6月14日( ハラサオリ「プレイ・モデュロール」)

ハラサオリさんのレクチャー・パフォーマンス、「プレイ・モデュロール」のポストトークに出た。慣れない仕事だしハラさんとも直接会うのは初めてだったので不安もあったが、いろいろ内外のことを語りたくなる作品で楽しく話すことができた。さっきまで見ていた舞台でさっきまで見ていたひとと横並びになって喋るのは猫町(萩原朔太郎)的な感じで出て行ったときは現実に追いついていなかったが、スクリーンに表示される観客からのコメント(たぶん土方巽原理主義的な感じのひとによる)がいきなり批判的なもので嬉しくなり、ハラさんも生き生きしていたのでそのまま加速していけた。近所の腰が曲がったおじいさんが靴紐にG-SHOCKを着けていたというエピソードだけを、これがあればなんとか乗り切れるだろうと持っていったが、なくてもなんとかなった。もったいないので途中で話したが。

その場でも聞いたが、僕がいちばん気になったのは、現代の情報環境のなかでいろんなものの通り道になり、そういう道として振り付けられる体のありかたを示すこの作品が、体が透明になり草薙素子的に溶け出していくことを扱っているとすれば、スマホ首や自律神経失調症のような、体に沈殿していくものをどう考えるのかということだ。メディアや情報環境がわれわれを振り付ける。眼と指の狭いフィードバックループに巻き取られていく。問題は、そうした構造のしわ寄せによって生まれるスマホ首的なものが、社会的なものではなく個々人の体の問題とされること、そうしてセルフケアの切迫自体がまたひとつの振り付けになることではないか。そういえば開演前に、斜め前に座った男性は両耳たぶを優しくつまんで回していた。あれも自律神経に効くマッサージだ。このことは話し忘れた。

投稿日:
カテゴリー: 日記