早いもので『非美学——ジル・ドゥルーズの言葉と物』(河出書房新社)の刊行から1年が経ちました。正直、刊行前はかなり不安で、たんなる博論本の話題なんて2週間もまたずに消費されてしまうだろうという危機感もあって、同じ年に『眼がスクリーンになるとき』文庫版と『ひとごと』を出したり、なんとか存在感を維持させようとしてきました。それは、『非美学』についての、これはいま読まれるべき本だという自負心と、しかしこういう本がいますんなり受け入れられることは難しいだろうという醒めた認識とのギャップの表れでもあります。
振り返ってみればそのギャップのなかでもがいていくのはなかなかキツかったなと思います。それでもどうにかこうにかやってこれて、ひとつのご褒美としてじんぶん大賞をいただくことができたのも、読者の方々のおかげだと思います。
『非美学』はドゥルーズどうこうの話を抜きにして言えば、アウトプット過剰の社会のなかで、いかにしてインプットとアウトプットの関係を倫理的で創造的なものとするかということを考えた本です。もちろんそれは哲学や批評の実践性の話でもありますが、もっと広く、生きることや作ることの話として受け取ってもらえているように思います。
僕はこの1年で、本の感想をいただいたりフィロショピーを始めたりして、一般的に見て「現代思想」的なものがもっていたアウラが凋落し、社会学や芸術学等の周辺領域で熱心に取り入れられることが少なくなっても、まだまだリテラシーというものは作れるのだなと実感するようになりました。それこそ『非美学』は、一般的なリーダビリティとは違う、特殊なリテラシーを要求する本です。でもそれはたんなる専門性ではなく、感覚的な言い方しかできませんが、実際自分で読みながらその場で調達できるリテラシーなのだと思います(本というものには現地集合、現地解散に似た気楽さがあります)。というか哲学書はもともと、プラトンからウィトゲンシュタインまで、そしてドゥルーズやデリダは言わずもがな、そういうふうにして書かれていますし、そういうふうにして読まれてきました。問題はそういう現地調達的、局所的なリテラシーを、いましかできないかたちで再発明することです。
それで、この文章ではあらためて『非美学』がどういう本なのか、いまの僕の視点から考えてみようと思います。安っぽく聞こえるかもしれませんが、僕自身まだこの本を読んでいる途中で、まだまだここから引き出せるものはあると感じています。一方でこの点についてはほかの読者の方と同じ条件なのだと思いますし、他方で僕自身の今後の仕事が『非美学』のポテンシャルを証明することになると思います。
とはいえいまさら真正面から解説するのも面映ゆいところもあり、先日刊行された表象文化論学会の学会誌『表象19』に掲載された、森脇透青さんによる「非美学イデオロギー」という題の書評への応答を通して、あらためて『非美学』の狙いと構成について説明してみようと思います。
リーダビリティとリテラシー
さて、森脇さんの書評は、ものすごく批判的な内容です。『非美学』は「読みづらい」本であり、本書の一貫性は理論的なものではなくぼやっとした「イメージ」に託されているにすぎない、それは欺瞞的な「非美学イデオロギー」なのだ、という主張です。
掲載誌を受け取って一読したときに最初に思ったのは、なぜ彼自身は構造的に読めているのにこれほど読みづらさ/読みやすさにこだわり、さらにその点について感情的な負荷をかけているのだろう、ということでした。彼の批判はきわめてつまらないものであり、彼のいう不備が本当に不備なのだとして、それをあらためなければならないのなら、僕はものを書くことの意味を根こそぎにされてしまったように感じるでしょう。繰り返しますが、彼自身は的確に『非美学』の大枠をまとめており、一般的な解説というレベルではじゅうぶん読めているのです。なぜその先で、自分が受け取ったものについて批判的に考えるのではなく、その先に存在しないものを相手に格闘しているのでしょうか。
そもそも、仮に『非美学』がものすごく読みやすかったらどうなっていたでしょうか。たんなる憶測ですが、たぶん森脇さんは読みやすすぎると言って同じように怒ったと思います。彼は三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるか』に対して将来残らない本だと言ったり、『史上最強の哲学入門』の飲茶さんに消えてほしいと言ったり、本の内容に関係ないことで悪口としか言いようのない発言をしていますが、ふたりがなぜ批判されているかというと、「軽薄」だからで、つまり、読みやすすぎるからです。
もちろんいたずらに読みにくいものはダメですし、読みやすければいいというのも短絡的です。それ以上でもそれ以下でもなく、個別の本のリーダビリティそのものを問題化しても生産的な話にはならないことは、彼自身どこかでわかっているはずです。つまり問題は、彼がなぜか知らないがリーダビリティの問題に取り憑かれており、局所的なリテラシーのありようを分析・評価しようとしていないということです。しかし書評に求められているのはまさにそういう仕事で、「切り捨て御免」的な乱暴さに頼ったところで評者自身にとっても、言論の世界にとっても、何ひとついいことはないのではないでしょうか。彼はXで僕について「書き手を名乗るべきではない」とまで言っていますが、自分の言葉の力を自分で毀損しているようにしか見えません。
彼は『非美学』の「読みづらさ」を自身で具体的に検証しているわけでもなく、過去に書かれた書評4篇(丹生谷貴志、福嶋亮大、小倉拓也、浅野雄大による)の、本書の難しさについて触れた箇所を証拠として振りかざしています。しかしそれぞれ読んでもらえればわかるのですが、この4篇はどれも全体としては肯定的な内容で、しかし、通り一遍の人文書と思うとケガをするよ、決して読みやすいわけではないよという、あくまで書評の読者へのコーションとして読みづらさを指摘する意図が大きいように見えます。
加えて、僕はこの点がいちばんびっくりしたのですが、彼の書評は、『非美学』を「良心的」に読むことを、あたかもそれが劣ったことであるかのような態度で棄却しています。良心的に読まないと得られないようなものには意味がないということでしょうか。しかしどんな本であれ良心的に読まなければ得られるものなどないのではないでしょうか。しかし本当の問題は、実際彼はけっこう良心的に読んでいる(だからこそ的確に要約できる)ということで、むしろその内実から自分なりの考えを引き出せなかったことが、感情的な拒絶として表れているのではないかと思います。そしてこのことが、内容面での批判の中心にある、『非美学』における「文学の不在」という問題にかかわってきます。
つまり彼は、自身の「良心的な」読みに意味を与えようとして、そこに存在しないものの話をすることしかできなかったわけです。僕の考えではそれは能力の問題というより心理的なロックの問題で、どういうことかと言うと、おそらく彼は、『非美学』という本の全体をあますことなく串刺しにできるようなクリティカルな何かを見つけなければならないという義務感に囚われてしまっているのではないかと思います。しかしまさに僕の本はそういうことはやっても詮ないと書いているはずで、つまり、〈すべて〉を言おうとするとどうしたって「超然と内在を言う」だけになってしまうので、むしろ重要なのは〈いくつか〉を自分なりに拾って繋げることです(皮肉なことに森脇さんが唯一肯定的に評価しているのはこの「超然と内在を言う」ことへの批判でした)。
僕が面白いと思うのは、一見求道的な〈すべて〉や〈まんべんなさ〉は実は甘えた形式で、〈いくつか〉への偏りにおいてこそ自分の仕事が試されるのだということで、この逆転は『非美学』のひとつのハイライトだと思います。たとえば彼は東浩紀に代表される「否定神学批判」の系譜についての僕の議論を取りあげて、自分には違う考えがあるとほのめかしていますが、良心的な読みを斥けてまで存在しないものについて紙幅を割くくらいならこのトピックについてしっかり書いてくれればよかったのにと思います。
文学の不在?
そして『非美学』は「言語芸術」としての文学をオミットしている、その排除によって言語=哲学と物=芸術の二元論が維持されているのだ、それはまさに否定神学的だからダメなのだ、という批判は単純にミスリードだなと思います。
それは第一に、『非美学』はジャンル問わず具体的な芸術作品について一切論じていないからです。本書で芸術作品として論じられているものがあるとすれば、それはアズマヤドリが木の枝で作るドームや、熱帯魚の鮮やかな体表といった事例だけです。そしてこれは、森脇さんが挙げる『非美学』における諸々の二元論にはなぜか数え入れられていない、しかし僕自身はいちばん重要だと思う、〈人間と動物〉の二元論に関わっています。
第二にそもそも、「このシステムはXの排除によって成り立っている」という批判の型自体が否定神学的なのではないでしょうか。『非美学』にはニーチェもラカンも出てきません。ドゥルーズの芸術論を扱っているのに彼が『襞』で重視した音楽や建築の話も出てきません。不在はたくさんあり、穴ぼこだらけです。それは僕がドゥルーズから〈いくつか〉を引き出すことで、本来ドゥルーズの言葉などではない「非美学」という語にドゥルーズという署名を偽造すること、その偽造によって福尾匠という固有名が意味を獲得すること、それが哲学の仕事であり、哲学史とはそのような運動の連続なのだと考えているからです。
おそらく、良心的なまとめを離れたとたんに訪れる彼の混乱は、『非美学』において哲学と芸術の関係は観点であってテーマではないということを見逃していることに起因するのではないかと思います。本書のテーマは序論の冒頭で示している通り、あくまで哲学の実践性と他者の関係です。哲学するとは何をすることであり、その行為を触発する他者との関係はどのようなものであるのか。そしてこのテーマを追跡するにあたって、ドゥルーズのキャリアのなかで哲学と芸術の関係がどのように変化したかという観点が採用されている。ここで観点とは海洋学者が鯨に着けるGPSタグのようなもので、あくまでそれを通して浮かび上がってくる運動や変化のほうにこそ意味があります。
そしてその運動が、『非美学』の第6章でまとめているように、〈能力論→言語論→他者論〉という移行として整理されます。図式化すると次のような構造です。
哲学 | 芸術 | |
---|---|---|
1)能力論 | 思考 | 感性 |
2)言語論 | 言語 | 物体 |
3)他者論 | 人間 | 動物 |
そしてこの三つのステップがきわめてざっくりと言って『非美学』の第1−2章、第3−4章、第5−6章に対応します(あくまでこれは大局的な推移で、実際は細かく行ったり来たりしている)。これを単線的なストーリーに圧縮すると次のようになる。
1)ドゥルーズは『差異と反復』で思考の発生=哲学の開始という問題に取り組み、感性的な芸術作品に触発されて哲学的な思考が立ち上がることをひとつの範例としていた。しかし一方で異質なものとして前提された諸能力が他方で、連携を約束されているという矛盾がそこには残っている。
2)その後のドゥルーズの『シネマ』は、思考を哲学に閉じ込める態度から抜け出している。むしろイメージによる思考の実践として映画に向き合い、映画が実現している思考を「映画の概念」として掴み出すことが目指されている。つまり、思考と感性という主体に内属する能力ではなく、イメージと概念という、いずれも外在的な対象の異種性に重心が移行している。この変化と、ドゥルーズが哲学の定義とした「概念の創造」が言語行為論の語彙で語られていることは軌を一にするだろう。そしてこれは『千のプラトー』においてドゥルーズが、言葉と物という外在的かつ異種的なものの二元性(そのすれ違い)によって人間の社会を定義し、同種の個体の再生産によって形成される生物学的・動物的な環境と区別したことの実践的な帰結であるとも考えられる。
3)『哲学とは何か』で彼は、芸術は人間を待たずに始まる、つまり、芸術は動物的な表現であると述べるが、このとき芸術作品から触発されて書く批評とは何なのか。そこには〈死にゆく動物に直面して書く〉というきわめてデリダ的な問題に対する、まったくデリダ的ではない解答がある。『非美学』ではそれを「非−喪」と呼んだ。
ドゥルーズはなぜ動物の断末魔が物書きの頭にこびりついて離れないのかと問い(たとえばカフカの鼠の叫び、あるいは鞭打たれる馬車馬とニーチェの錯乱)、それは生の有限性に感じ入る「憐れみ」によるのではなく、むしろ臨終にあってすら生成を求める生への直面なのだと考えた。動物が死という隠喩=形象への釘付けから逃れ生成するほどに、物書きは動物に生成する。しかし厄介なのは、一方で〈動物への生成変化〉を超然と称揚して済ませてしまうことであり、他方で書くことが叫ぶことになってしまえば他者性が潰れてしまうということだ。ここから『非美学』の〈眼を逸らさなければ書けない〉というテーゼが出てくる。
非−喪とは他者に直面して、書くということを、憐れみによる同一化(あるいはその不可能性)という内面的な価値に回収することなく、見られたものから書かれたものへという外在的な形式のリレーとして肯定する創造の最小の条件だ。それは自身が他者から受け取ったものを、相互的・人格的なコミュニケーションに回収してもそれを保存することはできないという倫理的な条件でもある。
さて、こうしてみると、『非美学』にクリティカルな不在があるとしたらそれは、〈文学の不在〉ではなく〈哲学は文学であるという宣言の不在〉なのではないかと思います。哲学することを特殊な言語行為として、そして〈書くこと〉として考える以上、哲学=文学という定義はある意味で必然的に要請されるものでもあります。
しかしそれこそ、哲学は文学だと「超然と」言い張ってもしょうがないわけで、『非美学』はその宣言を避けて実地にやってみせることに留まるストイシズムに貫かれているとも言えます(そこまで気張る必要があるのかと言われれば、いちどはそれでやりきるしかなかったのだと思います)。したがって宣言の不在はまさに森脇さんが言うところの、その排除によってシステムが成立している否定神学的なものなのかもしれません。こういう批判であればたしかにそうかもなと思います。
とはいえ他方で、この観点に立てば、彼が書評のなかで無視している、エクリチュール−有限性−動物というきわめてデリダ的な問題系が浮かび上がってくるわけで、不在のものについて語らずとも、東浩紀論を書きデリダ研究をしている彼にしか書けないことはあったはずです。つまり、否定神学批判、そして人間と動物の関係というふたつのスキップされているトピックにおいてこそ森脇透青という書き手がどのようなリテラシーを開発し、何を考えている人間なのかということが表れるのではないでしょうか。なぜそれをやらずに語調ばかり強めているのか、職務怠慢ではないかと思います。
日記や『ひとごと』に収録されたエッセイも含め、僕が広く自分の活動を文芸実践として展開しようとしていることは彼も知っているはずです(『日記〈私家版〉』を出したときにポッドキャストのゲストに呼んでくれましたし)。それを加味するのはあまりに「良心的」だということなのでしょう。それはそれでわかります。でも「一般読者」を代弁することを自身の書き手としての固有性より優先させることが正しいことだとは思いません。
おわりに
書評への応答はここまでにしようと思います。書いていたら思いのほか楽しくて長くなってしまいました。『非美学』をまだ読んでいない方には伝わりにくいところもあったかもしれませんが、まあまあリーダブルに書けた気もするので(この点については自信を喪失しかけていますが)、本を読みながらのガイドにしてもらえればと思います。
書くのも読むのも結局は現地調達です。もちろん一般的に通用する形式や技能もある程度のところまでは機能しますが、それによってその場にあるものや自分がやりたいことを見失ってしまっては意味がありません。
『非美学』はこのような意味で、窮乏にもとづくプラグマティズムの本でもあったのだと思います。その場しのぎでスリッパをドアストッパーにするような一般的な用法からの逸脱は、「豊かさ」からは生まれません。だとすると問題は、ここでの「貧しさ」とデリダ的な「有限性」の差異でしょう。おそらく貧しさはいまここにある現実性に関わり有限性はいつかどこかにある可能性に関わるという、様相の違いがクライテリアになるのだと思います。そしてそれは外在的なものの操作と内面的な納得の違いでもある。ドアストッパーがないからドアが閉まってしまうなあと納得していても現実は動きません。
そしてここに『非美学』が、脳と身体という現代思想において典型的な、ふたつの内面化の形式に抗っていることの意味があるのだと思います。脳もそうであるようなネットワークなるもの、豊かな、あるいは有限な身体性なるものは、しばしば現代的な理論にとっての基底的なイメージとして採用されます。でもそれが、その外に出ていかずに済ませるための口実として機能しているとしたら、言葉や物として、そこらへんに転がっているものとの出会いを本当には肯定することができなくなってしまうのではないか。
だとすると、豊かさとも有限性とも違うものとして、貧しさのポジティブなありようを示すべきではないか。これは『非美学』に書かれていることではありません。でもこのように書けばそのように読むこともできます。それが〈いくつか〉のなかで、貧しさのなかで読むということ、書くということなのだと思います。