ひとつエッセイを書き終わった。
それは結果として、『ひとごと』に収録された「スモーキング・エリア#2——音響空間の骨相学」と「Tele-visionは離れて見てね」というエッセイの続き、というか、後日譚のようなものになった。
エッセイはぱっと来てぱっと返すもので、とうぜん独立して読み切れるものなので、そのなかでこうして、三つの文章をまたぐテーマ系が生まれるのは独特の嬉しさがある。理論は後からやってくるものだということが体感できるというか。
三つのエッセイには、ひとことで言えば「視聴覚室としての居間」というテーマが通底している。食卓があってテレビがあるというモデルという単純なモデルのあとで、視聴覚機器にあふれた部屋のなかで、どのような団欒のかたちがありうるのか。
たとえば西川裕子の『借家と持ち家の文学史』という、明治以降の日本文学を作家の、そして作品内の人物の居住環境と家族形態の変化という観点から総覧する、新聞連載をもとにした本がある。彼女自身は論争的な書き方をしているわけではないが、風景と内面のカップリングという柄谷的な図式をマテリアリスティックに解体する仕事とも言えるだろう。風景と内面の両極のあいだにある家という中間的なスケールから後発する〈私〉のかたちを辿ること。それは西川の『日記をつづるということ』にも通底する態度だ。
それで、「視聴覚室としての居間」プロジェクトは西川のスタンスを僕なりに引き継ぐ仕事でもあると思う。これまで書いてきた一連の展評/インスタレーション・アート論も視聴覚室の話として統合しうる。日記論の次に一冊の本というスケールで展開するのは部屋の話になるのかもしれない。ちょうど昨日、レビューを書く予定のグループ展を見たのだが、それもインテリアという観点で書くことになりそうで、自分の部屋についての一連のエッセイと美術批評の蝶番になるだろう。
ともかく、今回書こうと思うのは、このようにアイデアが育っていくときに何が起こっているのかということだ。僕はよくアイデアを「転がす」という言い方をするが、その内実はどのようになっていて、とりわけ文筆業という仕事の構造とどのように関わっているのか。とりわけ文章の二次使用という観点から書いてみようともう。
あらためて不思議なのは、文章というプロダクトは二次使用のハードルがとても低いということだ。どこかの雑誌やウェブメディアに書いた文章を、他の版元から出す本に載せるというときに、ダメだと言われることもないし、お金を取られることもない。クライアントワークなのに納品したものの所有権は書き手にあるという、変な構造なのだ。