広島で財布を失くして、悲しいし、諸々の再発行は面倒なのだが、同時に、どこかちょっと嬉しく、どこかちょっとすがすがしい。それで、煙草もやめることにした。明日誕生日で33歳になるし、ふと、30代のテーマは「10代になると同時に40代になること」だなと思った。20代の頃は10代が恥ずかしかったが、30代になると20代の頃が恥ずかしい。そして僕にとって煙草は20代のエンブレムで、そういうものとして保存するためにも、いまがやめどきなのだろうと思う。
ものを失くすというのは、フロイト的には典型的な神経症の症状だ。僕は精神的に追い込まれると、スマホや財布を失くしたと思い込んで必死に探して、諦めたと思ったら家の電子レンジの上とか、どうしてそんなところに置いたのかと思うようなところにあるのを見つけたりする。その裏面で、いわば、財布に溜まっている「キャッシュ」を削除するのは無意識的な断捨離のようなもので、広島で失くすというのは、そういうことでもあるのだろうと思う。
いまは『置き配』の初稿を書き終わりつつあって、ひとつの作品を仕上げるというのは、脱皮に似たところがあって、新しい皮膚に当たる風が恐ろしいような感じがする。煙草を吸っていて、煙草を吸っていない状態になるために煙草を吸っていることに気づいてしまった。それはちょっとショックで、つまり僕は、煙草を吸わなくてよくなるために煙草を吸っているのだ。それはちょっとショックで、つまり、煙草を吸わないということが煙草をいちばん吸っているわけで、それは禁煙というより、煙になることなのだ。しばらく経つと胸がムズムズするが、それは煙草が吸いたいからではなく、煙草を吸わなくなりたいからなのだ。ということを考えながら大学の喫煙所で煙草を吸って、煙草とライターをゴミ箱に捨てて、授業をした。