日記の続き#235

ふと子供の頃に初めて「自治」という言葉を意識したときのことを思い出した。それまで「自治会」とか「自治体」という言葉はおそらくニュースを通して聞いていて(周りで使われるような言葉ではなかった)、わらわらと大人が集まって話したり、草刈りをしたりしているぼんやりとしたイメージがそこにはくっついていた。しかし「自治」という言葉を単離するとそうしたイメージは消えて、それでもそれが何か大切なものを示しているような気がした。そこにはたぶん川上未映子の『わたくし率イン歯ー』の残響があって、頭のなかでいろんな言葉のうしろに「〜の自治」と付けてその感触を確かめていた。そのとき初めて「概念」というものの存在に触れたのかもしれない。

日記の続き#234

ゆっくりアイロンをかけるように全身をストレッチする。昨日書いた執筆の悩みについては、1日100分の1しか進まなくても100日後には終わるのだと思うと楽になった。

日記の続き#233

最近ちょっと怠けすぎている。というか、いつだってそうなのだが、怠惰と逃避とが絡まり合っていて、怠惰だなと思うことすら逃避に対する逃避なのだ。第4章があらかた終わってからレクチャーとか書評パネルとか細かい仕事が続いて、博論本の作業から離れたままになってしまっている。ともかく自分の大事な仕事に向き合うのは怖いことだ。幻滅すら言い訳にできる。

それでは怠けているあいだ何をしているかというと、YouTubeでラジオのアーカイブを流したり動画を見たりする時間が増えている。外から言葉を流し込んでいないと不安になってくる。外出時もiPhoneからラジオを流しているとこれまでずっと余裕があった通信量まで逼迫してきた。一昨日作業机のモニターの向きを変えると即席のお茶の間ができると書いたが、何かそういう視聴覚環境にまつわる工夫も必要だと感じる。たぶんもっと音楽を聴くべきなのだが。ちょっと正直に書きすぎかもしれない。自罰的な態度にスタックしてもしょうがない。

日記の続き#232

いろんなところが筋肉痛。2週間ぶりにジムに行った。作業のためのパソコンや本も持っていって、そのまま外で作業をする。

プレシアードによると、カウンターセックス者は自身の生殖細胞およびその帰結としての子の所有権を放棄することを義務づけられるという。外科的な性転換もホルモン注射も自分の身体だから好きにすればよいということの裏側に、遺伝子や子供が誰のものかわからないということがある。この主張と対になるものとしてセックスに関する明示的な合意の全面化——プレシアードは平等な同意と等価的な同意を区別し、SMなど非対称な関係のセックスの可能性を後者に含める——があるだろう。非生殖的な存在になること、セックスから暗示的なものを閉め出すこと。そのために所有と合意という古風な装置が使われていること。

日記の続き#231

朝9時半に家を出て京都に向かって、夜9時半に帰ってきた。なるべく行程をタイトにしたがそれでも12時間かかるのだと思うとぞっとする。行きの新幹線でプラトン『パイドロス』を読み終わって、帰りの新幹線は貯まったポイントでグリーン車に乗って寝た。急いで帰ったのは10時からワールドカップの日本対ドイツ戦があるからで、可動式のアームが付いた作業机のモニターをぐっとソファのほうに向けて即席のお茶の間を作って妻と一緒に観戦した。ワールドカップで日本がドイツに勝つなんて思ってもみなかったが、それと同じくらい、自分がまたこうして子供のときのように「家庭」にいて、ワールドカップを見ているのだということが不思議だった。

日記の続き#230

まとまりのない一日だった。夕方に早めにお風呂に入って、晩ご飯を食べると眠くなって布団に入って、起きると夜中の1時くらいでそれから翻訳を進めたり『存在と時間』を読んだりした。4時ごろに黒嵜さんから起きていたらちょっと話そうと連絡があって、結局朝11時くらいまで喋っていた。ハイデガーはデカルトの世界概念を批判的に検討していて、デカルトが物体的なものの本質を延長とする議論が取り上げられていた。デカルトはもし物体が、それに私が手を伸ばすのと同じ速度で私から離れていくなら、私はその物体の固さを感じないが、だからといってそれでその物体が存在しないとは考えないだろうと言った。固さと同様に色や形や運動(いわゆる「二次性質」)はそれらを物体から取り去っても物体の存在は消えないが、延長のない物体はありえないと。この結論やハイデガーの批判はともかく、私の運動とあまりに一致しているので感知されない物体の固さというイメージによって、ふだん明白に区別されている固さと運動が頭のなかで識別不可能になり、この混乱からの防衛反応として延長が持ち出されているように思えて、それがとても面白かった。思いのほか重たいものが地面に釘付けされているように感じたり、思いのほか柔らかいものが手から逃げたように感じるときの、一瞬の認識のバグ。延長は運動でも形でも固さでもないのではなく、運動だと思ったら柔らかさだった、というときの「と思ったら」を埋めるパテのようなものなのかもしれない。(2021年12月20日

日記の続き#229

先月注文した眼鏡が出来上がったという連絡があって、日本橋の高島屋まで受け取りに行った。こないだ来たときに見つけた煙草が吸える喫茶店でプレシアードの『カウンター・セックス宣言』を読んでいると、店のテレビからティレット症候群の患者の映像が流れていた。

YouTubeで「日本人が知らないカタールW杯の闇」という動画を見る。カタールという国家の概要とサッカー界との関係、無茶な開発における人道問題などよくまとまっている動画で、急ごしらえされたスタジアムのうちのひとつである「スタジアム974」のことが気になった。974個の輸送用コンテナと鉄骨を組み合わせて作られたスタジアムで、「コントラ・コンテナ」という大和田俊評を書いてからコンテナのことが気になっていたので調べてみると、ナチスドイツの主任建築家だったアルベルト・シュペーアの息子が建てたものらしい。こんな因果なことがあるのか。ジョゼフ・ロージーの『パリの灯は遠く』でコンテナに載せられて強制収容所に輸送されるアラン・ドロンの顔を思い出した。

日記の続き#228

雨の日曜日。読みたい本の端境期に入ったような格好になり、家の本棚からプラトンの『パイドロス』を出してきて読む。ソクラテスは自分で理論を構築してはいけないことになっているから神がかりの状態になって話すのだが、そのとき顔を隠していた。パイドロスは話さえできればよいと言ってそのことを気にかけない。

夜中にワールドカップの開幕戦をAbemaで見た。ボールに音を検知するICチップが入っていて、それがオフサイドの判定に使われるのだと解説で話される。ビデオ判定の浸透しかり、スポーツのIoT化はANT論者が舌なめずりしそうなテーマだ。しかしこのワールドカップの盛り上がりのなさ、現時点で一向に報道される様子のない開催国カタールの開発における人道問題(6000人以上の死者が出ているという話もある)、ナインティナインの矢部がテレビではなくAbemaに出ていることなど考え合わせると、オリンピックを含むメガスポーツおよびそのイベントの先行きを考えてしまう。オフサイドは副審が裁くものだ。レッドカードは主審が出すものだ。機械がプロとアマチュアのサッカーを分断してしまう。機械の判定を待って明らかなオフサイドを流す審判を見て、これはもう僕らがやっていたサッカーじゃないと思った。ビッグスポーツの人気が下火になる一方で、ランニングやウェイトトレーニング、あるいは武道や格闘技(由来のフィットネス)がそれぞれ盛り上がっているのは、単純にアマチュアが参入しやすく、プロがやっていることと自分がやっていることに連続性があるからだろう。スポーツは「夢」であることを諦める必要がある。

それにしても開催国のカタールに勝ったエクアドルのサッカーは素晴らしかった。ディフェンスラインをタイトに保ちつつも奪ったボールを息巻いて運ぶのではなく、フィールドを広く使って豊富な攻め手を繰り出す伸びやかなサッカーで見ていて気持ちよかった。

日記の続き#227

西川祐子『日記をつづるということ:国民教育装置とその逸脱』(吉川弘文館、2009年)を読み終わったのでいくつかメモを書いておく。

アンネ・フランクはラジオで終戦が近いことを知り、日記の清書を始めたらしい。

矢玉四郎『はれときどきぶた』という絵本は、母に日記を盗み読みされた子供が明日の日記としてでたらめなことを書くとそれが実現するという話らしい。

「ひとりになって考えることではなく、複数の中で一人で考えることが必要なのだ。タバコが飲みたい」(高野悦子からの孫引き)。「スモーキング・エリア」っぽい。

戦前の旧制高校では学校同士で機関誌を寄贈しあっていたらしい。当然書くのも読むのも男ばかりになる。そのなかで日記(からの抄録)は「内面」を共有するメディアとして重宝する。寮内でなかば公然となされる盗み読みによるホモソーシャルな連帯。読むことと盗むこと。

「日記が国民教育装置からもっとも大きく逸脱するのは、日記が持続されることによってなのである」。日記とイエ制度、日記と戦争、日記とフェミニズム、日記と家計簿、日記と住宅などの観点から20世紀日本における様々な主体化のモードを分析する著者が、最後に「〜としての」日記をはみ出す生の持続に賭けていること。

日記の続き#226

重いものを楽に持てるからという理由で学部の頃からリュックを使ってきたが、すこし前から手で持つトートバッグのほうがよいのではないかと思うようになってきた。リュックだと物を出したり入れたりするのに降ろす/背負うというアクションが挟まってきて、それがたとえば電車のなかで本を読んだりすることの微妙な心理的抵抗になってくる。それにこれからどんどん厚着になってくると、上着の着脱にバッグの着脱がくっついてくるし、肩周りの圧迫感もあるし、見栄えもよくないし、とにかくいつの間にか僕の頭のなかでリュックがどんどん悪者になってきたのだ。こうして書いてみると別にどうってことないとわかるのだが、とにかく昨日までそういう気持ちで、横浜駅のNEWoManに入っているブリーフィングに行って、丈夫で雑に扱えそうなトートバッグを買った。気が大きくなったのか、最後まで使い切ったためしがないのにまた分厚いノートも買った。生活の再編という理想が、なにかとても些末なものに賭けられてしまうことは往々にしてある。それは悲哀だが、悲哀だからと言ってそっぽを向けばいいわけではない。