「語彙力」について

本当の語彙力とは、ある語の使用範囲と価値の変動に敏感であることなのではないか。

高校の頃、初めてノイズキャンセリング機能が搭載されたウォークマンを買って、これから「キャンセル」という語は、予定の取消しみたいなこととは別の文脈でどんどん使われるのだろうなと思った。いまでもそのときの感触をよく憶えている。

「キャンセル」の使用範囲はどのように拡張し、なぜ「セルフ」はセルフサービスの略語として定着し、「民主主義」と「成熟」が結びつくようになったのはいつからなのか。こういう問いこそが言語の問いで、オノマトペや記号接地のハードプロブレム化自体が目くらましに見える。

ここまではこないだツイートした内容で、これに関連して考えたことを書いておこうと思う。

数年前から、ツイッターやYouTubeのコメント欄で、文末に「(語彙力)」や「(伝われ)」と書かれているのを見るようになって、どういう機序でこういう表現が出てくるようになったのだろうと気になっていた。

おそらくこうした表現は「エモい」という言葉の流行と繋がっている。自分が何かを受け取って心が動かされる。しかしそれがどのような感動であったのかということは語れない。なぜならそこから先は自分の話にならざるをえないし、自分語りほど疎まれるものはないから。だから、もっと語彙力があったなら伝えられたものがいま私のなかにあります、ということしか言えない。

したがって本当の問題は語彙の多寡ではなく、自分の話をするための形式の貧しさだ。「語彙力」はその貧しさを隠し、隠すことによって私に「内面」があることを間接的に示すためのついたてのようなものだ。

あるいは、「言語化」という言葉の流行も似たような流れにあると言えるだろう。なんにせよ能力というものは、それを使う場所に依存するものであって、それはたとえば「英語力」というものの捉えどころのなさを考えればわかる。もちろん基礎的な語彙と文法は必要であるにしても、コメント欄に「(語彙力)」と書く人は何かそれ以上のもののことを言っているだろう。そして問題は、コメント欄という場所にあっては、何かそれ以上のものを欲しているというポーズが求められはしても、実際に何かそれ以上のものを語ることには大きなハードルが設けられており、それを超える者は厳しいジャッジに晒されるという学校の教室みたいな経済が働いていることだ。

つまり単純に適応ということで見れば「(語彙力)」ほどふさわしいものもない。しかしそれってしょうもなすぎないかというのが考えるべきことであって、実際の語彙力はその問題から目を逸らさせるための口実のようなものだ。だから、いちばん手っ取り早い解決は、引用リツイートやコメント欄という場で、コンテンツについてものを言うということをやめて、もっと他人の干渉の少ない場、教室みたいに目に見えないルールが張り巡らされていない場で書くことだ。たとえば日記帳。日記帳に「ヤバすぎる(語彙力)」なんて書かないだろう(書くのかもしれないという気もしてきたが)。あと単純に字数の問題だ。2万字書いて最後に「(語彙力)」と書く人はさすがにいないだろう(さすがに)。

あと、オノマトペや記号接地のハードプロブレム化自体が目くらましなのではないかということについて、これはいつかまとまった文章にしたいのだが、現段階での考えをメモしておく。

オノマトペはそれ以外のタイプの言葉より身体的であるとされがちで、そうであるがゆえに単一の言語を超えた特徴をもつとされがちで、そうであるがゆえに普遍的な人間本性のようなものと接しているとされがちだと思う。ルソーが擬音語を最初の言語だと考えたのは有名な話だ。

しかしこの、身体→超言語→人間本性というなし崩し的な敷衍は疑わしく思う。むしろ人間本性を超言語的なものに期待する気持ちが先にあって、その行き場としてオノマトペという身体的な感じがするものが採用されているのではないか。「身体的な感じがする」ことこそがオノマトペの効果、つまり意味なのであって、オノマトペ自体はその他の語とおなじく単なる語、なんであってもよい記号の連なりである。

いやいや、「がちゃがちゃ」と「ふわふわ」という音を聞けば、日本語話者でなくても前者のほうが「硬い」感じがするでしょうよと言われるだろう。でも、特定の音素と物理的な質感のあいだに一言語を超えた類縁性があるとしても、すぐさまその類縁性が「身体的」だということにはならない。まだうまく言えないが、そのギャップはそんな簡単に超えていいものではないはずだと思う。

気散じさんのためのiPad mini執筆術

ここ最近対談やら遊びやらで都内に出て人と会う機会が多く、生活リズムも気温も乱れており、疲れが出たのか数日前から風邪気味です。

ちょうど以前から予約していた耳鼻科の診療日が月曜日で、そこで鼻と喉の炎症がかなりきているということで抗生物質をもらって飲んだからか熱が出たりはしていないのですが、頭がふわふわして、体に力が入りにくいです。声もいつもと違うところから出ているような。

先日出た『新潮』に掲載されたヴェネチア・ビエンナーレ評は好評なのですが、エゴサで見つけるより直接伝えられる感想のほうがずっと多く、連載「言葉と物」のときからそうなのですが、もうSNSって感想空間じゃないのかなと思います。SNSが感想空間だった20代を過ごしてきた身としては寂しいものだなと。僕自身去年からずっと毎日何かの告知や宣伝をしているようで、人様のことはぜんぜん言えないのですが。

宣伝といえば、来週金曜、21日に批評家の福嶋亮大さんとの対談があります。面識もないし喋っているところを動画で見たこともないのでどんな感じになるかわかりませんが、ヌルい話にならないことはたしかです。仲良しどうしが関係性を再確認するだけのようなトークばかりですからね。あと、このブログももっと読んでほしいので購読よろしくお願いします。

それで、最近はずっと、外での作業はもっぱらiPad miniでしています。僕は仕事の大半を近所の喫茶店でやっていて、締め切りに追い込まれたとき以外は家ではメールの返信等の雑務くらいしかやりません。

これまではMacBook Airを持ち歩いて、家に帰るとそれを閉じたままモニターに繋いでクラムシェルモードでデスクトップ的に使うというかたちでやってきました。仕事(?)として文章を書くようになってからの7, 8年ずっとこれだったかも。

これはこれでシンプルでいいのですが、USB-Cハブを抜いたり繋いだりすることも煩わしいと言えば煩わしいですし、なによりMacBook Airは大きくて重たいです。それに、僕のような基本的にはテキストデータしか扱わない人間にとって、ラップトップPCというのはそれだけでオーバースペックで、よいしょと開いた画面の広がりですら、大袈裟に言えば家具の組み立て説明書を広げたような、ここから順番通りに何かを選んでやるべきことをやらねばならないのだという圧のようなものがあります。それと同じ理由で反対に、スムーズにいろいろできるのですぐに気が散ってしまう。

iPad miniを外出専用機とすることでこうした困難は解消しました。この文章では「A4サイズからの解放」「縦置きという解答」「マウスなしという暴力」「心配ない。われわれにはギガぞうがいる」「オススメアプリ」というトピックに分けて、iPad miniで執筆することの軽やかさ・静けさについて書こうと思います。安い・小さい・軽いという以上の、ラップトップにはない積極的なメリットが、iPad miniにはあります。ぜひ参考にしてください。ガジェット系ブログみたいで楽しいですね。

A4サイズからの解放

iPad mini(第6世代)を外出時のメイン機材にしてよかったことのうち、自分にとってもそれが嬉しいこと自体が驚きだったのは、荷物がA4サイズから解放されたことです。MacBook AirがだいたいA4サイズで、何年ものあいだ僕にとって、外に出かけるということはA4サイズのものを鞄に詰めることとほとんどイコールでした。たしかに学生時代は授業で配られるプリント類も自分の発表資料も基本A4で、クリアファイルもつねに持っていて、A4をひとつの基準とする根拠のようなものがありました。

しかし紙なんてほとんどもう持ち歩きませんし、どこかで配られても折ってしまえばいいのです。あのクリアファイルというものがあるから、A4のものをA4のままぴしっと管理しなければならないというプレッシャーが生まれるのであって、その逆ではない。

それに、これは次のトピックにも関わることですが、MacBook Airを持ち歩くということは、A4のものを横長に広げて使うということ意味します。それはほとんど人間の体と同じ幅で、道具としてはかなりデカいです。それに、デスクにA4の紙を横長に広げて使うのならA5ノートを広げれば同じことです。何が言いたいかというと、それ以上折り曲げられもしないA4サイズのものを持ち歩くのは不合理だということです。さらに言うと、MacBook Airは閉じた状態でA4サイズなのであって、それで作業をするのはA3用紙を縦に広げるようなもです。ここまでくるとほとんど模造紙で、動画の編集ならいざ知らず、文章を書くのに向いているはずがありません。

(めちゃくちゃなロジックで楽しくなってきました)

他方で、僕は11インチのiPad Airも持っているのですが、これはこれでたんに、片手で持つには重すぎるという理由で鞄に入れられることはなくなりました。こちらは紙で言うとだいたいB5サイズですが、B5ノートを常用するひとであれば11インチのiPadでもいいかもしれません。しかし11インチは中途半端だし、ラップトップの代わりという感じが強く、縦置きにすると圧迫感があるので、やはりminiまで振り切りたいところです。

少なくとも僕にとってのポイントは、本も単行本はA5だし、ノートもA5で、iPad miniもA5(よりひと回り小さい)で、主たる荷物のすべてが同サイズにまとまることの気持ちよさです。MacBook Airを持ち歩いていたときに比べると大きさも重さも半分で、気持ち的にも「せいぜいキロバイト単位の文章というものを扱うとはこれくらいのことなのだ」というフィット感があります。

縦置きという解答

とはいえ、iPad miniだけで執筆しているわけではなく、Bluetooth接続のモバイルキーボードを繋いで、本体の背面に着けたMOFTのスタンドで縦置きにして使っています。

このスタンドは横置きにもできるのでそれで動画を見たり漫画を読んだり、あるいはペンシルで書き込んだりすることもあるけど、キーボードで作業するときはもっぱら縦置きでエディタやアウトライナーを開いています。

8.3インチの縦位置の画面。いまもそのかたちで執筆していて、エディタの1行あたりの文字数を数えると全角28字。フォントのポイントはたぶん9-10くらい。見たほうがわかりやすいと思うのでスクショを貼っておこう。

めちゃめちゃちょうどよくないですか? なにがいいかというと、「これで全部」感があっていいのです。逆に、ラップトップの横長の画面でエディタを開くと、ウィンドウの外のものがつねに見えてしまうし、全画面表示にしても左右の余白が広すぎて「覆い隠している」感があったりサイドバーがつねに目に入ったりして、どうやっても「これで全部ではない」感が残ります。ウィンドウの両脇につねに他の可能性がちらつくというか。

つまるところ、パソコンの横長のディスプレイというものは、マルチウィンドウのためのものであって、シングルウィンドウで集中することととても相性が悪いのだと思います。

パソコンのソフトであっても、テキストエディタというものは基本縦長でウィンドウを広くことを想定して作られていると思います。横書きで、全角25−35字くらいで行を折り返して、左右に5字ぶんずつくらい余白が残るのがおそらくちょうどよくて、これはなんということのない、A5版の書籍の横書きのレイアウトそのままです。

ひとつ難点があるとすればiPad miniは縦書きには向かないことです。縦書きにこだわりがあってiPadを使いたい人は11インチ横置きで使うのがいいかもしれません。難しいのは、僕が知る限り、縦書き対応のエディタはすべて、縦書きにしてもメニューの位置は変わらずインターフェイスの上下にあり、行幅がとても狭くなってしまうことです。これが、縦書きのときはメニューが左右に移動するものが出てくると、iPad mini横置き&縦書きというスタイルの選択肢が増えるかもしれません。僕個人はPCでももともと縦書きはしないので気にならないのですが。

マウスなしという暴力

iPad miniとキーボードだけ、ということは、マウスはなしです。最初は外出用の小さなマウスを買って使っていたのですが、たんに丸っこいものが荷物にひとつあるということが煩わしくなって、ある日いちど、マウスを鞄に入れないままえいやと外に出てみました。

するとどうでしょう。ぜんぜん気が散らなくなるのです。ここまで書いてみて気づいたのですが、この執筆術があまりにADHD特化型なのではないか、普通のひとはもっと普通に集中できるのではないかという気がしてきました。

ともかく、マウスというものはかなりの曲者で、なにより触っていて気持ちよすぎます。とくに近年のApple製品は、マウスであれトラックパッドであれタッチスクリーンであれ、サッサッスッスッと撫でるだけでめくるめくいろんなことが起こるので、その知育玩具的な快楽につられて気づくと別のアプリを開いてタイムラインをキューっと引っ張ったりしています。

これが先ほどの横長のディスプレイと組み合わさってしまうと、このひとつの縦長のエディタだけに集中せよというのは、なんというかほとんど、認知的拷問のようなものではないでしょうか(そうだそうだ!)。

マウスがないとそのような手遊びはできません。もちろん画面に手を伸ばして画面に触れれば同じことはできます。しかしそもそも自動的な手遊びというものは、机の上に両手があり、しかし作業が止まっている状態で発生するので、もともと手元にあるものをいじることはあっても、そこからさらに手を伸ばしてしまえば、それはもう手遊び→気散じではなく気散じ→手遊びになってしまっています。まだできるのにそれを途切れさせる前者を防ぐことが肝要なのであって、後者はむしろ休憩のタイミングの指標でしょう。

iPadなのでマウスなしでも実質的な制約はありません。机からマウスを追いやり、キーボードと、エディタだけが占める縦長の画面に向かい合うことで、「自分の仕事は上から下に文章を連ねることなのだ」ということが、ほとんど身体的な説得力をもって、気の散りがちなわれわれにしっかりインストールされます。

ちなみに僕はマウスなしに慣れて、行頭・行末に移動したり複数選択したりのショートカットキーを自然に使えるようになってきました。

心配ない。われわれにはギガぞうがいる

しかしみなさんは、ネットはどうするのか、Wi-Fiがないと使えないのは不便だし、かといってセルラーモデルは高いしSIMまで契約しなきゃいけないぞと思われているのではないでしょうか。心配いりません。われわれにはギガぞうがいます。ギガぞうは月額500円で登録できるWi-Fiのサービスで、ドトールもタリーズもベローチェもスタバも、ギガぞうアプリから契約・設定すればスポットに入ると自動でWi-Fiに繋がるようになります。

店のフリーWi-Fiに繋いだり自分のスマホからテザリングしたりするひと手間ふた手間が解消されるだけといえばそれまでなのですが、それが結構大きいですし、パソコンだって条件は同じです。それに、ギガぞうは500円プランで5台まで登録できるので、iPadメインではないとしても、外出先で作業をすることが多い人は契約しておいて損はないと思います。

オススメアプリ

最後に、iPad miniで使っている執筆関連のアプリを紹介します。ちなみにiPad miniには仕事で使うアプリ以外入れないことにしており、SNSアプリはなく、通知はすべてオフにしており、Safariですらホーム画面には入れていません。

  • Ulysses
    • メインのエディタ。シンプルでMacとの同期もスムーズで註も書けるのがいい。この記事もこれで書いて、エクスポート機能を使ってサイト(Wordpress)の下書きボックスに直接飛ばしている。原稿の場合はdocxとしてエクスポートしてPCで確認・整形して編集者に渡す。
  • Workflowy
    • 原稿のアイデア出しから粗い下書きまでに使う。フィロショピー等の講義レジュメはこれで最後まで作る。これもMacとの同期がストレスなくできる。アウトライナーの機能面としては僕が説明するまでもないでしょう。
  • PDF Expert
    • ゲラの赤入れとPDF文献を読むのに使う。A4のPDFでも拡大すれば読むのにストレスは感じない。
  • Noteshelf3
    • ペンシルでノートを取るのに使う。手書きは紙のノートを使うことのほうが多く、あまり使わない。フィロショピーで図を描いてリアルタイムで画面共有するときには便利。ノートアプリもいくつか試したがこれがいちばんいいと思う。
  • Kindle
    • Kindle。本を読むのに使う。マンガが唯一のiPad mini内の娯楽。

気づけば5000字も書いてしまいました。今回からコメント欄を設置しているので気軽にコメントしてください。また次回!