日記の続き#73

名前を書こうとして「ふくおた」を打ったら「ビリヤニ」と変換されて、そのことについてツイートしようと「ビリヤニ」と打ったら今度は「表象文化論」と変換された。前々からMacの入力ソフトが変な学習をしていることは気になっていて、ここはひとつと思ってジャストシステムのATOKをインストールしてみた。入力ソフトを変えるのは初めてだ。ライブ変換じゃなくなったし、変換候補のウィンドウのデザインが違うし、確定しようとして改行してしまったりでまだ強い違和感があるが、慣れるまでしばらく使ってみよう。去年読んだトーマス・マラニーの『チャイニーズ・タイプライター』が面白くてそれから梅棹忠夫の『日本語と事務革命』や武田徹の『メディアとしてのワープロ』を読んだりした。QWERTYキーボードでローマ字入力し、それを漢字仮名交じり文に変換するという、考えてみればとても奇妙な書記システムにわれわれは適応してしまっているわけで(その意味でフリック入力は重要な抵抗行為だ)、これはなんなのかと気になったからだ。武田の本には最初のATOKの開発者のインタビューが収録されていて、当時は変換用の辞書を一から人力で作っていたらしい。それがフロッピーになって、ワープロに挿していたわけだ。その歴史に敬意を込めて今回はATOKにしてみた。ローマ字入力とフリック入力の次に来るものはなんだろうか。いまのところ音声入力技術の発達が期待されているのかもしれないが、もはや「入力」すらしなくなるかもしれないなとも思う。

日記の続き#72

ドトールの喫煙ブースに入ると、もう腕落としちゃうしかないんじゃない、でもあいつ腕落としたら脚落とすタイプかもという声が聞こえてギョッとして、あまりそちらを見ないように煙草に火をつけた。台に肘を置いて向き直るように視野の端で声の主を見ると、金髪にフェイクファーの黒いパーカーを着た女性が壁に背をもたせかけてしゃがんで電話していた。真っ白の厚底スニーカーから鋭角に飛び出した日焼けした膝が黄ばんだ照明を受けて光っている。いずれも誇張されたシルエットの黒と白で挟んで、脚を細長く見せるためだけに選ばれたような格好だ。服を着ていない部分を見せるために服を選ぶというのは僕にとっては尋常ではない感じがした。まさか本当に腕を切り落とす話をしているとも思えないが——たぶんリストカットをやめられない知人の話でもしているんだろう——とはいえ水商売とかですらなさそうな非カタギ的な服装だし、なんだってここらの喫煙ブースはそういうろくでもない話をしているやつばかりなんだと思った。こないだはコメダに詐欺にあった「社長」と彼をなだめているんだかからかっているんだかわからない「マネージャー」がいたし、いつかはこのドトールであいつも殺人教唆で7年くらったからなあと、高校の部活仲間を思い出すみたいに話しているおじさんがいた。時代の闇の象徴とされるような突発的な暴力とは違う、分厚い歴史のなかで醸成される悪や暴力もある。そういうもののほうが僕にとっては異質に感じられる。喫煙席から喫煙ブースへの移行にともなってその密度が増しているのだ。人を馬鹿にしたような小ささのセリーヌのバッグを提げてその女性が出て行った。(2021年11月6日

日記の続き#71

6月15日午後9時。京都から横浜に戻る新幹線車内。非常勤先で6つの研究発表を聴き、5つに質問・コメントをして脳が疲れた。と言ったものの、僕は脳が疲れるということにはなかば懐疑的で、耳と側頭部と胸骨・胸郭を掌底でぐりぐりと骨から皮膚を引き剥がすようにマッサージするとそれだけでかなりスッキリする。でもこのスッキリもシャキッとするということではなく無意識の強張りがほどけてリラックスするという感じで眠くもなるので、やはり脳が疲れているのかもしれない。脳に疲労が存在するとして、それは筋疲労とどう違うのだろうか。脳と言えば、僕は物心がつくと同時にその柔らかい頭に「脳がスポンジ状になる」という狂牛病問題の報道が飛び込んできたトラウマを抱えた世代の人間だ。

というところまで書いてやめて、帰って寝て起きて翌日の午後3時。珈琲館。なんで狂牛病の話なんかしようとしていたのか思い出せないが、ともかく僕が8歳くらいから中学くらいまで、つまり2000年から2008年くらいまでの時期は、やたら食品関連の事故や不祥事のニュースが多かった気がする。狂牛病、段ボール餃子、不二家、雪印、ミートホープ、船場吉兆、生レバーの販売禁止。大人になるともう世界には不味いものがなくなっていた。こないだセブンイレブンでパテ・ド・カンパーニュのバゲットサンドが350円で売られていて驚愕した。パテとピクルスと粒マスタードだけの、それぞれの角を取って媚びるようなソースもない素朴でおいしいサンドイッチだ。こういうのは僕が子供の頃、小林聡美が主演する恐ろしく退屈な映画でしか見たことがなかった。それにしてもあの『かもめ食堂』に始まる一連の退屈な映画はなんだったのか。あの退屈はなんだったのか。観光地で帆布のバッグを買うおばさんの退屈だ。食品偽造と『かもめ食堂』的な退屈とスポンジ状の脳のゼロ年代。僕のなかでそれらはずっとわだかまっている。

日記の続き#70

引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるのだ。あるコラムが「フェミ系」の人に向けての揶揄であるということで誌面の写真がツイッターで拡散され批判されていた。その内容と同じくらいどの雑誌のものかも言わず誌面の写真を貼ることが引っかかる。引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるけど、ツイッターは素材の投下とそれへの反応のセットが怖いくらい効率化されていて、制裁を加えてよい引っかかりももう写真やハッシュタグや語彙のレベルで圧縮されてパターン化されている。でも文章なんてもともと引っかかりの塊だ。他人の書いたものを400字読めば絶対自分はこういう言い方はしない・できないという箇所が出てくるだろう。それは潜在的、一次的には不快だが、憧れに転ぶこともあるし、怒りに転ぶこともある。引っかかりには書き手と自分の体の距離が表れていて、表面化した感情にはすでに第三者からの目線が入り込んでいる。サッカー選手が大袈裟に転んで見せるように。それは「シミュレーション」と呼ばれる。ぜんぶが審判へのパフォーマンスになるとゲームは崩壊する。問題は一方でコンタクトの技術が蒸発すること、そして他方で、世界に審判などいないということだ。逆に言えば引っかかりへの解像度を上げることと、自分がいったい誰を・何を審判だと思っているのかと考えることはいつもセットであるということだ。(2021年6月13日

日記の続き#69

午後4時。ファミマで『日記〈私家版〉』8冊の発送作業をしていつもの珈琲館に来た。 もう在庫は残り3冊だ。これが売れれば完売ということになる。あとは書店の在庫だけだ(もともと合計30冊ほどしか卸していないので、これもそんなにやきもきしなくてもすぐ売れるだろう)。発売からちょうど1ヶ月で365部売り切ったわけで、ひとりで作ってひとりで売った本としては上出来じゃないかと思う。とはいえもっとうまくやれたなと思うところはいくつかある。たとえば今回はどんなにお世話になっている人であっても献本はしないし、個人的な刊行の報告もしないという方針を立てていた。まあ方針というほど立派なものではなく、たんに自分の日記を読んでくれと言ったりましてや勝手に送りつけたりというのは変な話だなと思ったからだ。でも次にまた別の本を自分で作ることがあったら、プロモーションの種まきを刊行前からいろいろしておくべきだなと思った。今回は動き出しが遅かったので刊行記念のトークイベントや選書フェアが行われるときにはもう売り切れという変なことになってしまった。でもまさか書店から注文が来るとは思っていなかったのだ。いわんやイベントをや。まあ書籍に「絶版」はつきものだがそれを「完売」と言ってお祝いすることは見たことがないので、刊行&完売記念ということでやればいいのかもしれない。読みたきゃ全文ここにあるわけだし。

追記。午後10時。在庫ゼロになった。完売!

日記の続き#67

6月12日。ここ数日うまくいっていない感じがするので、初心に帰って日記らしい日記を。日記飽きた!!とつぶやきそうになったのだがやめた。べつにいつやめたっていいと思うが、そういう気持ちになっているときは日々に対して抱えている屈託を日記に対する苛立ちにすり替えているだけで、でも日記は黙々とそのすり替えさえ受け入れるものでもあり、誰だってそういうものをひとつくらいもっていたほうがいいのだ。と思ったら彼女が座って手にバンテージを巻いており、こんな夜中にバンテージを巻く配偶者があるかと言ったら、こないだジムのタイ人トレーナーのクンさんに習った巻き方を試しているのだと言った。昨夜は彼女がジムから真っ赤な液体をペットボトルに入れて帰ってきて、それは何かと聞くとクンさんがお気に入りのシロップを水に混ぜてくれたのだが、甘すぎて飲めないのだと言っていた。たしかに置いているだけで蟻が寄ってきそうな甘い匂いがする。今朝、というかもう昼だったが、起きたら彼女は今度はサバットの練習に出かけていて、卵かけご飯を食べていると急にものすごい大雨が降ってきて窓を閉めた。すぐに止んで『日記〈私家版〉』の注文ぶんを発送しに出かけるとアパートの廊下の窓が開いていて床に水たまりができていた。帰ってきた彼女と近所の駅で待ち合わせてそのまま近くのココスで遅い昼ごはんを食べて、家に帰って遅い昼寝をした。玄関のチャイムが鳴って起きたが誰もおらず、ふらふらと布団に戻ると彼女が不思議そうにしており、どうやらチャイムは鳴っておらず僕が寝ぼけていただけだったということらしかった。

日記の続き#66

日記についての理論的考察§12各回一覧
以下、今日のいくつかのツイートより。

『日記〈私家版〉』、BOOTHの在庫は残り20冊ほどです。あとは以下の書店で販売されている在庫のみとなります。
日記屋 月日(下北沢)
本屋 B&B (下北沢)
ジュンク堂書店池袋本店
ブックファースト新宿店
とらきつね (福岡市)←New!
16:59

日記をそのまま収録しただけの、3200円もする変な形の本が365部売れるのかというのは (僕のなけなしの貯金にとっても)かなりのギャンブルであり社会実習であり市場調査だった。それで何が得られたのかはまだよくわからないが。
17:07

大げさに言うと、自分はこの世界を信じてよいのかというテストだったのかもしれない。答えはオーケーということなのだろうけど、これは僕自身が1年間積み立てた信用があってのことでもあり、ギャンブル用語でいう「握り」がさしあたり成立したということなのだろう。
17:16

日記の執筆やサイトの日記掲示板、そして『日記〈私家版〉』の刊行を通じて思うのは、日記には非コミュニカティブな信頼関係を築く力があるんじゃないかということ。
17:37

「ひとごととして眺める」ことにポジティブな意味を見出すのは、いまの社会にとってとても大事なことなのかもしれない。ある時期から「自分ごととして」という言葉を頻繁に聞くようになって、ずっと違和感があった。日記はどこまでもあられもなく「ひとごと」だ。
17:45

自分のことしか考えない→他人のことを自分ごととして考える→他人のことを他人のこととして考えるというステップがあるとして、ふたつめからみっつめへのジャンプはかなりタフだ。まさに村上春樹のいう「タフネス」はそういうことだと思う。
18:08

日記の続き#65

書くことがまったく思いつかず書き始めるのを先延ばしにしていたが、観念して書き始めた。何があったっけ。なんだっていいはずなのだが。作業の帰り。家のすぐ近くにパチンコ屋があって、店先にいつも新台の看板が出ている。AV女優の台が出たらしく水着姿の女優がずらっと並んだ写真が貼ってあるが、真ん中の明日花キララしかわからない、というか、彼女を中心に他の女優は左右に段々と小さくなりながら並んでいて、歩行者の目にとってはほとんど弁別性を失っている。明日花キララが明日花キララという名前になった瞬間の気持ちになってみようと思ったがよくわからない。さすがにダサくないかとか思ったのだろうか。データが少なすぎるし、その少ないデータも商店街の中の、パチンコ屋にしては驚くほど天井が低い店の、A2くらいの大きさのカペカペのポスターの、日本のタレントでもっとも成功していると言っていいくらいの完璧な美容整形とペカペカのフォトショップ越しで与えられている。わかるわけがない。看板を通り過ぎる数瞬のあいだになんだか勝手に拒絶されたような気持ちになりながら向かいのコンビニで飲み物を買って帰った。それにしてもパチンコにAV女優とは、あまりにあからさまじゃないか。

日記の続き#64

書店で『日記〈私家版〉』の刊行をきっかけにした、「日記も哲学も同じ散文」というテーマの選書棚を作ってもらえることになって、喜び勇んで30冊ほど選んで、すべてにコメントを付けますと言って、もう本は選んでいるのだが、まだコメントが書けていない。考えてみれば30冊だと200字ずつ書いても6000字の文章を書くことになるわけで、めちゃめちゃ大変なのだ。自分からやりますと言ったことだからやんないとしょうがないし。それも本の順番でコメントの内容もなんとなくひと繋がりにしようとしていて、これで全部うまくいくのかわからない。ともあれ今日は他に書くことも思い浮かばないので冒頭の2冊ぶんをここに載せておこう。

福尾匠『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、フィルムアート社
いきなり拙著で恐縮なのだが、同じ人間のやることなので、ドゥルーズ『シネマ』を通して考えたことと日記のあいだには繋がりがある。『眼がスクリーンになるとき』の第5章では、思考と時間の関係についてのドゥルーズの議論に取り組んだ。彼は、ものを考えるというのは、今日の次に明日が来るという単線的な時間から抜け出して、歴史が形作る地層から新たな断面を切り出すことなのだと述べた。そこでは非時系列的な時間が編み上げられる。ところで、日記を書いているときのいちばんのワンダーは、「今日」のことを書いているはずなのにいつのまにか違う時間に迷い込んでいるときである。

柴崎友香『ビリジアン』、河出文庫
この小説にはそうしたワンダーが溢れている。ある少女の10歳から19歳までの日常が連作の短編で切り出され、そのなかで彼女はしばしば「いつか」の自分に出くわす。思い出すという行為がそのまま外界に投げ出されてあるようなこの小説の世界は、私「が」過去「を」思い出すというときの助詞に宿っている方向性を撹乱する。その意味で彼女は鏡の国に迷い込むアリスに比せられるだろう。過去が私を思い出す。私を過去に思い出す。思い出すが過去を私に。

日記の続き#63

また1週間が過ぎて京都の日。正午。また明け方まで寝られず寝坊してしまい、いつもより1時間遅い新幹線に乗っている。英國屋をスキップすればじゅうぶん間に合うと考えてからシャワーを浴びた。今日は京都についてからひと息つく時間もないし、彼女の水筒を借りてコーヒーを入れていくことにした。僕は飲み物が好きで始終なにか飲んでいるのだが、移動中にカフェや自販機を探してやきもきするのも面倒だなと思ったからだ。新幹線のコーヒーも不味くはないけど、あのちっちゃいテーブルでちっちゃくなりながらちっちゃいゴミの行方を気にしつつ砂糖を入れたりするのが嫌だ。だいたい京都の行き帰りだけで4回くらい何かしらの飲み物を買う。それが水筒ひとつで済むんならそれに越したことはない、というようなことを、シャワーを浴びながら考えていて、それは計画であると同時にこの文章の推敲であった。なんだか頭が日記に過剰適応し始めているのか、暗算ならぬ暗筆できるワーキングメモリが増えた気がするのだが、そのせいで頭のなかで時間が混線する。
帰りの新幹線。夜10時前。ひかりに乗ると空いていていい。のぞみより20分多くかかるだけだし。いつか新幹線の名前を考える夢を見て、「薄荷」にしようと言ったのを思えている。壁に貼られた広告に「奈良は、行くからおもしろい。」とあってどこもそうやろと思った。ぜんぜん来ないことに拗ねているのか、京都は実際行ったらおもしろくないという当てつけなのか。結局水筒のコーヒーは飲み切って、大学では最近気に入っている無糖の午後の紅茶を飲んで、ペットボトルの水を買って新幹線に乗って、まだぜんぜん飲み切っていないのに車内販売のコーヒーを買って、ちっちゃいテーブルでちっちゃくなりながらちっちゃい砂糖を入れて水筒に移して、渡されたちっちゃいゴミ袋にゴミをまとめた。