ここ最近気づくと、ウィトゲンシュタインの日記、アドルフ・ロースの『装飾と犯罪』、そしてホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』と、読書ラインナップに世紀転換期のウィーンが食い込んできている。と、この一文をGemini 2.5pro(僕はGemini派なのだ。双子座なので)に投げてみると、きれいにウィーン・モダニズムの社会的背景と言語への不信を結びつけて説明してくれた。ちょうど昨日から、最近何かとたとえに使っているカフカの『城』を光文社古典新訳文庫版で読み返していて、ウィーンではなくプラハで活動したカフカも同じ時期に二重帝国の捻れに飲み込まれた書き手ですねと聞くと、それもきれいにまとめてくれて、満足する。それはAIチャット的としかいいようのない、慰めに満ちた満足だ。たしかに、帝国が崩壊しナショナリズムが台頭し、美的なものが飽和し、言葉がウイルスのように増殖する100年前のウィーン/プラハで、書いたり作ったりするって何なのかと、人生全てを使って考えた彼らに立ち返りたい気分なのかもしれない。