11月11日

Suicaのペンギンが来年でいなくなるというニュースが流れてきて、妻がグッズを買うくらい好きだったのですぐLINEでリンクを送った。さっきまた、ペンギンの「卒業」にはJRの今後の事業戦略が象徴的に表れているという考察が流れてきてなるほどなと思った。要するに交通という身近なサービスの顔としてこれまでペンギンがいたのだが、これからSuicaはPayPayや楽天を相手取るような金融の世界に舵を切っていくようで、そのときキャラという存在はいわば人格的過ぎるということなのだろう。もっと抽象化すれば、キャラの世界とロゴの世界のあいだで綱引きがなされていて、Suicaは後者に路線を変えるということなのだと思う。顔の見えるサービスからインフラへ、商品から金融へ、身近さから信頼へ。コンビニでもどこでもキャラのいない場所はないが、今後キャラというものは、ある種の貧しさの象徴となっていくのだろう。ちいかわがそのいい例だ。200円で1ポイントみたいなペラペラの余剰価値の、その薄さに滑り込む、眼差しなき顔。

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11月10日

井上拓真と那須川天心の試合に向けたドキュメンタリーをYouTubeで見る。拓真は良くも悪くも、井上尚弥との距離を愚直に生きていて、その弱さも隠していない。それに対して天心は、冒頭からジムのベランダで手にトンボが止まって、「最近虫が警戒しないんすよ」と言っており、作ろうとしている世界のスケールが違うなと思った。会見でもこれはボクシングそのものとの闘いなのだと言っていた。こんなスポーツの頂点で、キックボクシング時代から全53戦無敗というキャリアを賭けて、それでもこうしてプロレスができるなんてと驚愕する。でもたぶんそれは、それが拓真の弱みであることも折り込んだうえでなされているのだろう。

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11月9日

『非美学』の短縮版を出してほしいというツイートに引用で、当分そのつもりはないが、『置き配的』は『非美学』を圧縮・変換したものという側面もあるし、そういうところから読めるようになるほうが楽しいと思うと返した。そこから考えがつながっていくつかつぶやく。そもそもたとえば郵便本もリアルタイムでどれだけ理解されていたかは難しいところで、その後の東の著作に触れることでイメージが共有されているのではないか。そういう多面的で遡行的な理解が作られていくことがいろんな本を書く意味だと思う。『非美学』が難しいから『非美学』を易しくするというのは、僕がいまの10倍くらい有名になれば売れるのかもしれないが、そうでなければそもそも売れないし、たんなるマッチポンプだ。そこから連想して、「理解」というものはわかった!という瞬間的な、頭のなかで起こることだという想定を解体したウィトゲンシュタインの議論はいまこそ重要なのではないかとつぶやいた。言葉や行為として外在化したものが承認されて事後的に「理解したことになる」だけだ。もっと言えば理解してからでないと使えないというのは幻想で、使ってしまえば理解したことになる。煎じ詰めれば『非美学』もそういうことを言っている本なのだが、ウィトゲンシュタインに引っかかってしまうのは、使用が理解を生むということを本当の理解など存在しないという懐疑論的な方向にもっていくことだ。理解の絶対的尺度は存在しないというところで止まってしまうのではなく、別の使用を生む使用がよい理解なのだとすればいい。

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11月8日

フィロショピーのエッセイ講座で、20人の受講生を3-4人ずつに分けてzoomでグループ面談を実施している。いま全5回の講座の3回が終わったところで、最終的に2000−4000字のエッセイを書くのがゴールなのだが、それに向けた課題として最終課題で書くトピック(メインの出来事)とテーマ(そこから考えたこと)の組み合わせを3つ提出してもらっており、それをもとにひとり20-30分ずつヒアリングをする。

まず3つのうちの現段階での優先順位を聞き、決まっていない場合は説明を聞きながら方向性を提案し、それをどう展開するか、どこで安易なそれっぽさに寄りかかってしまいそうか、出来事の特異性と問いの一般性が相殺してしまわないか話しながら考える。こう書くと硬い感じがするが、むしろ書くのを楽にするものになったと思う。スポーツで脱力するのがいちばん難しいのと同じことだ。我ながらこういうのを教えること、その枠組みを考えることはかなり得意なほうなんじゃないかと思う。

最後にそれぞれなぜこの講座を受講したか、どういうかたちで文章を書いていくつもりか質問する。とくに発表するつもりはないが、繰り返し思い出してしまうことをかたちにしながら考えるために書くひと、400−800字程度の日記と2000字というスケールのあいだに壁を感じて受講したひと、そういう話を聴いていて、文章を書くということが生きることに直結しているのは僕よりむしろ彼らのほうなのではないかと思った。どのエッセイもとてもいいものになりそうで楽しみだ。

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11月6日

来月出る『群像』に載る『置き配的』の紹介記事を書いていて、ここ数日生活が乱れていた。原稿自体は2000字の短いものなのだが、なんだか気張ってしまっていて、締め切りの前日にようやく、まだ本を読んでいないひとのための文章だから、『置き配的』の「先」に行く必要はないのだと思って、やっと書けるようになった。

シットとシッポの収録後、渋谷駅で降ろしてもらってから携帯がないことに気がついて、駅ビルのカフェに入ってWi-Fiに繋いだPCから荘子くんに連絡した。やはり車に忘れていたようで、荘子家がご飯を食べている店に取りに行く。財布をなくしたときはむしろ清々しかったが、携帯をなくすとパニックになる。PCでGoogleマップを確認して、駅ビルを出て田園都市線の入口を探し、現金で切符を買い、三軒茶屋から世田谷線に乗り換えて、X駅で降りて店に向かう。それだけのことがとても不安だった。この道で合っているのだろうかと不安に思いながら歩いて見つけた店に入ると、小百合さんの同僚も集まった飲み会で、お邪魔させてもらう。2歳の子供とも遊べた。

数日前に2日続けて走ってから右足の裏が痛くて情けない。

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10月31日

作り置きしているパンチェッタで簡単にパスタでも作ろうと思ったのだが、ほかの食材がぜんぜんなく、かといってチーズを削って胡椒をかけただけのカチョエペペのような塩味が強いものを食べる気にもならず、こないだハヤシライスを作ったときに余っていたトマトジュースでアラビアータ、というか、コンポモドーロ、というか、トマトソースのパスタを作った。

パンチェッタを刻んで弱火でゆっくり炒って脂を引き出す。焦げる手前で肉だけ取り出して、刻んだにんにくと唐辛子を加える。ニンニクに火が入ったところでアンチョビをひと切れ加える。豚とトマトだけでは味がもったりするので、これで奥行きを出す。アンチョビが自然にほぐれたらトマトジュースを気持ち少なめに入れ、パンチェッタを戻してちょっと煮詰めたら茹で上がった麺と和える。ばっちりおいしい。

トマト缶というものは、妻とふたりぶんのパスタを作っても半端に残るものだし、いちど開けたら日持ちもしないので持て余してしまいがちだが、ジュースなら余ったものはそのまま飲めばいいし、味もタイトな感じがするし、パスタに入れるトマトはフレッシュかジュースかの二択でよいのではないかと思う。カチャトラとかそういう料理ならまだしも。

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