4月22日

I am still alive.

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4月21日

ここ数日起きてすぐ日記を書いている。早起きクラブもわりと活発で、「他人の日記」サーバー同様、べつに喋りたいわけではないが誰かがいるところに言葉を投げたいというニーズはあるのだと思う。起きて、ご飯を食べて日記を書いて、今日は何をするんだっけと作業のログを確認する。

それで、何をするんだっけ。ハラウェイの『伴侶種宣言』を読み終えたから、その感想を「言葉と物」のドラフトに組み込むんだった。いちばん引っかかるのは本書における「ペット」の位置づけ(られなさ)だ。本書において犬と人とは、「重要な他者(significant other)」として関係し合うべきものと考えられる。個々の犬との関係は、犬の家畜化の数万年の歴史における自然−文化の絡まりを背景にしている。遡行すべき無垢な「自然」も、杓子定規に適用可能な「権利」もない。ここまではよくわかる話だ。そのような不純さを十全に生き抜くものとして、ハラウェイはアジリティー競技という、犬の障害物競走にのめり込む。そこで犬と人は自然−文化の絡まりあいのなかで獲得してきた互いの能力を高め合い、「存在論的コレオグラフィー」としての特異な線を描き出す。「重要な(significant)」とは、「意味のある(significant)」ということでもあり、犬と人とは非言語的な意味/非意味的な言語の場としてひとつのフィギュアを踊る。しかし猟犬、牧羊犬、警察犬等々のプロフェッショナルな犬でもなく、スポーツにおいておのれの能力の限界に挑戦する犬でもない、室内で飼われ、ただ毎日の散歩を楽しみにしていて、老いたらカートに乗せられて散歩を続けるような犬は、二重に家畜化・屋内化(domesticated)されているか、あるいは過剰に人格化されているかのどちらかでしかないのだろうか。そういえば「ハラウェイ博士」も出てくる押井守『イノセンス』でバトーの犬は、散歩すらしていないかったような。

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4月20日

めずらしく、妻が友人とご飯を食べるのについて行った。イセザキモールの龍鳳の前で待ち合わせたのだが、筍料理のコースを予約したひとしか入れず、 とりあえず野毛まで歩くことにした。グーグルマップでレビューが4.7だった小さな焼き鳥屋に入って、僕はコーラ、妻はジンジャーエール、友人のエンジニアは緑茶ハイで小さく乾杯した。料理はどれも美味しかったが、小ぶりでジューシーな砂肝がとくに美味しかった。何度か火災警報器が鳴り、客が渡された箒の柄で天井のボタンをつついて止めるたびに拍手が起こった。ご飯ものはメニューになく、お腹が膨れるものではなかったので別の店を探して歩いて、サモワールにケーキを食べに行く途中で見つけた馬車道のパフェ屋に入った。長いスプーンでつついていると背後のカウンターで気安く店員と話す男の声が聞こえて、ちらっと振り返るとマスクを被ったプロレスラーだった。

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4月19日

夜、「言葉と物」の現時点でのドラフトを編集者に送る。これまでの締め切り間際の、自己評価を巻き込んだ心理的負荷はなくもがなのものだろうと、月末の締め切りの前に、いちどその時点での構想をかたちにする機会としてドラフトを見てもらうことにした。といってもその総量は3000字くらいで、種のようなものなので、結局これからボディを作っていくことになる。それでも3000字あるのは大きい。それに、ドラフトはworkflowyで書いているのだが、ようやく、ひとつの動作で階層を増やせるからといって、書き加えるたびにそれを前のものとの前後関係なのか階層関係なのかという意識が走ってしまうこと自体が邪魔なのだと気づいた。とにかく一文ごとに項を区切って下に下に並べていって、段落っぽいものの輪郭が見えたらそこで最初の文その他の文を吊り下げればよく、連想が飛んだら飛んだぶんだけ離れたところに置いておいて、それが本文か見出しかメモかということも、あとから決めればよいのだ。

封筒を買って帰ってほしいと妻から言われて、買って帰るとそれにTWICEのグッズを入れて何人か他のファンに送っていた。余ったグッズをそうして無償でやりとりしたり、売るにしても定額で、ライブで会ったらお菓子を渡しあったりしている。アイドルのグッズ商法というと転売の巣窟になっているようなイメージがあったが、そういう互酬性のネットワークもあるみたいだ。ビニールのスリーブに入れて、短いメッセージを添えて、封筒に入れる。お歳暮みたいだ。

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4月18日

一ヶ月ぶりのクリニック。デエビゴは半錠で飲んでいて、それで十分のようだと言って2.5ミリの錠剤に変えてもらう。他はどうですかと聞かれ、生活リズムはまあ安定しているんですが、それで仕事に集中できるようになったかというとそういうことはなく、机に着くといつも、あっぷあっぷしてしまうというか、頭がざわざわして、集中するまで時間がかかるんですよねと言った。彼は前から薬を出すことにとても慎重だったのだが、いちどストラテラを飲んでみようということになった。裏の薬局で薬を買って、とんかつ屋に入ってお冷やでストラテラを飲んだ。ヒレカツ定食を食べて外で煙草を吸っていると、後頭部がぞわっとしてきて、うなじを何かがすーっと流れているような感じで、息がしやすくなり、視力までよくなった気がした。薬が効くまで2週間かかると言われていたのだが。

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4月17日

ドトールに入る前に煙草を買っておこうと、伊勢佐木町のセブンに入る。煙草を買いに来た人らしくえーっとと言いながらレジに立つと隣のレジの女性が僕のレジの女性にハイライトメンソールを渡した。ああそれですと言ってPayPayのバーコードを見せながら、どうしてハイライトメンソールと知っているのだろうと思った。帰り際に隣のレジの店員をちらっと見たが、マスクをしていて見覚えのある顔には見えなかった。この店では2回くらいしか煙草を買っていないし、それもしばらく前のことだ。毎日買ういちばん近所のセブンから徒歩10分くらいだから、そこの店員が来ている可能性もあるだろう。でもいつも見る顔ぶれではなかった。あるいは、僕にそっくりのひとが毎日買いに来ていて、したがって驚くべきは彼女なのかもしれない。もうひとり僕みたいなひとが買いに来て。そう考えると不思議と気持ちが落ち着いた。誰かの代わりに買ったのだ。ドトールのいつもの大きい机に座ると目の前の老人が『失礼な一言』という新潮新書を難しい顔で読んでいた。

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4月16日

カフェドクリエで、馬車道に面した一列の席で作業をしていると、目の前に停めてあった自転車が3台とも風に吹かれて倒れた。昨夜まいばすけっとの店先で妻の会計が終わるのを待っていると、おばさんが倒れた自転車を起こした勢いでこんどは自分ごと反対に倒れてしまった。それを思い出し、同時に、それを日記に書くつもりだったことを思い出した。大丈夫ですかと言って、両手に持っていたさっきセブンで買ったカフェラテを、軒先に出ているティッシュやトイレットペーパーが積まれた棚に置いて助け起こした。ガラスの向こうで隣の薬局から出てきた薬剤師が自転車を起こしに出てきて戻ったが、また同じように3台とも倒れてしまった。どこかから飛んできた蜜蜂がガラスに停まって、筆記体で何かが書かれたシールに脚を引っかけて腹をどくどくと震わせていた。いま目の前で自転車が倒れなかったら、昨日自転車が倒れたこと、それを日記に書こうと思ったことは、一生思い出さなかったのだと思った。

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4月15日

連載の原稿のためにダナ・ハラウェイ『伴侶種宣言』を読む。いま出ている回は「作品」がテーマで、こないだ書いたその次の回は「理論」で、対になっている。そのまた次とその次はそれぞれ「サイボーグ」と「ゾンビ」の対にしようと考えている。ひとつめの対がアクチュアルな社会を扱ったものだとすると、ふたつめの対はそこから立ち上げるべき人間像みたいなものを扱うことになるのだと思う。これから書くものについて言うと、いつかの日記に書いた、手押し車に乗せられた犬が散歩しているのを見て、その犬を「サイボーグ」だと言うのは酷いことではないかと思ったというエピソードが発想のもとになっている。自然と文化、生体と機械のハイブリッドをそこここに見出して人間中心主義的なカテゴリーを攪乱するANT的な実践では掬いきれない、尊厳のようなものがあるのではないか。しかし、幸か不幸か、「サイボーグ宣言」は——初出が1985年なのもあってか——大時代的な仰々しさがあるのに対して、『伴侶種宣言』は思弁的エッセイとしてちょっと追いつけないくらいの軽やかさがあって、読みながら感動した。これもいつかの日記に感想を書いたが、ヴァージニア・ウルフの『フラッシュ』と並べられるべき作品だ。これでは僕のいつものやり口は通用しない。そう思ったらそれを、こんなふうに、素直に書けばいいのだということももうわかっている。それで楽になるわけではないことも。

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4月14日

日曜だから、と言えばそれまでなのだが、何もしなかった。いや、「言葉と物」の熱心な感想メールをくれた見ず知らずの方への返答メールは書いた。でもそれだけだ。それにしてもこういう仕事のひとは、何もしなかった日の後ろめたさにどう対処しているのだろう。

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4月13日

ジム。ストレッチ、ランニング、デッドリフト、懸垂、ディップス、レッグレイズ、サウナ、シャワー。シェアバイクで帰る。セブンでアイスのカフェラテを買う。昼寝。妻と天ぷら(イカ、鱈、アスパラ、サツマイモ)を作って食べる。ツイッターのおすすめに、イームズのラウンジチェアの中国製の模造品を映画鑑賞用に使っていたら、あるとき不意に肘掛けが外れて立ち上がったらすべてがバラバラになったというエピソードが出てくる。妻の実家にも同じ椅子があった(模造品かどうかは知らない)。義父がオーディオマニアで、スタジオ用だったという単身用の冷蔵庫くらいの大きさの一対のスピーカーと壁いっぱいのレコードやCDのある部屋に連れられて、座らせてもらった。彼は脚を乗せてと言ってオットマンを引き寄せてからジョシュア・レッドマンか何かのCDをかけて、機材やコレクションについて、困ったことのように説明する。問題は、僕が半分横になっているのに対して、彼が立っているということだ。しかしとうぜん、彼がここに座っているとき、脇に立っている人間はいない。彼が実の父だったら、僕はむしろ彼が座っているのを見る側だったろう。

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