11月9日

『非美学』の短縮版を出してほしいというツイートに引用で、当分そのつもりはないが、『置き配的』は『非美学』を圧縮・変換したものという側面もあるし、そういうところから読めるようになるほうが楽しいと思うと返した。そこから考えがつながっていくつかつぶやく。そもそもたとえば郵便本もリアルタイムでどれだけ理解されていたかは難しいところで、その後の東の著作に触れることでイメージが共有されているのではないか。そういう多面的で遡行的な理解が作られていくことがいろんな本を書く意味だと思う。『非美学』が難しいから『非美学』を易しくするというのは、僕がいまの10倍くらい有名になれば売れるのかもしれないが、そうでなければそもそも売れないし、たんなるマッチポンプだ。そこから連想して、「理解」というものはわかった!という瞬間的な、頭のなかで起こることだという想定を解体したウィトゲンシュタインの議論はいまこそ重要なのではないかとつぶやいた。言葉や行為として外在化したものが承認されて事後的に「理解したことになる」だけだ。もっと言えば理解してからでないと使えないというのは幻想で、使ってしまえば理解したことになる。煎じ詰めれば『非美学』もそういうことを言っている本なのだが、ウィトゲンシュタインに引っかかってしまうのは、使用が理解を生むということを本当の理解など存在しないという懐疑論的な方向にもっていくことだ。理解の絶対的尺度は存在しないというところで止まってしまうのではなく、別の使用を生む使用がよい理解なのだとすればいい。

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カテゴリー: 日記