【あてなき企画書】哲学すること/しないこと入門

よく、それがまだ何なのかわからないタイトルを思いついて、とりあえずツイッターにメモしたりする。本なのかもしれないし、エッセイなのかもしれないし、レクチャーなのかもしれないし、場所なのかもしれない。「スパムとミームの対話篇」とか「郵便的、置き配的」とかはタイトル先行で書いた文章で、あるいは『非美学』も「非美学=麻酔論(Anesthetics)」というかたちでタイトルだけはずいぶん前からストックしていた。まだ内実のない言葉をワーキング・タイトルとして置いて、それを埋めていく過程で思いもしなかったところに連れて行かれる。僕はプロットを作るとどうにも書いている気がしなくて何をしているのかわからなくなってしまうのだが、この書き方はプロットを作ることの代わりのようなものなのだと思う。

「哲学すること/しないこと入門」もいつか何かにはなる言葉だと思うが、これはもう見るからに本のタイトルなので本になるとして、どんな内容になるのか、「企画書」というかたちでフォーマットや章立ても含めて構想してみようと思う。良し悪しだけど、僕はどうしても企画レベルから考えないとコンテンツの方向性が定まらない。トータルな見せ方から切り離して文章を文章として書くことに魅力をぜんぜん感じないのだ。

大ざっぱに言って、哲学はいつも、哲学することが偉いことで、哲学しないことはダメなことなのだとしてきた(ハイデガーの日常性への「頽落」という言い方にもそれは端的に表れている)。哲学入門書ともなれば、あからさまに権威的な見た目はしていないとしても、「誰でもできるんですよ/誰しもしてるんですよ」という優しい感じもそれはそれで、かえって哲学しないことの後ろ暗さを強めている感じがする。

はたして哲学すること/哲学しないことをどちらも等量でリスペクトするとはどういうことなのか? そこから始めることによってこそ哲学の実践性を考えることができるのではないか? というのが、この本のテーマだ。どこからこの問いにアプローチするべきだろうか。

まず外側から考えると、入門書である以上、値段は1000円台に抑えたい。だとすると新書がいちばん手っ取り早いが、とくにこだわりはない。いずれにせよそうなると字数は10-12万字になるだろう。

これなら書けるなという手応えはある。『非美学』を書き終わって、3回くらい哲学入門のレクチャーをする機会があって、この本で自分が何をして、それは哲学をどう再定義するものなのかということが、だんだんつかめてきている。

哲学は哲学の普遍性に寄りかかってきた。哲学は他の諸学問より高位にある「万学の祖」であり、個別のあれこれについてではなく自由や真理や善、存在といった普遍的なテーマを扱う。あるいはときに子供を「哲学者」と呼ぶように、哲学は無垢な人間性の発露とされる。それってウソじゃん、と思うし、哲学の面白さはそういう深くて偉くて無垢な感じとはぜんぜん違うところにあると思う。

それに対して、ドゥルーズは〈普遍〉を真っ向から拒否する哲学を構想した。彼は哲学とは「概念を創造すること」だと言ったが、これはひとりで沈思黙考するのでもなく、みんなで対話するのでもなく、ものを作ることをモデルとして哲学を再定義しているのだと言える。

ひとりでするにせよみんなでするにせよそこには人間しかいないが、哲学は何か具体的なものを作ることであるなら、そこには人間とものがある。「概念」とは何かという話はいったん脇に置いて、作るということは基本的には哲学者にとって書くことだとすると、そこには書く人間、書かれた文章、そして読む人間がいる。普遍的な真理や普遍的な人間性という幻想を哲学から剥奪して、物作りを哲学のモデルにすることには、おもに三つの批判的な意義があると思う。

  1. 哲学を頭のなかや天上のどこかある蜃気楼のような「観念」に閉じ込めず、目に見え耳で聞こえるものを生み出す営みとして考えること。
  2. 誰でも哲学するわけでもないしするべきでもないということをポジティブなものとして捉え返すこと。
  3. 哲学することで作られたものを媒介とした、人間どうしの非対称な関係をポジティブなものとして捉え返すこと。

これらは『非美学』で言うところの「見て、書くこと」と「異種形成性」が交わるところにあるアイデアだ(逆に言うと『非美学』はそういう話として読めばいいのだということが、いまになってわかってきた)。この、ドゥルーズの哲学観を全体の軸にしつつ、哲学の歴史を総ざらえするというのが本の大枠になるだろう。

もうひとつの補助線は、あらゆる哲学は「抽象的なもの」をどのように定義するかという側面と、それを実際の社会のなかでどう処遇するかというふたつの側面をもっているというアイデアだ。これ自体「概念の創造」の言い換えであり、また古くからある形而上学と倫理学、認識と実践の二元論の捉えなおしでもある。

プラトンの「イデア」はまさに抽象的なものそのものを措定する試みであり、それは人間を統治する人間をいかにして選ぶのかという政治的−実践的な問題への切実な応答でもある。そしてここにはすでに人間を統治する人間としての哲学者と統治される人間としての非哲学者の分割が埋め込まれている。

哲学史とはこのふたつの側面のバリエーションであるとするなら、哲学することの意味の変容にはつねに哲学しないこと、哲学しない者の位置づけの変化がともなっている。

目次としては、この観点からプラトン、デカルト、カント、ベルクソン、デリダ、そしてドゥルーズを見ていく哲学史の流れに沿ったものになるだろう。章立てを固有名詞で作ることがいいのかどうかは迷いどころだが。

書けそう! でもやるとしても来年以降ですね。まだ入門書を書くには人生経験が足りないという感じもあるし。

性的なのは、まなざしなのか

2月は思ったよりバタバタして更新が遅くなってしまいました。とはいえちょこちょこ準備はしていたので、今日中にふたつ記事を上げようと思います。エッセイ、論考、習作、企画記事等いろいろやっていくのでぜひ講読よろしくお願いします。

今回は先日「赤いきつね」のアニメCMがSNSで炎上しているのを見て考えたことについて書きます。

僕はふだん性的なことにかんする話はほとんどしていなくて、原稿で書いたのも『ひとごと』に収録された『全裸監督』論くらいだと思う。とくにSNSはそういう話を気軽にできる場所ではないし、僕自身は何にでも口を出してタイムラインがニュースフィードみたいになっているひとを見るとキツいなと思うのでホットな話題について逐一何か言うということはしない。

今回のCMも、燃やされた側にとっても怒っているひとにとってももらい事故のようなもので、両者ともがもらい事故だと思っているからこそがぜん燃えるのだが、とにかくこのCM自体をこまかく表象分析してもしょうがないと思う。むしろ現代の広告や表現や言説の環境のなかでこういうことはこれからも頻発するだろうし、「まなざし」の奪い合いというその闘争の形式自体には出口がないだろう。この文章ではその出口のなさについて、そして性的欲望はそもそも「まなざし」なるものに還元できるのかということについて考えてみよう。

まず、さっき書いたように、個別事例として今回のCMを性差別的か否かをジャッジすることには僕はあんまり興味がない。今回はむしろきわめて境界的なゾーンにあるものだからこれだけ論争になっているのだと思うし、ジャッジする前にこの境界的なありようそのものの組成を考えたほうがいいと思う。

僕個人の印象で言うと「どちらかというと不快」という程度で、しかしいまやたいていの広告は不快なので、そんなことを言っても詮ないと思う。たぶん今回の炎上も、広告一般が不快であることへの鬱憤がまずベースにあって、「赤いきつね」がその恰好のスケープゴートになってしまった側面もあるだろう。YouTubeにもアップされた有名企業の広告だし、ウェブ広告みたいにランダムなものでもないから共有されやすかったのもある。

しかしなぜ不快だったのか。それはやっぱり、さんざん指摘されている潤んだ目や赤くなった頬といった動画の細部に関わっていて、全体として性的に感じられたからだと思うのだけど、性的なイメージであることと不快であることは直接イコールでは繋がらないし、ましてや性的かつ不快であるとしてそれが企業CMとして不適格であるかどうか、不適格であるとしてどういう実際的な対応がありうるかはそれぞれまったく別の問題だ(性的だと思うやつがエロいのだという擁護側の言い分は小学生以下だと思う。何をもって性的だとするかという定義問題に引きずり込むのも目くらましだ)。

不快だったのは、こういう映像を見ると、〈自分のものでない欲望を勝手にトレースさせられている感じがする〉からだ。そしてこの傾向は実写より、いわゆる「萌え要素」(東浩紀『動物化するポストモダン』)が記号化されたアニメのほうが強いと思う。キャンセル・カルチャーvs表現の自由の対立でしばしばマンガ、アニメの表象が論点になるのも同じ理由だろう。

これがこれと組み合わさるとエロい感じがするというルートがあって、あなたもそうでしょと、あるいは、こういう欲望があるんですよとそこに強制的に乗せられることに拒否感を覚える。直接的な表現があるわけではないからこそ、今回はその機械的・人工的な欲望の側面が際立って騒ぎを呼び込んだのだと思う。

たとえば少し前に、奇しくも同じカップうどんの広告で、一人暮らしの部屋で星野源がどん兵衛を食べるとキツネの耳と尻尾をつけた吉岡里帆が現れるというCMがあった。これも多分にマンガ、アニメ的なイマジネーションで、かつ、内容的にもより直接的に性的な場面だ。それなりに批判もあったと思うが、実写であり、最終的に吉岡里帆という個人に(肯定的であれ否定的であれ)リビドーが向くので、「赤いきつね」CMほどの、記号をめぐる解釈学的な論争にはならなかった(そちらのほうがよほど恐ろしいことだとも思う)。

僕が気になるのは、〈誰かの欲望を勝手にトレースさせられる〉ことは、はたして「まなざし」のロジックに回収できることなのかということだ。

直感としてはむしろ、まなざしのロジックは擁護側と批判側のあいだのある種の共犯関係を形作るのに寄与しこそすれ、それを解体するものにはならないだろうと思う。そもそも「性的まなざし」という言葉を振りかざしている者のうちどれくらいがサルトル、ラカン、ローラ・マルヴィのいずれかでも読んでいるのかという話でもあるが、こうした物言い自体マンスプレイニング以外のなにものでもなく、哲学由来の議論の俗流化とある種の理論的武器の「無敵化」は裏表の関係にある。

あのCMを見て、なんか嫌な感じ、気持ちがざわざわする感じがするのは、はたして「ここには女性を記号的に扱い一方的に消費する男性のまなざしがあるぞ」と推論したからなのだろうか。その推論自体めちゃめちゃ記号的でないだろうか。僕にはそれが、記号化された欲望に引き込まれたことへの記号的な反発に見える。そこでは「女性」も「男性」も「消費」も「まなざし」も引用符に括られる。擁護側と批判側の共犯関係は、対象がアニメだからそのようなことができるのだという点にかかわっている。吉岡里帆を引用符に括られたものの束に還元することの暴力性(実際のところ有名人は多かれ少なかれそういうことをされる運命にあるが)を前にすれば多くの者が踏みとどまるのに対して、アニメ相手なら良識的な人びとですらそういうブレーキが効かなくなる。

たしかに、フロイト以来のフェティシズム理論を持ち出すまでもなく、人間の性的欲望は多かれ少なかれ記号化されているだろう。その不自然さこそが人間の自然であって、記号の外のリアルで純粋な性を神秘化するほうがよっぽど危うい。

しかし他方で、まなざしのような、見る主体と見られる客体、能動と受動を截然と分けて、主体的で能動的なものを絶対的な始点とするような概念を所与としたとたんに、そうした構造がどこから来たのかということは問えなくなってしまう(それこそフロイトの「子供が叩かれる」がすでに取り組んでいた問題だ)。

フーコーは「革命によってわれわれは王の首を切り落としたが、政治理論はいまだ王に依存している」と言った(大意。たしか『知への意志』)。これは平たく言えば政治学が「絶対者」に依存しているということなのだが、今回の論争もまた性的欲望の一方向性、そのなかでの男性の優位という「王」に依存している。そしてまなざしという概念はこのふたつが交差する地点にある。

匿名的、機械的、記号的な欲望のレールに引き込まれた者が、それに対して「これは私の欲望じゃない」と拒否感を覚えること、反対にそのような暴力的な誘引にこそ欲望をかき立てられること、それを知的に再構成して批判してみせること、その知的な再構成の人為性を再演して嗤ってみせること、これらすべてが同じゲームのルールに従っている。そのルールは、見せられる(「見られる」ではなく)ことの受動性という側面を秘匿(否認?)しつつ、すべてを見る/見られるの関係のもとに回収することだ。

フロイトは「子供が叩かれる」で、表面的なサディズム/マゾヒズムのシーソーゲームの根底には根源的なマゾヒズムがあるのではないかと考えた。あるいは『眼がスクリーンになるとき』という本で僕は、ベルクソンとドゥルーズの知覚論・映像論を、見せられることの受動性(眼=スクリーン)が主体的で能動的なまなざし(眼=カメラ)に先行するような理論として再構成した。そういう系譜もあるが、SNSでの論争にはどちらの陣営にとっても都合が悪いので省みられない。

まなざしのゲームにおいて否認される、しかし実際はそれに先行する受動性とは、そもそもわれわれが性的欲望をインストールされてしまっていること、その「そもそも」に対する受動性だ。まなざしに性的欲望が宿るより前に、性的なものとしてまなざしを作る欲望があるのだとも言える。

あらゆる画面にわれわれを「釣る」ためのイメージがこびりついている。それ自体が何かをまなざしているのではなく、むしろそれはわれわれを「まなざす者」というポジションに押し込めるために、セックス、金、美醜にかかわる情動をパッケージングした記号をちりばめている。時限爆弾をリレーするようにまなざしを自分以外の者に押しつけることはその構造を解決しない。だとすると、「釣り」的でもなく、純粋でナチュラルな身体性に寄りかかるのでもないセクシュアリティこそが開発されなければならないだろう。「たとえば?」、「え、僕に聞いてます?」

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カテゴリー: 日記

1月26日ver.2

深夜、お腹が減って、夜中でも開いているいちばん近所の店が松のやで、その松のやに行った。とんかつ定食の食券を買って水を注いで席について、これから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝する店内放送を聴きながら番号で呼ばれるのを待っていた。

壁にはこれもまたこれから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝するポスターが貼られており、店を見渡すと、松屋グループの廃油が飛行機の燃料に使われている旨を知らせるポスターも貼られていた。なんと年間で東京大阪間を238回飛ぶ量の廃油が提供されていて、それは「FRY to FLY Project」と呼ばれているらしい。久しく見ない愉快なニュースに元気が出た。ピンチョン的なユーモアというか。豚を揚げる。飛行機を飛ばす。なんだっていいのだ。

去年から突然、イセザキモールのキャッチには居酒屋、ホストクラブ、中国系マッサージ、風俗、ガールズバーに加えて、コンカフェの店員が並ぶようになった。こんな街ではコンカフェは続かないだろうと思っていたが、ベンチコートの季節になってもまだチラシを配り続けている。コンセプトもなにもないだろうと思っていたのだが。

18で大阪に出て、夜に街を歩くのはとても新鮮な経験だった。中崎町、お初天神、兎我野、夜になってもたくさんひとがいる梅田の東側のそのあたりをひとりでよく歩いていた。朝まで開いている喫茶店もあった。キャッチをひとりやり過ごすごとに大人になったような気がしていた。

イセザキモールの天敵は夕日である。関内駅から一直線に西南に伸びるその商店街の先端にちょうど太陽が沈むので、4時頃になるとやりきれないほどまぶしい西日に貫かれる歩行者と、それに気づく様子もなく逆光で黒いシルエットになっている歩行者に二分される。夕日といえば山に沈むものだったが、ここではそういうことでもない。

ベローチェの2階席の正面は大きい窓になっていて、道を挟んで目の前の関内駅に電車が滑り込んでくるのが見える。とつぜん店内が明るくなって目を上げると、窓を横切る京浜東北線の車体に小さい太陽のかたちがくっきり丸く浮かび上がり、反射光をこちらにダイレクトに投げかけている。16時25分。この季節のその時間だけ、夕日、京浜東北線、ベローチェの2階席が対称な位置を取るのだ。額に手をかざす歩行者たちと背中合わせで同じ光に貫かれ、一瞬にして意識が戸外に染み出していく。

曽根さんの《Perfect Moment》というプロジェクトの話を思い出す。ある遊園地の、あらゆる遊具のいちばんの瞬間がすべて完璧に一致する瞬間を収める映画を制作するプロジェクトで、その制作の様子が一連のラフなドローイングで描かれており、まだ実際の映画は作られていない。一方でそれを「まだ」というのも変な話だし、他方でドローイングとして割り切って作られているわけでもない。それは両立する。その、スペルミスだらけの英語の書き込みがなされたドローイングのなかで、ディレクターである曽根さんはたしか、したたかに酔っ払っていて、女の子に気を取られたりして、完璧な瞬間が刻々と迫るなかみんなに急かされていた。