10月30日

有隣堂でボールペンを選んでいると、おばちゃんがレジの店員に「これのシャボン玉色ある?」と聞いていた。

ソフトバンクが勝って日本シリーズが終わって、妻が残念がっていた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月29日

『置き配的』の告知をするまで、そして告知をしてからしばらくは気持ちがざわざわしていたが、いまは落ち着いた。

シットとシッポの収録で外苑前に向かう。銀座線に乗っていると隣に立ったおばあさんのスマホが見えて、LINEで「ちょっと込み入っているから」、「でも無いか」、「うーん」、「この気持ちはラインでは伝わらない」と書いていた。「無い」が漢字なのと、「ライン」がカタカナなのが気になった。そのことと、返答を待たずに間投詞で区切ってチャットを投げる今っぽさと、フリック入力の素早さとが共存している。現実は情報量が多くてよい。

夜、妻が作ってくれた参鶏湯をテーブルに準備してテレビをつけると、日本シリーズの阪神対ソフトバンクがやっていた。最近YouTubeで野球関係の動画をよく見ているわりに試合はぜんぜん見ていないし現役選手のことも知らないのでそのままにしていると、妻は野球はわからないから見たくないと言った。僕も知らないがルールは分かるので、点が入る仕組み、2ストライク以降はファウルがストライクにカウントされないこと、なぜピッチャーは牽制球を投げるのか、果ては犠牲フライまで説明する。村上春樹にも犠牲フライを説明する場面があったようなと思ってググったが出てこなかった。記憶が牡蠣フライと混線しているのだろうか。だいたいわかると妻は僕より熱心に見始めて、煙草を吸いに行こうとすると止められる。今度ハマスタに見に行こうよと言われて、4月まで次のシーズンは始まらないよと答える。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月24日

大前粟生さんに誘われて上野公園でピクニック。誰でも来ていいと募ったら僕らのほかに6人集まった。駅に着くと小雨が降っていて、国際子ども図書館は空いているだろうということで、そのなかのカフェでお茶をする。館内で日本の児童書の歴史を辿る展示を見る。展示されている本をそのまま閲覧できて、ふと石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』を手に取ると、冒頭で語り手がノンちゃんの人柄を紹介しており、いまの小説にないのは「報告」なのだなと思う。もともとノヴェルはニュースでもあったわけで。そうするとホラー小説の流行も、報告というスタンスが取りやすいからかもしれない。最近の小説は一行目から「世界でござい」という感じで読む気が失せる。ホームズのワトソンやギャツビーのニックみたいに報告者を作中人物にするか、ノンちゃんやカラマーゾフのように筆者(とされる語り手)の前口上を入れるか、いろいろかたちはあるが、読者が読者でいられる報告の気楽さみたいなものがあると思う。その点最近大前さんは日記形式の小説を書いているが、それもそういうところがあるのかもしれない。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月22日

YouTubeで自分がぜんぜん知らない世界の、しかし聴いていれば構造は理解できる細かい話を聴くのがとても心が安らぐのだが、最近はよくプロ野球関係の動画を観ている。おすすめに出てきた2004年のプロ野球再編騒動を振り返る座談会の動画を観て、これはいまのところ最後にして最大の、いわゆる「自浄作用」がちゃんと機能した事例なのではないかと思った。ナベツネを中心とする球団オーナーたちが勝手に描いていた、段階的にチーム数を減らしてセパをひとつにまとめるという青写真に対して、とりわけ選手会長の古田がそのことの重大さを素早く察知し選手やファンを巻き込んで試合のストライキまで実施して踏ん張って、なんとかセパ12球団というかたちは維持された。それから楽天やDeNAといった新興企業が参入し、ここ数年のプロ野球の盛り上がりは、近所に横浜スタジアムがあるので僕もいつもすごいなと思って見ている。話を聴いていて、どうしてもいまの、高市が自民党総裁になって以降の野党のぐだぐだや、議席数を減らそうという動きを重ねて考えてしまった。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月20日

妻の昼ご飯が僕の朝ご飯で、妻の晩ご飯が僕の昼ご飯というように生活時間がずれていて、妻が寝てからひとりでご飯を食べるのだが、自分だけのために自炊する気も起きずたいていコンビニで買ったものなどですませるところ、先日1キロぶんの手羽先と手羽元で作った水炊きのスープが残っていたので、それを使ってリゾットを作る。洗っていない米をオリーブオイルで炒めて、沸かしたスープを少しずつ足しながら15分ほど炊き、米の硬さを確認し、火を止めてバターを溶かして削ったチーズを混ぜる。ちょっとくどくなってしまった。出汁を白ワインとかでもう少し伸ばしていたほうが良かったのかもしれない。まあ自分で食べるぶんにはじゅうぶんだが。食器と鍋を洗って、換気扇の下で煙草を吸う。鍋の底に残っていた水滴を、火にかけて蒸発させる。しゅわしゅわと水がなくなるのをじっと見る。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月19日

昨晩寝る前、布団の中で、なにか、日記とは何かということについてひらめきがあったのだが、起きたら忘れていて、さっきそれが日記とは「死ぬときに思い出さないこと」を書くものだということだったことを思い出した。夢と同じで、入眠前の思いなしは目が覚めてみると文字通りなにか醒めた色あせた感じがするものだ。でもまあ、これはこれでひとつの真実ではある。死ぬときに思い出せそうなことも結構なものだが、生きるとはそういうものではない、言わばサイレントマジョリティによって成り立つことであって、そういうものに言葉を与えることが、本当は文学の機能であるはずだ。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月18日

シットとシッポを始めたときから荘子くんが勧めてくれていた『ミゼリコルディア』をまだ上映しているところがあると知って観に行くことにする。ツイッターでエゴサをしていて、「福尾匠がいくら勧められてもぜんぜん観ない『ミゼリコルディア』を観にきた」というツイートがあって知った。観に行くとつぶやくと「ついに!」という反応があって、映画を観るだけのことに謎のレバレッジが生まれているのが面白いと思った。逆蓮實重彦だ。

それで、妻も誘って、池袋の新文芸坐の夜の上映に向かった。池袋は僕も彼女も馴染みがなく、食事できるちょうどいい店を探してうろうろ歩き回る。なぜ池袋なのにこんなに人が多いのか。結局TOHOシネマズが入っているビルの1階の、いつでも朝食のメニューが食べられるというコンセプトのニューヨーク発祥の店で、チーズオムレツとトーストを食べた。たしかにいつでも朝食のメニューが食べられるのは嬉しい。ベーコンも追加した。映画の感想はまたポッドキャストで話す。妻が池袋は嫌な感じだと言っていたので、イセザキモールもなかなかだよと言うと、イセザキモールはいいのだと言った。たしかにまあ、イセザキモールは下品なところにも芯から生きられた感じがあるが、池袋の下品さは浮ついている。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月17日

前切ってからまだたぶん1ヶ月くらいしか経っていないのだけど、気分を変えたくて散髪。ちょっと野暮ったいマッシュみたいな感じにしていたのだけど、最近髭を伸ばしっぱなしにしていて、これはこれでありかなと思い始めたので、それにあうかたちで、耳が出るくらいサイドを短くしつついろんな長さが混ざったザクザクした感にしてもらう。かなりイメージ通りになって、僕は髪型が自分に似合っていると感じたことがほとんどないので満足した。

夜、また10キロ走る。どんどん速くなっている。走るたびに速くなる。毎回発見がある。今回は腕の振り方と肩甲骨の連動について発見があった。腕を振っている感がかえって、肩甲骨の動きを制限することがある。むしろ肩甲骨が肋骨を押し出す感じは肘から下を固定したほうが得られる。キツくなってくると右側の首だけ突っ張ってくるが、それを自覚しつつ痛みをなだめられるように力の抜き方を探ると、自然とペースが上がる。整体にもなる。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月15日

昼に起きて顔を洗おうとすると水が出ない。水道が止まっていた。夏に広島で財布をなくしたときにクレジットカードを再発行してから、自動支払いのカードを登録しなおすのを忘れていたのだ。妻が家を出るまでは止まっていなかったようで、水が出ないと困るだろうから、よかったと思った。水道局に電話すると、ポストに払込票を入れているので、コンビニから支払えば今日中に開栓するとのことだった。すぐに降りていってセブンで払って、折り返し電話する。また「お客様番号」と住所を繰り返して支払った旨を伝えて、どれくらい時間がかかるかと聞くと、それは開栓の業者の都合によるので、そちらのほうから電話するようにすると言われる。出かける準備をしているとすぐに業者から電話がかかってきて、2時間以内には開栓できると言う。僕が家にいる必要はないことを確認して家を出た。ドトールで、いつも資格の勉強をしているガタイのいい縮れた茶髪の男の向かいに座り、どうやったら自分を忙しくできるかということについてノートに書きながら考える。妻から仕事が終わって珈琲館に行くというLINEが来て、傘がないので止んだら向かうと返す。結局しばらく待っても止みそうになかったので小雨のなか歩いて珈琲館に向かう。起きたら水道が止まっていた話をする。やはり彼女がいるうちは止まっていなかったようだ。昔、まだ一緒に住んでいなかった頃、彼女がうちに遊びに来ていて、今回と同じような理由で電気が止まったことがあった。帰ると水が出るようになっていた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月12日

ざっくり近況。先週『置き配的』の再校ゲラを返して、それで僕の作業はほぼ終わった。そこからデザイン等を詰め、予算に基づいて価格や部数が決まり、そろそろ刊行情報がリリースされる。前もどこかで言った気がするが、こんなに自分がこれからどうなるかわからないのは10代のとき以来だと思う。20代は働きたくないしお金がもらえるらしいという理由だけで大学院に行って、博士に入ったら学振ももらえて、『眼がスク』の話がきて、あとは博論を書いて本にするという、良くも悪くもなんにも考えなくても転がっていった。『非美学』刊行前後はコロナ禍も重なり体調的にも厳しかったが、もぞもぞいろいろ試していたおかげでもう自分は肩凝り腰痛が酷くなることはないだろうという自信を得られたのは大きい。ちょっと張ってきたら気づくし、なにをすればいいのかわかる。いまはフィロショピー第4期の準備をしている。これからどうするのか。事業として成立させるために頑張るのかこのまま気楽にやるのか考えどころだなと思う。『置き配的』もどうなるか。類書がないのでわからない。

投稿日:
カテゴリー: 日記