日記の続き#135

八月の30年——18歳

通算500回目の日記。昨夜8時くらいに眠たくなって起きたら4時で、今は朝8時半。この連載で何を書くべきなのか、その基準が見つからなくてずっと迷っている。いつでも思い出せることは書かないようにしようと思っている。3年生になると教室が3階になる。3階からは小さく海が見えた。岸をなぞるように延びる国道2号線は轟音とともに脇をすり抜けるトラックがおっかない。その海は近づいても小さい。日に何度か北木島や白石島と往復するフェリー乗り場があり、小さな漁船がぎいぎいと音を立てながら並んでいる。国道と海に挟まれた黒い砂利が広がる空白地帯にアスファルトの粉塵で煤けきった、その街に唯一のラブホテルがあった。「瀬戸内レモン」的なイメージはわれわれにとって沖縄と同じくらい縁遠い。笠岡港は暗く、福山港には工場しかない。夜には煙突から炎が上がっているのが見える。高校へは地元からバスで30分ほどかけて、名前のない山をひとつ南へ越えて通っていた。そこからどこかに行こうと思ったら西か東に行くしかない。結局東の大阪に出ることになった。大阪は2号線の終端でもある。

日記の続き#134

八月の30年——17歳

引っ越してキッチンが広くなって、ほとんど毎晩ご飯を作るようになった。豆ご飯とか、ハンバーグとか、ナスといんげんにすりごまとかパクチーとかを入れた醤油と酢のタレを和えたやつとか、湯通しした鰤と甘夏のカルパッチョとかそういうものを作っている。今日はアジフライと味噌汁を作った。魚に衣を付けていて高校生のときに居酒屋でバイトをしていたときのことを思い出した。サッカー部を1年で辞めて(後輩という存在ができるのが嫌だった)、学校にもあんまり行かなくなったので暇で始めた。時給680円(当時の岡山県の最低賃金)なのに月に8万円くらい稼いでいた。昼は定食を出していて、土日はパートのおばちゃん達と一緒に丸1日働いていたからだ。1年ほど経ってオーナーになんか時給安くないですかと言うと730円になった。出勤時間は紙のノートに書いていた。バイト禁止の学校なのにある日「肩幅」と呼んで嫌っていた数学教師が飲みに来て、オーナーに学校の先生が来てるんですけどと言うと、これ着けとけとマスクを投げられた。ビールを持っていくと明らかに気づかれていたが面倒を増やしたくないからか黙っていてくれた。オーナーは魚屋の息子で、昔は悪かったらしいが家業を展開して魚が売りの居酒屋を始めた(今思えば乱立し始めるスーパーにとても柔軟に対応したのだろう)。お前は頭がいいから——普通科高校に入学すると頭がいいということになる地域だ——司法書士になれといつも言っていた。高3の冬になってさすがにやめたかったのだが年末年始は忙しいからとなかなかやめさせてくれず、正月明け、つまりセンター試験の2週間前まで普通に働いていた。思い出したのは、その元旦の未明におせち400セットの仕込みをしたときのことだ。かさごか何かの唐揚げの準備で、いつも寝不足の社員の中村さんが内臓を抜いた400尾の魚にひとつひとつ小麦粉を付けていく。まだ明るくもなっていない真冬の朝に店の外の「チャンバ」と呼ばれる巨大な冷蔵庫の脇に広げられた大きいバットに並んだ冷たい魚にひたすら粉を付けていて、本当に何をしているんだろうと思った。(2021年4月18日

日記の続き#133

八月の30年——16歳

高校は昔「千鳥女学園」とかそういう名前だったらしく、「笠岡高校」となってからも「千鳥」と呼ばれていた。漫才コンビの千鳥の名前の由来になった高校だ。彼らは千鳥と隣接する笠岡商業高校で出会ったのだが、ふたりとも千鳥に憧れていたということらしい(僕が入ったときは定員割れで憧れられるような学校ではなかった)。いつだったか千鳥のふたりが母校を訪れる番組で、両校が接して形成される三角形のどん詰まりの敷地に住んでいる「小寺のおばちゃん」が出てきて、僕もサッカー部の練習中に柵の向こうから野次られたりしたことを思い出した。両校が体育祭の練習を始めるとうるさくてかなわないと言っていてそうだろうなと思った。千鳥の岡山弁はもはや千鳥語で、岡山出身の芸人というと最近だと見取り図のリリーやウエストランドのふたり、東京ホテイソンのたけるとかかが屋の細いほうとかがいて、前回のM-1はとくに岡山出身者が多かったということだったが、誰も岡山弁を話さない。いつかの「しくじり先生」に東京ホテイソンとウエストランドが出ていて、いかに岡山弁でお笑いをやるのが難しいかという話をしていたのを覚えている。彼らも千鳥の岡山弁は特別だし、それも関西弁との折衝を経由したからできたものであって、いきなり東京に出てきて岡山弁を出すのはとても難しいのだと言っていた。それにしても僕は高校を出て6年大阪にいたのだが自分なりの千鳥語を編み出すことなく終わった。関西弁との距離と書き言葉的な話法への接近で方言は押し潰されてしまったのだろう。両方岡山出身のウエストランドですら岡山弁で漫才をやってみろと言われてしどろもどろになっていた。話芸といえどもたんなる口語ではないのだろう。

日記の続き#132

八月の30年——15歳

折り返し。ここまで来ると思い出すことより何を書くか選ぶことのほうが難しくなるが、思い出すことにはたいてい自分をどう見せたいかという下心が入り込んでいる。まああんまり禁欲的になってもしょうがないとも思うので思いつくままに書く。友達のお調子者の大くんが唯一の生徒会長候補で、担任から彼はなったらなったで困ると思うから君が出てやってくれと頼まれて、僕もそうだろうと思ったので出ることにした。とはいえやったことと言えば別の友達に山の風景を描いてもらってそれをポスターとして掲示しただけだったのだが大くんも同じようにふざけていたら僕が通ってしまい、しかし僕は別の理由であんまり学校に行かなくなり、高校にも進学しないと言い出したので結構な騒ぎになった。最初に担任が、次は育休中の前年の担任が子供を連れて、最後は世話好きの友達の父親までもがかわるがわる家に説得にやってきた。毎晩のように寝室から母が泣くのが聞こえてくるし、父は何を思ったのか当時ちょうど流行っていたアンジェラ・アキの「十五の君へ」という歌の歌詞を書き写したものを渡してくるし(こんな恥ずかしいことってありますか)、彼女には振られるし、バイトをしようと思って新聞の営業所に電話したら親にチクられるし、同時に生徒会長として休めない日はいろいろやっていたわけで(イベントごと以外では部室の修繕案を通すために先生とPTA相手にプレゼンをしたのを覚えている)、今思えばせわしない年だった。最後は誰も説得してこなくなったが、母が泣きっぱなしなのがキツいのである夜彼女に高校にいくことにすると伝えた。僕も悔しくて泣いたが、お前に何ができるんだと思う。

日記の続き#131

八月の30年——14歳

誇張でなく毎日のように10キロ以上走っていたと思う。学校では陸上部で中長距離の練習をしていて、週に3日はサッカーのクラブチームで練習をして、サッカーがない日は夜ひとりで走っていた。中2のときに出た駅伝の県大会で最終区でふたり抜いて7位になったのが、スポーツにおける僕のいちばん優秀な成績ということになると思う。個人では800メートルで県の決勝に残るのがやっとで、サッカーは岡山西部の選抜の補欠がやっとだった。今の生活から振り返るとウソのようだが、同時にこの頃は小説や音楽という新しい世界を発見した時期でもあって、中3から不登校になることを考えればいちばん「文武両道」していた年ということになる。というか、状況証拠から考えるとそうなるはずなのだが、地面が足を蹴るように走っていた感覚と下巻から上巻へと読んで何の疑問ももたず文章に没頭していた感覚とはあまりにかけ離れていて、実際のところ当時の僕が何を考えてどういう生活を送っていたのかというのはよくわからない。少なくとも学校では運動ができる人ということになっていて、読書は友達からも隠れてしていたことを覚えている。いちど自転車で図書館に行っているところを友達に見られて、翌日それをからかわれたことがあったからだ。

日記の続き#130

八月の30年——13歳

午前4時前。上がってすぐ読むひとはどれくらいいるのだろうか。ともかくこんばんは。どんな夜をお過ごしでしょうか。ものすごく退屈な人が電車で向かいに座った人に頭のなかで話しかけるような、そういう退屈さにおいて話しかけています。13歳というと、ベタにうちには村上龍の『13歳のハローワーク』がありました。本書を読んだときのこれで終わり? という物足りなさへのひっかかりと、こんなものだろうと大人ぶって泰然としてみせる強がりとが同居した気持ちを覚えています。言い訳みたいに「暴力が好きな人」とか「エッチなことが好きな人」のための職種も紹介されていて、なんというか、こういう言い訳みたいな添え方もあるのだなと思ったように思います。「エッチなことが好きな人」のところの挿絵が、マネキンのスカートをめくって覗いている少年のイラストで、これにもまた配慮のための配慮のようなものを感じました。当時は目につく端から小説を読み漁り始めた時期でもあって、図書館で村上春樹の隣に同様にたくさん本が並んでいる村上龍を自然に手に取ることもあったのですが、運悪く『ストレンジ・デイズ』とか『イン・ザ・ミソスープ』とか胸くそ悪いだけでぜんぜん面白くない本にあたってしまい、『ハローワーク』のことも相俟って龍のことはだいぶあとになって『コインロッカー・ベイビーズ』を読むまでずっとたんなる悪ぶったおっさんというイメージでした。『ストレンジ・デイズ』の忘れがたく気持ち悪いシーンがあって、主人公の昔悪かったおっさんが髪を赤に染めたトラック運転手の若い女に去られるのですが、取り残された男がドアーズのテープを流しながら酒を飲んで「悪くない」と言うのです。僕は失恋を肴に酒を煽って染み入るようなおっさんには絶対ならないようにしようと心に決めました。それが何よりの13歳のハローワークだった、という話です。

日記の続き#129

八月の30年——12歳

ここのところこの文章を書くのが嫌だなあという気持ちで1日の3分の1くらいを過ごしている気がする。それでどんどん生活時間がズレ込んでいって、今はもう朝6時半だ。こんなダウナーな文章を朝読んでしまうことを思うと申し訳ないなとも思う。昨日引っ越した話をしたが、話が1年ズレていて、引っ越したのは12歳のときで、小6なのも12歳のときだった。初めての一軒家で、家族4人に加えて母方の祖父母と、彼らが飼っているマリというおとなしいシーズー犬と住むことになる。マリは僕が高校生になる頃まで生きていた。世話をしていたのはもっぱら祖父母で、接するのはみんなで晩ご飯を食べるときに居間にやってきてくるときくらいだった。マリが死んだとき、彼女は縁側に敷かれた布団に寝かせられていて、頭を撫でたりしながらばあちゃんから死んだときの様子を聞いた。お腹に水が溜まっているということなのでお腹を撫でると、たしかに普段よりぽっこりしていた。夕飯の席でばあちゃんが母にたっくんがマリのお腹を触ってくれたという話をしていた。それはお腹を触ったことについての話ではなく、そういう気持ちについての話だった。でもそれはお腹を触った話として話される。その距離を感じながら黙っていた。

日記の続き#128

八月の30年——11歳

団地から一軒家に引っ越す。隣の学区に移ったが、すでに6年生の3学期だったので転校せずに車で送り迎えしてもらう。車を停める裏門側はそれまであまりなじみのないゾーンだった。そこには地元の偉人ということで、池田長発(「ながおき」と読む)という幕末にパリまで条約の交渉に行った(失敗して隠居を強いられた)人物のブロンズ像が建っている。校長室のある廊下には長発ら髷を結って袴を着た使節団が立ち寄ったカイロでスフィンクスをバックに撮影したモノクロ写真が飾られていた。「長発太鼓」という和太鼓の曲があって、6年生はこれを学芸会や市のイベントで披露する習わしがある。しかし教師も含めて長発が何を考えてどういうことをした人物なのか説明できる人はいなかったし、太鼓にいたってはそれが長発と直接関係のあるものなのかどうかすら誰も気にしていない。井原市のもうひとりの偉人は平櫛田中(「でんちゅう」と読む)という彫刻家で、街の真ん中にある小さな田中美術館の前にある田中公園には、彼の「いまやらねばいつできる/わしがやらねばたれがやる」という箴言が彫られた石碑が建っている。いやはや。僕の気持ちがわかってもらえますかね。

日記の続き#127

八月の30年——10歳

学年の終わりの文集に宝物を書く欄があって「Aバッジ」と書いた気がする。後年それは岡山県の小学校でだけ配られるものだと知ることになるのだが、毎年行われる体力テストで総合点がAになるとその小さなバッジがもらえるのだ。僕は小2から小6までの5個持っていて、同級生で6年制覇したのはあっくんだけだった。彼は中学に上がると3年生の女子がわざわざ見に来るくらいきれいな顔をしていて、彼のオスグッドの膝の出っ張りさえクールに見えた。それで運動するときは膝に黒いサポーターを巻いたりするのだからたまらない。小学生というとよく一緒に遊んだり疎遠になったり、いじめたりいじめられたりと無軌道に入れ替わる場所だったが、あっくんとも一時期よくふたりで遊んでいた。たいてい彼の家の応接間でゲームをしたのだが、任天堂64の『ゴールデンアイ007』という大人っぽいゲームで、しかもFPSなんてとうぜん触ったこともないし何が何だかわからずぜんぜん勝負にならない。それでいつも彼と彼の兄が対戦しているのを眺めていた。でもソファというものが珍しかったのでそれでも楽しかった。鮮烈なソファ体験というと、小2の年だったが、僕が住んでいた団地の近くに別の団地があって、そこに住んでいる同級生のミサキさんのところに遊びに行ったときにソファがあって始終跳ね回って遊んでいた。翌日学校に行くと家に行ったことを別の女子にからかわれ、僕とミサキさんが一緒にシャワーを浴びているところを描いた絵を見せられた。なぜ絵なのか。なぜシャワーなのか。数年後にはからかう手段もいくぶん洗練されて、使い捨てカメラで僕を撮影して、僕が好きな子——だと彼女らが思っている人——にそれを渡すと言ってくるというものになった。それはすごく嫌だった。図星だったし、意味がわからないし。そういえばあっくんとは、中1のときに彼が母親と一緒に福山に変形の学生服を買いに行くのに呼ばれてついて行って、彼女にワンタックがいいのかツータックがいいのかと聞かれて、「タック」が何のことかわからなくて何も答えられなかったということがあった。あれはなんだったんだろう。

日記の続き#126

八月の30年——9歳

ふと思い出したことを書くのではなく、こうして年で区切って無理矢理思い出を引っ張り出すのは、暦が刻んだ魂の傷をわざわざなぞるようなものかもしれない。ともかく、団地の同級生、ヒロくんにはペルーからの移民の従兄弟がいて、なぜか彼が団地にやってくるたびに僕は彼と喧嘩をしていた。当時地元にはペルー人がちらほらいて、しばらくしてから中国人の女性をよく見かけるようになった。若い大人の女性が連れ立って自転車に乗っているとそれだけで目立つので、すぐに中国人だとわかる(そもそも「若い大人」が珍しいのだ)。最近はベトナムから来る人が多いらしい。僕の叔母は地元の工場——たしかコンビニ弁当とかのプラスチック容器を作る工場だ——で働いていて、よく職場の外国人と仲良くなって彼らの地元に呼ばれて遊びに行ったりしているひとで、数年前の正月に彼女からその話を聞いた。僕もペルーに呼ばれるくらいの仲になるべきだったのかもしれない。でも彼はとても乱暴で力が強くて、いちどなどアイアンクローの爪がおでこに刺さってかなりの深手を負ったこともあったし、いつも組み伏せられて終わっていた気がする。それにしても目を合わせるたびに喧嘩をしていたのは僕がレイシストだったからなのか、何か他の因縁があったのか、思い出せない。