではなく、「説」という言葉の使い方にあるのではないかと思う。
開いた口を模したフレームのなかに大正レトロ的(?)なキッチュなフォントで書かれた「説」はもはやネットミームにもなっている(いまググったらすぐに「ロマン雪」というフォントだと出てきた)。特徴的なのは「〇〇という説」とか「〇〇の説について」ではなく、「ビートルズの日本公演で失神した人、今でもビートルズ聴き続けてなきゃウソ説」や「ドッキリの仕掛け人、どんなにバレそうになってもそう易々とは白状できない説」のように、長いセンテンスの末尾にただ「説」と付けるという、ちょっとつんのめるような感覚のあるフォーマットを使っていることだ。
これはおそらくライトノベルのタイトルから来ているものだろう。たとえば「転校生が死んだ姉にそっくりでどうしたらいいのかわからない件」(思いつきで書いた架空のタイトル。ちなみに僕には姉も妹もいないのでシスコンではない)みたいな「件」と水ダウの「説」の用法は、直接の参照関係があるというより、サブカルチャーのなかで培われた言語感覚としてつながっているものだと思う。
加えて、「ドッキリの仕掛け人、」や「失神した人、」のように名詞句を冒頭に置いて助詞を省く書き方はツイッター構文そのままだし、タイトルのフォーマットだけ見ても、バズるべくしてバズったサラブレッド的なミームであることがわかる。
しかしより重要なのは言うまでもなくタイトルのフォーマットではなく、「説」とその「検証」というこの番組の内容がもつ誘引力で、ここには陰謀論の跋扈や保守とリベラルの共依存的な泥仕合といった同時代的な社会状況を考えるヒントがあると思う。
ところで、『チ。』と『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』の作者である魚豊(ずっと「うおとよ」と読んでいたが正しくは「うおと」のようだ)こそ、現代でもっとも深く「説」の問題に切り込んでいる作家だろう。『チ。』は文字通り地動「説」をめぐる闘いの話であり、『ようこそ!FACTへ』は陰謀論というトンデモな「説」がもつ危険なもっともらしさを扱っている。この2作に共通するテーマは、まず説さえぶち上げてしまえば、そしてそれが人々の欲望をある程度焚き付けるものであれば、論も証拠もいくらでも後付けでき、人々の急進性・狂信性をどこまでもドライブするということだ。
したがって『チ。』と『ようこそ!FACTへ』の関係は、前者が社会的しがらみを潜り抜けて「科学的真理」に到達した人々を描き、後者が行き場のない社会的憤懣によって「見せかけの真理」に踊らせられる人々を描くというような、単純な色分けで済むようなものではない。むしろ本当に恐ろしいのは、両作品がメビウスの輪のように互いの背後に滑り込み合っていることだろう。このような複雑な関係が、『チ。』は巨悪との闘い、『ようこそ!FACTへ』はメンターとの出会いによる主人公の能力の覚醒という、少年マンガ的でさえある広く共有されたテンプレートに沿って作られていることも驚きだ。
とりわけ『ようこそ!FACTへ』は、主人公が陰謀論に絡め取られていく過程のディティールを通して——「良識的」な人々にある欺瞞も含めて——現代社会を描いたドキュメントとしても読めるものだ。
(*以下『ようこそ!FACTへ』結末の記述あり。そのあと僕なりの「説」地獄への処方箋を示します。)
主人公の渡辺は、高卒の非正規雇用社員として働く自身の境遇に不全感を抱えながらも、「論理的思考」が得意であるという自認を拠り所として生きている。そして彼にとって論理はロジカルツリーという各要素のつながりや分岐を矢印で図示したダイアグラムに宿る。
このダイアグラムの危うさは、あらゆるタイプの関係を矢印ひとつで因果関係に回収してしまうことにあり、ディープ・ステートとの闘争を画策する組織FACTの「先生」と出会うことで渡辺の能力は覚醒する。たまたま隣り合っていること、たまたま似ていること、たまたま繰り返されることが理由・意味の連鎖に絡め取られていき、世界全体がひとつの必然によって統べられる。とはいえこれは「伏線」の回収や「考察」に熱中する傾向と別種のものではなく、陰謀論者を他者化しないという倫理は本作を貫いている。少年マンガ的な物語類型の使用は批評的なパロディでもあるだろう。
興味深いのは、本作において必然性への閉じ込めが、具体的な距離感あるいはスケール感の失調として描かれていることだ。「東京S区第二支部」という矮小なスケールでの出来事と世界全体の不均衡が短絡するが——しかしそのような不条理な短絡なしに、ひとは「世界をよくしたい」などと思えるだろうか——反対に、渡辺の日常への回帰は遠いものの遠さ、近いものの近さの自覚としてなされる。それは夕日とピザまんの、滑稽な美しさをたたえた対比にも表れているだろう。しかし説明的に描かれているわけではないこの対比をこのように解釈して距離を潰してしまうこと自体がすでに多かれ少なかれ陰謀論的であり、魚豊の資質にはある種の底意地の悪さと区別できない冷徹なリアリズムがあると思う。
ところで、『ようこそ!FACTへ』のテーマが〈誰もが程度の差はあれ陰謀論者である〉ことにあったとするなら、僕が『群像』で連載していた「言葉と物」(とくに第2-3回)のテーマは、〈誰もが誰かを陰謀論者とすることで自身の「現実」を安定させている〉ことであった。前者が「説」の排他的な感染力を問題としているとするなら、後者は「説」をもつことへの畏れとないまぜになった嫌悪感を問題としている。
それはたとえば「思想つよ笑」という揶揄に端的に表れている。誰もが誰かを「狂信者」にすることで自身の実生活の「実」性を護っている。そして、「テロとの戦争」の時代から「コロナとの戦争」の時代への推移と軌を一にしつつ、もはや狂信者は特定の地域や人種として代表されず、誰もが自身にとっての「アルカイダ」と闘っている。引用リツートやスクリーンショットという武器で。