どうも集中できないのでこちらで気を紛らわせよう。起きたら安倍元首相が演説中に背後からショットガンで撃たれたというニュースが流れていた。僕はこういう仕事が向いていないのかもしれないが、こういうときに競うように知的なことを言っているひとの気が知れないなと思った。街の景色が少し違って見えた。近所の家系ラーメン屋に行くと僕が横浜に来たときは新人だった店員が30キロくらい太っており、ガリガリの高校生にしか見えない新人が入っていた。いつもの海苔増しを食べて公園で煙草を吸いながら、石のベンチに集まって酒を飲んでいる老人を眺めていた。半分くらい吸ったところでこの1本は安倍晋三に捧げようと思った。珈琲館に入ってパソコンを開くと助からなかったという報道があった。喋る順番があるとしたら安倍昭恵、岸田現首相がいちばん先だと思った。
カテゴリー: 日記
日記の続き#68
6月13日。作業メモより。
- 『非美学』第3章の第3節の下書きが終わったところで、数日スタックしている。
- どうしてか:これを原稿にしてから次節に取り掛かるか、次節の下書きに移るか迷っている。
- それにともなってツイッターやYouTubeに逃げている時間が増えている。
- 互いが互いの逃げ場になりつつ、そこに均衡が生まれてしまった場合、くさくさした気分だけが堆積していく。恐ろしいことだ。
- ここのところ記事やツイートの反応が引きっきりなしにきていることも、このざわざわした居心地の悪い均衡に関わっている。
- そのほか微妙に頭に引っかかっている仕事もいくつかあり、それらすべてが蜘蛛の巣のように多方向にピンと張り詰めているのだ。
- それを打破するためにこうして、千葉さんの真似をしてworkflowyでフリーライティングをしてみている。
- こうしてみると、細かいことや生活リズムを整理したうえで大きい原稿に取りかかる——逼迫しているわけではない——のがいいのかもしれないとも思う。
- でも「細かいことが整理される」なんてことは一生来ないので、長い目でやる作業の時間と細かいことを処理する時間を分ければ良いのだろう。
- 最初の問いに戻る。
- 内容の面からみると、手が止まっているのは第4節をどういうストーリーにするかということの見通しが立っておらず、それが第3節の堅牢性によることなのか判断がついていないと言い換えられる。
- 第3節をしっかりやればおのずと次の道も見えるだろう、いやしかし…… と。
- あらためて第3節の論旨ひとことで言うなら、『千のプラトー』には〈動物になること〉と超越的な〈人間であること〉のあいだに、内在的な形態としての人間というレベルが想定されており、これが本書の倫理的・批判的価値の源泉となっているということだ。
- 人間を人間中心的=超越と人間形態的=内在にレベル分けしたうえで、後者を前者に宿りうる特殊な習性=錯覚として埋め込みなおすこと。
- これが具体的には、イェルムスレウの二重分節の議論がどのように読み替えられているかということに沿って展開されるわけだが、これはかなり込み入った操作であり、気になっているのはこれがちゃんとできているのかということだ。
- まあ……、できているとして進めるよりほかないだろう。
- それで、できているとして第4節はどうするか。
(以下略)
1月19日
ここのところナラ・シネフロの『Space 1.8』をよく聴いている。音楽を好きになるときにはいつも想起の感覚がこびりつくようになってしまった。あの頃の自分に聴かせても好きになるだろうと。自分が好きになりえなかった音楽を好きになることはこれからあるのだろうか。
昼ご飯を買いにセブンイレブンに行って、気に入っていたナシゴレンを探したのだがない。しばらく見ていない気がするのでもう売っていないのかもしれない。ナシゴレンと、紙パックの甘いコーヒー牛乳を飲んで、東南アジアっぽさを感じるのが好きだったのだけど。帰ってキャベツとアンチョビのパスタを作った。キャベツがしっかりくたくたになるように、しかしソースがしゃばしゃばにならないように、フライパンに入れるパスタの茹で汁の量を調節するのがポイント。おいしかった。
夜、ネットでランニングシューズとジャージ上下を買った。寒くて運動する気になれないのなら昼間に走ればよいのだと気づいて。本当はサッカーなり総合格闘技なり合気道なり、人と体をぶつけるコンタクトスポーツがやりたいのだけど、それはまたある程度運動に慣れてから考えよう。メガネのままじゃできないし。注文ボタンを押してから、自分が日記のあとの空白を埋めようとしていることに気がついた。
日記が終わったからといって日々が終わるわけでもなく、そもそも構造的にアンチクライマックスなのだから終わりに意味をもたせることなんてないのだと思っていたが、明日からもう書かないのだと思うととても心細い。しかしそれと同じくらい、これ以上続けたら本当にやめられなくなってしまうのではないかということが怖い。アンチクライマックスな終わりの空恐ろしさ。ここでやめること、日々から日記を分離してやること、というか、分離可能であることを確認することがそれぞれをそれぞれとして尊重することなのだ。こんなにお別れらしいお別れはいつぶりだろう。
1月18日
鎌倉へ。あまり乗ることのない下りのブルーラインはひと区画だけ地上に上がる。かすかに空を仰ぎながら曲がるカーブが気持ちよかった。戸塚でJR横須賀線に乗り換える。会場の家でささけんさんとお母さんに挨拶をして、縁側で煙草を吸わせてもらっていると編集者さんも到着して、インタビューを始めた。
1月17日
コンサートのレビューの締め切りが20日で、いろいろ調べるばかりで執筆に入れていなかったのだが、「プリペアド・ボディ」というタイトル候補を思いついてとっかかりが掴めた気がした。
晩ご飯を食べたら急激に眠たくなって、お風呂に入って10時ごろには寝た。3時に目が覚めて今日鎌倉でする佐々木健さんへのインタビューの準備を進める。津久井やまゆり園の事件が大規模入所施設で起こったことの意味。東浩紀のいう、20世紀以降の社会を特徴づける大量死=大量生という図式の隙間にそうした施設があるとしたらと考えると背筋が寒くなるような感覚がある。被害者の家族の声を集めた「19のいのち」というNHKが作ったサイトを読む。これ以上の言葉はないという前提で、そこで口をつぐむのではなく何を言えるのだろうかと途方に暮れる。事件は加害者のもとに象徴化され反省されそれをもとに社会は部分的にではあれ改良される。それ自体は健全なフィードバックだ。それは具体的にはたとえば大規模施設から地域のグループホームへの移行による、障害者と介助者の数的不均衡の緩和を意味するだろう。それに対して被害者の家族の言葉はあまりに痛切であまりに具体的であり、一切の象徴化を拒んでいる。加害への象徴的批判と被害への個別的共感の対立がトラップだとして、後者を引き受けるような理論的実践はありうるのだろうか。メモ作りに戻る。
1月16日
久しぶりに長い夢を見て、メモしておこうと思ったら二度寝してしまい忘れた。見た夢について考えていてそれがまた夢になり、ふたつの包含関係が反転するような夢だった。とても大事な夢だった気がしたのだが、かろうじて覚えている断片からはその大事な感じが剥落している。
18のときにひとり暮らしを始めて10年以上が経ったが、ずっと懸案であるのは冷凍の食パンとかご飯とどう向き合うかという問題だ。冷凍されたパンやご飯は生活の死相をそこに見てしまうようで苦手なのだが、食パンは3日ほどでダメになるし、一食ごとにご飯を炊くのは面倒だ。彼女と住み始めてそれは家事の一環としてわりあい自然に日常に組み込まれた。その自然な不埒さに面食らっている。
イヤホンがソフトウェアのアップデートを要求している。まさかイヤホンがアップデートを要求するようになるとは。
1月15日
部屋に置く低い椅子がほしいなと思って調べていたら中古のよさそうなイージーチェアがヤフオクに出品されていて、10000円だったので10500円で入札して、昼寝して起きると14000円で誰かが落札していた。トンガで起こった噴火が引き起こした波が、12時間ほどかけて日本の夜中に届いた。旅客機よりは遅そうだが、かなり速いのだろう。火山の名前はフンガトンガというらしい。
1月14日
勝手に自分のなかで「背広族」と呼んでいるのだが、まいばすけっとに行くとよくスーツを着た社員がちょっと見にきましたみたいな感じで店内にいるのを見る。コンビニとかとは組織形態がぜんぜん違うのだろうか。生粋の左翼なのかバイト気質なのかわからないが棚を整理するわけでもなく接客するわけでもなく店内を歩いている背広族を見るとうっすらと腹が立つ。なんというか、背広族が店にいると「購買者」を演じて「店員」になった店員と一緒に何かのシミュレーションをしているような気がしてしまうのだ。その場にいない者としてその場を監視し、その場を統治すること。スーツがあればパノプティコンなんて必要ない。演劇のチケットは「いないことにしてもらえる券」だ。気づけば誰かにそれを渡している。豚肉を買って帰って茄子とピーマンと一緒に炒めて食べた。
1月13日
夕方、珈琲館を出るときに、財布がないことに気づいた。鞄をひっくり返したり上着のポケットを何度も確認するがどこにもない。その前にカフェドクリエで作業していて、そこの支払いで使ってからどこかで失くしたのだ。でもどこで? 気が動転してぜんぜん頭が回らない。間の悪いことに珈琲館は現金でしか支払えない。店員に申し訳ないが財布を忘れたので家に取ってくる、家はすぐそこなので10分もかからないと言って店を出た。カフェドクリエに電話しながらお金を取りに帰る。そっちにもないようだ。もう見つかりようがない。珈琲館の支払いを済ませて交番に向かいながら、クレジットカードの使用停止の申請をした。
変な話だが、僕は物を失くすことにたいへん弱く、というのは、失くしやすいということではなく「失くした」と思うことにとても激しく混乱してしまう。大阪にいたときはしょっちゅう、財布を失くしたと思ってほうぼうに電話をかけ警察に行って家に戻ってきたら、レンジの上とか洗濯機の上とか、ふだんそんなところに絶対に置かない場所にあって、安心していいのかなんなのかよくわからなくなるということがあった。それはいつも財布で、意識のエアポケットみたいなところに滑り込むのだが、そこには絶対精神分析されたくない何かがある(分析するまでもない。お金が怖かったのだ)。最近はそういうこともなくなっていた。
しかし今回は確実に失くしていて、しかもそれは彼女にもらった財布で、しかもそのなかには外していた結婚指輪が入っているのだ。結婚したのは夏で、前々からそんな感じのことを言われていたのだが結婚全般が嫌いなんだと言って断っていた。われわれふたりのことと結婚に何の関係があるのかと。しかしよくよく考えてみると、僕のほうは結婚しようがしまいが誰も気にしないが、彼女は結婚したらしたでいろいろ面倒だし、職業柄なんというか迎合的に見られなくもないかもしれないし、しなかったらしなかったでもっといろいろ言われるのだ。それで指輪を買って、婚姻届を出して、式はコロナを口実に(と言ったら悪いが)せず、彼女の両親がお金を出してくれてなんだか豪華なところで借りた服を着て写真を撮って、いろんなことが進んでいった。はてはうちの親にお歳暮を送ると言って、すでにクラ交易みたいに贈り物が飛び交っていたので、それだけはやめてくれ、これは消耗戦だと言ったが何か送ったらしい。
直接会った友達に報告する(なんで「報告」なんて言うのか)くらいで周りの状況もこれといって変わらないし、自分のなかにそういうこととは関係ない場所を確保したかったのだと思う。この日記だってそうだ。歩いた道を行ったり来たりして、何度も鞄を確認してどこかに落ちていないかと探した。不安で口がカラカラになって嫌な匂いがしてくる。柄にもなくいやーとかマジかとか言いながら、現金だけ抜かれてどこかに捨てられているんじゃないかと潅木の下とかを見ていた。憔悴しきって家に帰って、仕事を終えた彼女に謝って、ふたりとも黙ってご飯を食べていると電話が鳴って、交番からで、財布が届いたということだった。取るものもとりあえず受け取りに行く。警官が茶封筒から財布を出す。中身も欠けていなくて、指輪も入っている。僕が歩いていない道に落ちていたのを宅急便か何かの人が拾って、仕事終わりに届けてくれたらしい。
夜、今回のことがあまりに情けなく、ショックでいろいろ考えて眠れなかった。僕は彼女に結婚を申し込むべきなのかもしれない。本当に悪いことをした。それに本当に結婚などどうでもよく、彼女のことが好きなんだと思う。だから僕が言うべきなんだ。彼女が起きるまで起きておくことにした。それにしても、見つからなかったらどうなっていたんだろう。
1月12日
コンサートのレビューについていろいろ考えているうちにヒトの発声器官の進化が気になってきて、『ピダハン』で有名なエヴェレットの『言語の起源』を喉に手を当ててまーまーまーとかぱーぱーぱーとか言いながら読んだりして、母音のフォルマントの仕組みと聴覚のチューニングの循環関係とかは面白かったけど、彼は言語にとって現生人類の発達した発声機構は必要条件ではないという立場なのもあり、それはそれでわかるのだが、かゆいところに手が届かない感じだった。結局なんで二足歩行になったかわからないと咽頭が伸びた理由もわからないのだと思い、島泰三の『親指はなぜ太いのか——直立二足歩行の起源に迫る』をキンドルで買って、これが思いのほか面白くて一日かけて読んだ。
もともとマダガスカルでアイアイの調査をしていた著者は、アイアイの針金のように細長い中指は、ラミーという種の胚乳をほじくり出すための、パフェスプーンみたいなものだということを発見する。ネズミなみに鋭い前歯は、小ぶりなヤシの実のような硬いラミーの上部を割るのに役立っている。サルのなかでも際立った特徴をもつアイアイの形態は、その主食との関係から理解することができるということだ。ここから彼は「棲み分け」ならぬ「食べ分け」としてニッチの概念を再定義し——たとえば今西錦司は形態への着目がないと批判される——主食を中心に生態と形態をセットで考えることの重要性を指摘する。そしてそれはとりわけ霊長類学においては「手と口連合仮説」として具体化され、彼はメガネザルからニホンザルからゴリラまで、さまざまなサルの手と口の形態をニッチとしての主食との関係で説明する。
ニッチを見つけるということは、他の誰も食べないが安定的に供給されるものを見つけるということであり、一般的に手が器用なサルのニッチは手と口の形態と生態から説明される。したがって絶滅した類人猿の形態からその主食としてのニッチを特定できればその生態をも類推することができる。しかし直立二足歩行という特殊な形態は、いったいどんなニッチに対応していたのか。この問いへの回答が驚くべきもので、ほんとにびっくりした。それが何なのかは読んでもらうとして、とにかく手と口連合仮説が面白いのは、ひとつには生態−環境という棲み分け仮説的な、点としての個体と広がりとしての場の組み合わせに替えて、主食−形態(−生態)という対物的な関係を優位に置いていることだと思う。そしてそれはとりわけヒトの進化において、手が地面から解放されて道具を使えるようになり頭をゴツい頚椎で支える必要もなくなり脳の容積が増え賢くなった、というような、結果論的で脳中心主義的な説明に対するカウンターになる。手は解放されたのではない。地面や樹の枝とは違うもので塞がっていたのだ。
とはいえ本書の分析はアウストラロピテクスまでなので、裸になって言葉を喋るところまでいっていない。著者の出自も含めて興味深いので他の本も読んでみよう。どんどんレビューと関係なくなってしまうが。