日記の続き#222

新宿でひふみさんと多賀宮さんと会う。エジンバラで待ち合わせて、低劣な居酒屋に入ってしまいすぐ出て、行ったことのある居酒屋に移動すると今度は客が大声で痴話喧嘩をしている。外の喫煙所で煙草を吸っていると駐車場で電話をしている男が牛丼、とんかつ、タコライス、ガパオと叫んでいた。きわめて東京的な身の置き所のなさだ。花園神社の階段に座ってみるが寒く、『ノルウェイの森』に出てくるというジャズバーに移動し、終電間近になって黒嵜さんが合流した。大阪に帰る多賀宮さんをバスタ新宿で見送る。やはり東京と言えばバスタ新宿だ。浮腫んだ脚が並ぶアジール。もう12時を過ぎていたが連絡するとすぐに大和田俊と布施くんが合流して、エジンバラに舞い戻って朝まで喋った。黒嵜さんに会うのは半年ぶりだった。他の誰にも話せないような生煮えのアイデアもここでなら引き受けてもらえる。久しぶりにそういう自由を感じた。

日記の続き#221

結局学会では自分の発表以外ではほとんど誰とも話さなかった。梅田という街がそうさせたというところもあるが、よく言えば初心に帰ることができたのだ。誰とも仲良くなんてしてやるものかと思っていたし、つまんない発表は途中で出て行ってやればいいと思っていた。もう6年ほど前だが、前橋であった学会で、荒川修作について2人の中年の研究者が発表して、彼らが終始荒川を「荒川さん」と呼び司会の小林康夫について「小林先生に叱られないように」とか冗談めかして言っていた。今回はそういう東大表象同窓会みたいな感じはなく、初期メンバーが退官して40代の研究者が中核になってきているような雰囲気だった。善かれ悪しかれみんな優しくて仲が良い。疲れているだけかもしれないが。

昨日と同様空腹のなか会場に着くと、準備をしている人が福尾さんですかと声を掛けてきてどら焼きをくれた(本当に優しい人だった)。地階のスターバックスからケータリングされたコーヒーを飲んで、会場からZOOMに繋ぐ。会場に来たのは僕だけだったが、僕以外はちゃんと発表資料を準備していた。ZOOMだとどうしたって用意したものを話すだけで終わってしまうので内容についてはこれと言った感想はない。とりあえずアプリで時間に余裕をもって新幹線の座席を取っておいて、妻に頼まれたお土産のクッキーを梅田大丸で買って新大阪に向かう。その時点でまだ6時くらいだったのだが、改札に入ってしまうと時間変更ができないことをすっかり忘れていて、2時間も時間を潰さなくてはならなくなった。どこも人が満杯なのでホームに上がってベンチに座って眼をつぶっていた。気温が下がってくる。どうしようもなく疲れていて情けない気持ちになった。人が多すぎるのだ。帰るともう12時で、寝ている妻に声をかけて風呂に入ってストレッチとフォームローラーで体をほぐして寝た。

日記の続き#220

表象文化論学会へ。梅田を西から東へ横断する。茶屋町周辺にはいたるところに思い出がこびりついている。バイトの面接で落とされた居酒屋があった。面接で落とされたのなんてこのときくらいだ。岡山から出てきたばかりで、高校のときにすでに居酒屋で働いていたので落ちることはないと思ったのだが、たぶんものすごく暗かったのだと思う。お腹が空いたが人が多くて外食する気になれず、時間まで周囲をうろちょろしていた。この空腹さえあのときの空腹であるかのようだ。こうして梅田を歩くことと空腹であることのあいだには逃れようのない繋がりがある。会場は地階に蔦屋書店が入ったいけすかないビルで、発表のセッションをひとつ聞いて、非常勤先の学生が発表していたのでその彼に感想だけ述べてすぐホテルに帰った。また阪神百貨店で弁当を探す。とにかくまっすぐな唐揚げ弁当が食べたかったのだが、惣菜屋の島をいくつ周回しても見つからないので牡蠣フライ弁当を買って帰って食べた。夜中に目が覚めて、北新地のうどん屋で肉うどんを食べた。

日記の続き#219

大阪へ。昼ご飯を食べるタイミングを逸して、新幹線のなかでずっとお腹が鳴っていた。どこかお店に入るのも億劫だったので梅田で降りて阪神百貨店の地下で弁当を買ってホテルに向かう。学会は茶屋町のキャンパスであるので近くの堂山のホテルを取ったつもりが堂島のホテルにしてしまった。部屋で弁当を食べて眠る。寝間着として案の定嫌いなペラペラのガウンが用意されている。目が覚めると夜中で、またお腹が空いたので外に出た。大通りを渡ると北新地のメインの通りで、これだけ一挙にハイヒールを履いた女性を見ることもないなと思った。大阪に住んでいたときも来ることがなかった場所なので道がわからない。水商売向けにまだ開いているカツサンドの店を見つけて買った。店先で煙草を吸いながらカツが揚がるのを待つあいだ、自分の食べたいものを自分で作れない環境は辛いなと思った。

日記の続き#218

『レヴィナスの企て』書評パネルの準備。メモは取らずに頭のなかで言葉が回るのに任せておく。とくに喋り仕事の場合、自分が現場で喋っている情景の妄想と一緒にアイデアが浮かんでくる。口先のトーンに引っ張られるかたちで内容も出てくる。結局超越が多層的だと何が嬉しいんですか? それが本書には書かれていないように思いました。散発的に出てくるVRやAIの議論は本書の趣旨とどういう繋がりがあるのでしょうか。ここだけ切り取ってしまえば本書が批判しているはずのハイデガー的な技術論に収まる話だと思うし、かえって本書の射程を見えにくくしていると思います。僕が渡名喜さんのお名前を初めて知ったのは『ドローンの哲学』の訳者としてでした。僕がこの本を読んでいちばん印象に残っているのは、ドローン兵器の遠隔殺人による触覚的リアリティの消失ではなく、ドローン兵は戦場に直接行く兵士よりある面で心理的ストレスが高いという話です。それは……ということなのですが、この点から考えれば多層性というのは……

日記の続き#217

反り腰気味なのだと思うのだけど、仰向けに寝ると腰のあたりにちょっと突っ張ったような感覚がある。脚を上げる枕を買ってみようかとも思うが馬鹿らしいし、横を向けば眠れないわけでもない。仰向けに寝て、腰と布団のあいだにできたアーチを潰すように力を入れる。仙骨(背骨の根元にある板状の骨)が平らになるように意識して、そのまま呼吸の数を数えながら呼吸する。すると最初のうちは力みがあった前側の腿や腹筋から少しずつ力が抜けていく。しばらく続けると意識していなかった緊張があちこちで解除されていくのが感じられて、力を入れなくても姿勢が維持できるようになり、腰回りが本来の重さを取り戻したように沈んでいく。

夢を見た。タクシーで病院に行くと運転手が車を降りてついてくる夢だった。誰かの見舞いに来ていて、病室を探していると一緒に探すという名目で後ろにくっついてくるのでなにも言えない。廊下を曲がるとじいちゃんが花を持って病室に入っていくのが見えて、あそこだと思うと反対から韓国人の従姉妹(実際にはいない)が僕を見つけて走ってきて、挨拶をしようと向き直ると運転手が病室に入っていく。

日記の続き#216

家でだらだらしていると妻から体調を崩したので仕事を早退すると連絡があって、最寄りの駅まで迎えに行った。作り置きの野菜スープに牛乳を入れて味を変えて食べた。粉チーズも入れようと思ったら賞味期限が切れていて断念した。今日は皆既月食だというのでベランダから見た。9時には眠くなって起きると2時だった。

週末に出る書評パネルに向けてレヴィナスを読んでいる。顔はウィとノン以前の言説である、眼は話すと彼は言うのだけど、そうした縫合がなくてもなんだかんだでやっていける生の図太さに賭けるべきではないかと思う。繊細であることと繊細さに加護を求めることは別の話だ。

日記の続き#215

部屋で裏地がナイロンのボアベストを羽織っているからか、煙草を吸いに台所に行ったりするたびに、どこかに触ると指先にパチっと静電気が走る。夜になるとその頻度が上がるような気がする。最初のうちは煩わしかったが慣れてしまってからはクリックみたいなものだと思うようになってきた。タップ&スワイプという擬似的な点への接触が静電気を気取られることなく用いているのに対して、実際の接触にともなうパチっと鳴る静電気はある種のキアスムの関係にある。タッチスクリーンが「タッチ」を偽装するためにピクセルというリアルを隠蔽するのに対して、痛みをともなう静電気は実際のタッチを点的なクリックに翻訳するのだ。とか考えながら煙草を吸っていた。(2021年11月17日

日記の続き#214

ダーウィンのミミズ研究の本が届いた日に「クレイジージャーニー」で土壌学者の藤井一至が出演していたり、ベイズ推定の歴史の本を読んでいると博論本の原稿でちょうど出くわしたマルコフ連鎖の話が出てきたり、こないだのレクチャーで表現と作品の関係の話をしたら今度書評パネルに登壇するレヴィナス本にその話——レヴィナスはふたつを対立概念として扱うのだが——が出てきたり、日々そういう静電気みたいなものがパチパチと、頭のなかで起こっている。これは一方でそこから何かが広がっていくアイデアの可能性であり、いろんな本を読む楽しさのひとつはそこにあるのだが、他方でそれはまたパラノイアックというか、数字がゾロ目の時計をよく見るというような偶然とバイアスの取り違えでもある。偶然とバイアスを取り違える幸福な愚かさがなければアイデアはないのだが、それがあくまで幸福なものであるためには、妄想的な楽しみと静電気的な行き場のない楽しみを併走させることが必要だ。それがテクニックなのか、人間とはそもそもそのようなものだという達観なのかはわからないけど。

日記の続き#213

コメダ珈琲で作業。隣の席に注文を聞きに来た店員が「カツパン」にはからしマヨネーズが入っておりまして、こちらを普通のマヨネーズにすることもできますがいかがいたしましょうかと言うと客がからしマヨで大丈夫ですと答えたのだが、僕はからしマヨネーズと言われてからしマヨと返すことなんてできないなと思った。なんというか、からしマヨという言葉なんて知らないふうに振る舞うべきだし、さらに言えばからしマヨネーズという言葉を初めて聞いたふうに、あるいは「カツパン」にからしマヨネーズを入れるのはちょっと思いつかなかったというふうに振る舞うべきだ。店員は少なくとも非からしマヨ的世界を生きているわけで、こちらが勝手にそれを台無しにするべきではないし、言葉を大事にするとはそういうことなのだ。しかしこの場合、「カツパン」とは何なのか。