日記の続き#85

6月ももう終わり。なんだかごちゃごちゃした月であっという間に過ぎていった。7月は腰を据えて博論本に取り組みたい。とはいえすでに梅雨も過ぎていて夏休みにジャンプしたようだ。晩ご飯は冷やし中華とステーキというよくわからない組み合わせだったがおいしかった。電力も水道も逼迫しているらしい。日本の夏、逼迫の夏。大いに逼迫すればいいと思う。ただ暑いというのはシンプルでいい。

日記の続き#84

書きあぐねていた事務書類があって、ある物が「不要」である理由を書かなければならかったのだけど、不要だから不要なのであり、それ以上考えるのが面倒になりほったらかしにしていた。しかし昨晩ふと「用途がない」という言い回しが思い浮かんで、これなら書けるなと思いながら眠り、起きてさっき書いて出した。これで通るのかどうかは別問題だけど、こういう突破は他の文章を書いているときにもよくある。

これこれの事由により不要である、というのはとても強い言い方だ。いくら理由を連ねても、それと積極的に不要だと言うことのあいだにはジャンプがある。それがあると害をなす、あるいはそれが使えなくなるような破損を被っているわけでもないものについて、これはいらないと言うのは、結局いらないからいらないと言っているのと変わらない。しかしこれこれの事由により用途がなく、したがって不要である、というのは不思議なことにロジカルな感じがする。用途がないと言えば当の物の「パフォーマンス」について言及する必要が一切なくなる。物そのものではなく物を取り囲む状況に問題がシフトされるわけだ。あとは相手のプロトコルないし担当者の性向が「用途がない」と「不要」の短絡を受け入れるかどうかに関わっている。いずれにせよ文章というものは、「不要」の手前に「用途がない」を置くだけで視野がぱっと開けるような微妙な手続きの連続で成り立っている。(2021年3月21日

日記の続き#83

風邪のせいなのかポカリの飲み過ぎなのかわからないが、口の中のpH値が変わったような違和感がある。 あるいは口の中が安いホテルのカサカサしていると同時に湿ってもいるようなベッドになったような違和感がある。あるいは風邪を引いてポカリを飲みまくったときのような違和感が(あまりにわざとらしい)。とか考えながら二度寝をしていて、この日記の続きのありかたを考えていた。2ヶ月以上続けているのにいまだに「続き」と銘打つ積極的な理由が見つからずにいるのだが、これはシンプルに新しい文学理論を作るための実験なのだと考えればいいのかもしれないと思った。他のジャンルもそうだと思うが文学も、ジャンルを閉じたものとしたうえでのフォーマリズム的な理論とそれを社会的領野に置きなおす理論とが、後者が前者を乗り越えるというストーリーのもとで分離していて、そこで停滞しているのがこの10年だか20年だかだと思う。文学論を小説論に固定してしまうこと自体がそうしたそういう行き詰まりを生んでいて、「小説と社会」とか「小説と私性」とか、芸術と非芸術を項として立てたうえで両者の関係を——たいてい自分を芸術の側に置きながら——問うことに何かのロックがかかっているんじゃないかという気がする。これはいちばん低層では小説だからなんだというチンピラ的な怒りでもあり、ささけんさんへのインタビューで話したレッサー・アートやドゥルーズ゠ガタリのマイナー文学の話でもある。ポジティブにはこれまで「日記についての理論的考察」で素描してきたような多面性が日記にはあるし、なにより日記は誰しもいちどは書いたことがあるし書こうと思えばいつでも書ける。とはいえこれを形にするうえで『日記〈私家版〉』のように何も手を加えずに本にするというのはあんまりやりたくないので、構成を考えるのがいちばん難しいと思う。とりあえずタイトルは『日記と理論——ある文学機械の日課』とかがいいんじゃないか。

日記の続き#82

思えばおとついあたりからその予感はあったのだが、今朝目が覚めると風邪を引いていた。いつも風邪の引き始めはそうなるように喉仏から左に2センチくらいのところがピンポイントで腫れていて、ものを飲み込むのもつらい。熱を測ると37.4℃で、発熱外来を予約せねばと思ったのだがまだ時間外で電話が通じず、気づいたら眠っていて起きたら午後3時だった。熱は38.5℃まで上がっている。あらためて電話すると思ったよりスムーズに予約できて、4時45分きっかりに専用の入り口のインターホンを押してくれということだった。寝ているのも座っているのもつらいので、武尊の活動休止記者会見を聞きながらシンクに溜まっていた食器を洗った。僕は病院に行くときはなるべく明るい格好をすることにしている(おじいちゃんおばあちゃんに元気を与えるため)のだが、今回は終始1畳くらいのソファと空気清浄機だけがある空間に閉じ込められていた。いちばん似ているのは相米慎二の『風花』で小泉今日子が働いていたピンサロ店のブースだ。涼しいはずなのだがあとからあとから汗が出てくる。問診票の職業欄を空白にしていたら仕事はないのかと聞かれた。「ないのか」ってなかなかの言い方で感心した。マスクにフェイスシールドと半透明のガウンで全身を覆った看護師が入ってきて、先端にカメラがついた管を鼻に入れて喉の様子を見て、次はコロナの検査用の綿棒で鼻の奥をこすって出て行った。どれくらい待つんだろうと思うまもなく戻ってきて、陰性だと言ってPCR検査もするかと聞いた。PCR検査もする必要があるのかと聞くとないということだったので断った。汗が止まらない。喉が痛い。内臓が疲労して凝り固まっているような怠さがある。とりあえずコロナじゃなくてよかった。帰ってまた寝て、彼女が作ってくれたとろろと卵のぶっかけうどんを食べて薬を飲んでまた寝て、起きたらまだ38.0℃あった。

日記の続き#81

日記についての理論的考察§13各回一覧
ドゥルーズ゠ガタリの『カフカ:マイナー文学のために』第4章は、カフカの散文を手紙、短編小説、長編小説に区切って論じているが、章末に付された長い註で、著者らはカフカの日記を取り上げられなかったことを悔やんでいる。彼らが言うには、日記はカフカのコーパスにおいてあまりに全面的であるので、それに特定の役割を代表させることができなかったのだ。「芸術と生は、メジャー文学の観点から見るときだけ対立し合う」(宇野邦一訳版、83頁)のなら、生きることと書くことの最小回路を形成する日記はまさにマイナー文学だと言えるだろう。もちろんこれを、日記はマイナーで長編はメジャーというジャンル間の対立に差し戻してしまっては元の木阿弥だ。ドゥルーズ゠ガタリはマイナー文学をいわゆるメジャーな文学のなかにさえある文学の革命的な条件としているのだから。しかしやはり、〈その日あったことを書く〉という形式のあっけなさは、「文学的」なものに見込まれる〈個人的な生/それを書くテクスト〉の階層化、ひいては表層としての後者を通して深層としての前者を解釈する〈シニフィエ/シニフィアン〉の階層化を骨抜きにする力があると思う。彼らは欲望機械は壊れることで作動するような機械なのだと言ったが、噛み合わない生活と日記のあいだをすりぬける隙間風のようなマイナーな運動が日記を文学機械にする。散文が素っ気なくなるほどに、生活は書かれる前から表現であふれていく。

日記の続き#80

ここ数日「方言のたやすさと難しさ」というフレーズがときおり頭に浮かぶが、それをどう触っていいのかわからない。春から毎週新幹線で京都に行っていて、僕の地元は岡山だからもっと先なのだけど、新横浜と名古屋のあいだ、名古屋と京都のあいだの景色の大部分を占める、ものすごく田舎というわけでもないが、田んぼと民家と工場と学校しかないような匿名的な風景に、僕はこういうところから来たんだと思う。いずれも岡山を通らないことは同じだし、景色の構成要素もそんなに変わらないだろうが、これが東北新幹線だったらそうは思わないだろう。東海道と山陽本線は南北を海と山に挟まれて東西に主要道が伸びているという点で同じだが、東北新幹線は北に向かって伸びていて道に対する太陽の軌道が違うからだ(この差は東北に向かう道中の景色のジャメビュ的な印象を生む)。ともかく、2時間の行程の1時間半くらいを占めるそうした退屈であまりに身近な、しかしたんなる観念的な関係しかないそういう景色を見ると、そこがどこだか知らないのにこういうところから出てきたんだと思う。方言のたやすさと難しさは、地方のローカリティ(狭さ)と「地方」のマジョリティ(広さ)に対応するのかもしれない。

日記の続き#79

昨日は大和田俊さんとのトークで東京造形大へ行った。桜木町駅から横浜線で1時間ほど北上して、相模原と八王子のあいだにある相原で降りる。スクールバスに乗って道路の両側を木々が覆う山道を抜けるとキャンパスがある。大和田さんは何か憔悴した様子で、喫煙所で話すと緊張して一睡もできなかったと言うので、ぜんぜん準備しないのに準備できてないと不安になっちゃうタイプですよねと言った。蓋を開けてみたら彼は100枚以上の写真を活動の時系列順にまとめて、言及するかもしれない文章をプリントアウトして配れるよう手配しており、本当に不安だったんだなと思った。前半は僕は話の交通整理に徹して、後半の彼自身まだどう展開するか迷っているであろうトピックについて、僕なりの考えを述べた。しばらくのあいだアーカイブが公開されているようなのでぜひ見てほしい。大和田さんと主催のCSLABのうらさん・池上さんと5人の学生とで相原駅前の居酒屋で打ち上げをした。大人数の、しかも大半が知らないひとの飲み会は本当に久しぶりだった。マスクをしていないハタチくらいの男女が向かいに並んで座っていて、知らないひとの顔を久しぶりに近くで見るのと、こんなに若い人が大学生なのかとびっくりしたのとで、とても不思議な気持ちになった。僕はふだん人の顔を見て話すのが苦手なのだが、あらためて人の顔ってこんなに刻々と変わるものなのかと驚いてまじまじと見てしまった。

日記の続き#78

「郵便的、宅配便的」というタイトルを思いついた。どういう内容なのかわからないままにタイトルだけ思いつくことがよくある。「理論の突き指」とか、「端末が「ターミナル」だった頃」とか。それはもちろん僕が考えていることと無関係ではないし、タイトルと一緒にある程度の方向性は浮かび上がるが、書いておかないと忘れるのでそのつど呟いたりするようにしている。最近で言えば「スパムとミームの対話篇」は依頼があって書き始める前にタイトルだけ思いついていて、そのお題に答えるようにして書いた。言葉遊びやパロディに圧縮されたものをどう具体的な文章として展開するかという、セルフ大喜利、あるいは自分の自由連想を自分で分析するみたいな感じで面白い。

それで、「郵便的、宅配便的」がどういう文章になりえるかというと、やはり郵便はポストに投函するものであり、宅配便は玄関先で手渡すものだという対立がまず思い浮かぶ。ポストとはデリダ的な「差延」の場、つまり現前的なコミュニケーションを毀損すると同時にそれなしには当のコミュニケーションが成立しない、不在の謂である。隔たっているからこそコミュニケーションが要請され、隔たっているからこそコミュニケーションは十全なものではありえない。それに対して宅配便は差延を許さない。チャイムを鳴らし、いなければ不在通知書をポストに入れて帰っていく。不在が不在としてマークされるのだ。郵便はいるかいないかということに頓着しないが、宅配便はいれば渡すし、いなければ私はそこにいました、しかしあなたはそこにいませんでしたと、不在を局在化させ、それ自体をコミュニケーションの明示的な要素にする。郵便的な不在はいつ・どこでなくなるかわからないという不確定性によって効果をもつが、宅配便的な不在は特定された不在として位置をもっている。

しかし、コロナ禍によってアマゾンやウーバーイーツが取り入れ、急速に一般化した「置き配」はこのうちいずれに分類すべきなのだろうか。一見それは受け取り手の在/不在に関与しない郵便的な仕組みに見えるが、アパートのドアのそばに置かれた荷物を見ると僕はいまだに不気味な感じがする。それはたんに、慣れ親しんだ宅配便的インフラが急に郵便的仕組みを取り入れたことからくる違和感なのだろうか。たしかにそういう部分もあるだろうが、それ以上のもの、つまり置き配的なものの固有性があるとしたらそれは何だろうか。

ひとつにはドアの外の床に箱が置かれているということからくる疎外感があると思う。投函でも手渡しでもなく、床に置かれている。印象としては、郵便的不在には自分がそこにいるかいないか不問にしてくれているという感じがあるのに対して、置き配的不在は自分がそこにいるかどうかはたんにどうでもよく、とにかく荷物を置いて帰っているという感じがある。逆に言えばこの「とにかく」の直接性を和らげるものとしてポストは機能するわけだ。郵便は受け取り手の在/不在をそれとなく不問に付すのに対して、置き配は受け取り手の在/不在以上にとにかく荷物を置いていくことが大事なんだとあからさまに示している。

ロジスティクスの全面化。あらゆるものが出発点、終着点、経路、荷物のアレンジメントの規格化・効率化に巻き込まれる(「コントラ・コンテナ」は大和田俊の個展の分析を通してそれに対する抵抗の可能性を探る文章だった)。私がいるのかいないのかということはそこにいささかも関与しない。郵便的なものの局所的な回復はありえるだろう。しかしコミュニケーションそのものがロジスティクスに置き換わってしまったような世界で、郵便というメタファーはあまりに危ういようにも思える。「コントラ・コンテナ」や「ポシブル、パサブル」の空間論はロジスティクスそのものから距離を取って空間を考えなおす文章だったのだろう。「いてもいなくてもよくなることについて」もそうだ。やはりたんに思いついたものでも掘ってみるといろいろ出てくる。(2021年11月28日

日記の続き#77

他人事ながら見かけるだけでちょっと暗澹たる気持ちになるのだけど、アマゾンで本のレビュー欄に配送状態についてのクレームが書かれているのはとても示唆的なことかもしれないと、今、京都からの帰りの新幹線で持ってきた本のページがふやけたようにうねっているのを見て思った。田んぼに水が張られて、京都からは修学旅行生が消えて、梅雨が来た。たしかに空気はじとっとして、僕もクセ毛のうねりに困っているが、だからといって届いたときから本のページまでうねっているのはおかしいんじゃないか。批評が機能しない、あるいはこれからはポスト・クリティークなのだという批評をめぐるネガティブな態度決定の手前に、作品についてのメタ言説がプラットフォーム批判にスライドしてしまう、アマゾンのレビュー欄のクレームから新聞広告のキャラ絵への批判やネット右翼本を置く書店への批判までを覆っている、この漠とした、しかしそれ自体実定的な現象について何か言うべきではないか。舞原駅に停車した。ひかりに乗って帰っていて、車両を独り占めしている。昨日は夏至だったらしい。どうりで日が長い。そういえば去年の日記のどこかに、アマゾンのレビューで一人称を「評者」にして書いているひとを見て、それってなかなか思いつくことじゃないという話をした。「評者」氏も配送状態クレーマーもそうだけど、そこがどこかなんて気にして書く人は僕が思っているよりずっと少ないんだろう。それは祝福すべきことのように思う。そういう言葉が転がっているのがインターネットのいいところだ。

日記の続き#76

ばらばらと買った本をばらばらと読んで、遅い昼寝から起きて、米を研いで炊飯器をセットして、この日記を書いている。今日は何を作ろうか。最近作ったもので言うと、こないだ作ったヒレカツは上手にできて、昨晩作ったパスタはちょっと凹むくらい失敗した。まあまあ料理はできると思っていたし、そのなかでもパスタは作り慣れているはずだったのだけど、小さな失敗が積み重なってぜんぜんおいしくなったのだ。彼女にパスタにしようと思うが何が入っていると嬉しいかと聞いて、スモークサーモンだと言うのでまいばすけっとでスモークサーモンとアボカドを買ってオイルのパスタにすることにした。最初の失敗は麺を茹でるお湯に塩を入れ忘れたことで、途中で気づいて具のほうに塩を入れて味を調節しようとしたのだけど、なんだかしょっぱさだけ浮いた感じになってしまった。アボカドは実が堅くて風味が浅かったし、作りながら入れることを思いついた舞茸はちょっとエグみが出ていたし、これはもう牛乳を入れてクリームパスタにするしかないなと思ったら賞味期限が切れていた。料理を失敗したときの独特のやるせなさには、生活のゲシュタルトが崩れ去っていくようなところがある。彼女はおいしいよと言って食べてくれたが、彼女にしたってちょっと失敗するとすぐもう捨てると言い出すので、そのたびに僕がなだめるのだ。ゴミに意味を与え合っていくことで張り合わされる生活、その破れをラカンは現実界(英語だとthe Real)と呼んだわけだけど、生活はその大仰な闖入の大仰さを笑い合うことも含み込んでもいる。それにしても今日は何を作ろうか。お米が炊ける匂いがする。