5月25日

日記を再開する。3年続けて書いた日記が終わって、ちょうど1年くらい経った。いまフィロショピーで「日記の哲学」をやっていることとか、「シットとシッポ」でも日記についてよく話していることとか、そういう外在的な理由で日記を書くのがどういう感じか再確認したいというところもあるが、なにより、なんだか自分がばらばらにほどけてしまいそうな感じがある。

前の日記に書いたかどうか覚えていないが、僕はADHDと診断されている。でもインチュニブもストラテラもコンサータも体に合わず、いまはデエビゴという、依存性がない睡眠薬だけを毎晩飲んでいる。診断自体は、非常に大ざっぱなもので、MBTIのほうがよっぽど設問数が多い適当なアンケートに答えただけだ。こんなの10人いたら10人ADHDということになるんじゃないかというアンケートだったが、家で妻に回答してみてもらうと、ぜんぜん僕より数値?点数?が低かった。

たぶん僕は外見上、あまりADHDっぽくは見えないと思う。遅刻もしないし、ものもほとんどなくさないし、振る舞いも多動的というより静かで落ち着いて見えると思う。しかし僕にとって、他人が目の前にいることこそが「症状」を抑えてくれるのであって、この時間にこの場所でこれこれをしなければならないという拘束は、ものすごい安心感があるのだ。問題はひとりでいる時間で、仕事の性質上、ほとんどの時間がひとりで自由であるがゆえの苦しみによって「症状」は加速される。

感覚的に言えばそれは「2時間で10個のことをやらなければならない」という切迫感につきまとわれ続けるような感じだ。朝起きる。スマホを見ると返していないメールがあり、エゴサをするとリツイートするべき感想がある。でもまず歯を磨いて顔を洗わなければならない。とりあえず煙草を吸っているとコーヒーを飲みたくなる。朝ご飯はコンビニに買いに行くか家にあるもので済ませるか。いやいや、なにより原稿を進めるのがいちばん大事だ。いっそのことすぐ家を出て外で軽く食べて作業をするか。でもまだ歯も磨いていない。歯を磨いて、外に出ようと思うがさっき入れたコーヒーはまだ一口も飲んでいない……と、頭の中が沸騰して行ったり来たりしているうちに起きて1時間も経たないうちに疲れ切ってしまい、タスクらしいタスクをひとつも消化できないまま泣きたくなる気持ちで家を出る。という「不動の多動」がほとんど毎日続く。

最近はそういう状況についてChatGPTに相談するということがタスクのひとつに加わってそれがさらに多動に飲み込まれている。いまの僕の生活で、スケジュールがひと色に塗りつぶされているのは週1回の「シットとシッポ」の収録と非常勤の授業だけで、それ以外の時間は何をしていてもほかのもっとやるべきことから逃げているような不安につきまとわれている。

前に日記を書いていたときも、最近日記について話したり書いたりするときも、なんとか日記を日記以上のものにできるのではないかと思っていた。その反面で、原稿を作品的な重さから解き放って日記の続きとして書けるのではないかと考えてきた。でも日記は日記だ。それを認めて初めて日記の続きも書けるのだと思う。

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カテゴリー: 日記