よく、それがまだ何なのかわからないタイトルを思いついて、とりあえずツイッターにメモしたりする。本なのかもしれないし、エッセイなのかもしれないし、レクチャーなのかもしれないし、場所なのかもしれない。「スパムとミームの対話篇」とか「郵便的、置き配的」とかはタイトル先行で書いた文章で、あるいは『非美学』も「非美学=麻酔論(Anesthetics)」というかたちでタイトルだけはずいぶん前からストックしていた。まだ内実のない言葉をワーキング・タイトルとして置いて、それを埋めていく過程で思いもしなかったところに連れて行かれる。僕はプロットを作るとどうにも書いている気がしなくて何をしているのかわからなくなってしまうのだが、この書き方はプロットを作ることの代わりのようなものなのだと思う。
「哲学すること/しないこと入門」もいつか何かにはなる言葉だと思うが、これはもう見るからに本のタイトルなので本になるとして、どんな内容になるのか、「企画書」というかたちでフォーマットや章立ても含めて構想してみようと思う。良し悪しだけど、僕はどうしても企画レベルから考えないとコンテンツの方向性が定まらない。トータルな見せ方から切り離して文章を文章として書くことに魅力をぜんぜん感じないのだ。
大ざっぱに言って、哲学はいつも、哲学することが偉いことで、哲学しないことはダメなことなのだとしてきた(ハイデガーの日常性への「頽落」という言い方にもそれは端的に表れている)。哲学入門書ともなれば、あからさまに権威的な見た目はしていないとしても、「誰でもできるんですよ/誰しもしてるんですよ」という優しい感じもそれはそれで、かえって哲学しないことの後ろ暗さを強めている感じがする。
はたして哲学すること/哲学しないことをどちらも等量でリスペクトするとはどういうことなのか? そこから始めることによってこそ哲学の実践性を考えることができるのではないか? というのが、この本のテーマだ。どこからこの問いにアプローチするべきだろうか。