【あてなき企画書】哲学すること/しないこと入門

よく、それがまだ何なのかわからないタイトルを思いついて、とりあえずツイッターにメモしたりする。本なのかもしれないし、エッセイなのかもしれないし、レクチャーなのかもしれないし、場所なのかもしれない。「スパムとミームの対話篇」とか「郵便的、置き配的」とかはタイトル先行で書いた文章で、あるいは『非美学』も「非美学=麻酔論(Anesthetics)」というかたちでタイトルだけはずいぶん前からストックしていた。まだ内実のない言葉をワーキング・タイトルとして置いて、それを埋めていく過程で思いもしなかったところに連れて行かれる。僕はプロットを作るとどうにも書いている気がしなくて何をしているのかわからなくなってしまうのだが、この書き方はプロットを作ることの代わりのようなものなのだと思う。

「哲学すること/しないこと入門」もいつか何かにはなる言葉だと思うが、これはもう見るからに本のタイトルなので本になるとして、どんな内容になるのか、「企画書」というかたちでフォーマットや章立ても含めて構想してみようと思う。良し悪しだけど、僕はどうしても企画レベルから考えないとコンテンツの方向性が定まらない。トータルな見せ方から切り離して文章を文章として書くことに魅力をぜんぜん感じないのだ。

大ざっぱに言って、哲学はいつも、哲学することが偉いことで、哲学しないことはダメなことなのだとしてきた(ハイデガーの日常性への「頽落」という言い方にもそれは端的に表れている)。哲学入門書ともなれば、あからさまに権威的な見た目はしていないとしても、「誰でもできるんですよ/誰しもしてるんですよ」という優しい感じもそれはそれで、かえって哲学しないことの後ろ暗さを強めている感じがする。

はたして哲学すること/哲学しないことをどちらも等量でリスペクトするとはどういうことなのか? そこから始めることによってこそ哲学の実践性を考えることができるのではないか? というのが、この本のテーマだ。どこからこの問いにアプローチするべきだろうか。

性的なのは、まなざしなのか

2月は思ったよりバタバタして更新が遅くなってしまいました。とはいえちょこちょこ準備はしていたので、今日中にふたつ記事を上げようと思います。エッセイ、論考、習作、企画記事等いろいろやっていくのでぜひ講読よろしくお願いします。

今回は先日「赤いきつね」のアニメCMがSNSで炎上しているのを見て考えたことについて書きます。

僕はふだん性的なことにかんする話はほとんどしていなくて、原稿で書いたのも『ひとごと』に収録された『全裸監督』論くらいだと思う。とくにSNSはそういう話を気軽にできる場所ではないし、僕自身は何にでも口を出してタイムラインがニュースフィードみたいになっているひとを見るとキツいなと思うのでホットな話題について逐一何か言うということはしない。

今回のCMも、燃やされた側にとっても怒っているひとにとってももらい事故のようなもので、両者ともがもらい事故だと思っているからこそがぜん燃えるのだが、とにかくこのCM自体をこまかく表象分析してもしょうがないと思う。むしろ現代の広告や表現や言説の環境のなかでこういうことはこれからも頻発するだろうし、「まなざし」の奪い合いというその闘争の形式自体には出口がないだろう。この文章ではその出口のなさについて、そして性的欲望はそもそも「まなざし」なるものに還元できるのかということについて考えてみよう。

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カテゴリー: 日記

1月26日ver.2

深夜、お腹が減って、夜中でも開いているいちばん近所の店が松のやで、その松のやに行った。とんかつ定食の食券を買って水を注いで席について、これから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝する店内放送を聴きながら番号で呼ばれるのを待っていた。

壁にはこれもまたこれから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝するポスターが貼られており、店を見渡すと、松屋グループの廃油が飛行機の燃料に使われている旨を知らせるポスターも貼られていた。なんと年間で東京大阪間を238回飛ぶ量の廃油が提供されていて、それは「FRY to FLY Project」と呼ばれているらしい。久しく見ない愉快なニュースに元気が出た。ピンチョン的なユーモアというか。豚を揚げる。飛行機を飛ばす。なんだっていいのだ。