10年以上ずーっと、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』に対してどこかひっかかるところがあって、今日初めてそれが何だったのかわかり、いま自分が考えていることとばーっとつながって、「来たな」と思った。
忙しいのに退屈なのはダメだとか、暇なのに退屈ではないのがいいのだとか、そういう話全般において前提されている、時間の一様性が引っかかるのだ。「可処分時間」という言葉を使うときに前提されているような、スケジュール帳のグリッドに色分けされた仕事と余暇、そのなかで「ワークライフバランス」をどうするかという問いの立て方自体が、現代の苦しさ、そして楽しさを描くのにふさわしいモデルとは思えない。
われわれが「忙しいのに退屈」だと感じているとすればそれは、たんなる労働時間の多寡の問題ではなく、われわれの生活がおもにスマホによって、眼と耳と指というマルチモーダルな経験へと引き裂かれてしまっていることにあるのではないだろうか。動画を観ているだけだと指が寂しいし(だから10秒単位でスクロールできるショート動画がいい)、パソコンに向かって文章を書いていると耳が寂しい。そんななか、眼と耳と指を一挙に占有してくれるゲームが、ようやく、われわれの時間を、ひと色に塗りつぶしてくれる。
ジャーナリング関係の本はしばしば「1日1行」、あるいは「1日5分」だけでいいから毎日書くことを勧めている。それは、われわれの可処分時間の希少さを示しているというよりも、仕事でもゲームでもないのにひとつの時間にひとつのことをするということのハードルの高さを示しているのではないだろうか。