9月7日
たぶん15年くらいぶりにふと丸山眞男の『日本の思想』を読み返す。前に読んだときは内容もぜんぜんわからず、雲を掴むような読書だったが、いまとなると自分もこの本の続きにいるのだということが感じられる。
二点思いついたことがある。
日本においては歴史が弁証法的に発展せず、雑多な伝統が空間的にストックされるだけだという批判はよくわかる。しかし、理論と現実が対決する場としての歴史を日本に作れるかというと、やっぱり無理なんじゃないかという気もする。もし問題そのものから作り変えるとすれば、なぜ日本の思想は空間ではなく空間「的なもの」に基礎的な思考のイメージを求めるのか、という観点はありうるだろう。というか、「ポシブル、パサブル」以降、次の本もそうだが、僕がやってきたのはそういうことなのだなと思う。今西錦司の「棲み分け」も柄谷行人の『日本精神分析』も東浩紀のデータベースモデルも、そして丸山も空間からメタファー以上のものを取り出そうとしない。
それと、戦前戦中の左翼の転向はある種の「帰省」としてなされていたのだなと思い、ニック・ランドの「声」と「出口」の対比は、日本では「お気持ち」と「実感」のぐずぐずな対立に変換されているのでは、と思った。
9月8日
荘子くんと近美の戦争画展を観る約束をしていたのだが、竹橋駅に着いてふと月曜であることに気づき、調べるとやはり休館日だった。とりあえず合流して近くの定食屋で焼き魚を食べて、靖国神社と遊就館に行くことにした。遊就館は、太平洋戦争を必死にやらされた戦争にしようとするあまり、大東和共栄圏という当時の理想を語ることすらできなくなっていたのが面白かった。靖国には三つも喫煙所がある。思いのほかゆっくり観てしまい荘子くんの子供のお迎えの時間になり、収録は明日改めてすることにした。