日記の続き#92

3日前にドンキをぶらぶらしていて、カルバンクラインの肌着の3着セットが安く売っていたので買った。白、黒、グレーのTシャツ。Sサイズでちょうどよかった。買った服はすぐ着ていちど洗濯しないと落ち着かないので、毎晩風呂上がりに1着ずつ新しいのを開けて着た。もうユニクロのTシャツにも降りてきているビッグシルエットの流行は早晩終わるだろう。2, 3年前はスウェットパンツと靴下みたいなスニーカーだった(勝手に「靴靴下化問題」と呼んでいたが、別に何を書くこともなかった)。今は溶岩みたいにボコボコしたスニーカーと大きいトップスだ。確かにいずれも民主的ではある。流行は挑発的なものでなく安心を与えるものになった。いったんお洒落の意味を、「その日着るものを気分に合わせて選ぶことができる」というところまで切り詰めるべきだと思う。この場合気分というのはたんに主観的な心情だけではなく体調から気候から出かける場所から、いろんなものを含んでいる。そうするとお洒落はとても気軽なものであると同時に難しいものに見えてくる。これもたんに民主的な定義だろうか。しかしここには表現の余地がある。表現とは気分を形にすることでそれがまた気分の素材になることだ。気軽なのはそれが必ずしも「自己表現」である必要はない——そもそもそんなものがあるのか怪しいが——からで、難しいのは気分を何かひとつの要因に帰すことはできないからだ。(2021年5月5日

日記の続き#91

京都へ。朝、地下鉄で新横浜に向かっていて前に立った背が190センチくらいあるおじさんが、スラックスのベルトの穴にふたつのお守りを結んでいて、洗濯するときどうするんだろうと思った。彼は横浜で降りていって、空いた席に座ると向かいに裸のまま丸めたヨガマットを持ったおばさんが座っていた。平日の朝からヨガマットを裸で持って行くような場所が、横浜駅以北にあるんだろうかと考えた。ぼおっとしていると予約していた新幹線を乗り逃して次に来た電車の自由席に座った。ぜんぜん混んでいなくて予約してもしなくても同じじゃないかと思った。京都の手前で「愛知(えち)」と書いてある高校の看板が通り過ぎて、この町の人は人生で何度「愛知と書いてえちです」と言うのだろうと思った。京都駅でいつもの英國屋のテラス席に座って、いつもと気分を変えてアイスティーを頼んだのだが渋くておいしくなかった。急に涼しい風が吹いたなと思ったら、店員が隣のテーブルを消毒スプレーで拭いていてそれが風で流れてきているのだった。

日記の続き#90

暇な時間が多いわりに何もしていないとずっと何かを考えてしまうので家で何をして過ごすかというのは結構な問題なのだが、ここのところよくなかやまきんに君のYouTubeを見ている。とくに2ndチャンネルをよく見るのだが、ここにはただ30分ほどきんに君がトレーニングや栄養学について特定のトピックを喋るだけの動画がまとまっている。長さもちょうどいいし、BGMもないし、あらゆる間を詰めるような編集はされていないがよく準備されているので適度に冗長だ。彼の話は情報に底があるので聞きやすいのだと思う。個別の知識がどれもある程度学的に裏付けされているということもそうだし、何より彼の体がエビデンスだ。エビデンスが喋っている。ひとり語りなので相手の話の機微に滑り込むことへの芸人的な衝迫もない。頭のなかをぐるぐる回っているのはそれが高級なものであれ低級なものであれ底のない思いなしばかりなので、聞いていると気が楽になるし、短髪でタンクトップに白い歯と筋肉いうビジュアルの奥行きの浅さもいいし、喋っているだけなので映像は見ても見なくてもよくてそれも楽だ。頭を休ませるために適度な情報が必要というのも変だが、とにかくきんに君の動画はその観点から見てパーフェクトにちょうどいい。脈絡なく投げ込まれるギャグも屈託なくナンセンスで、「ただちょっと笑ってほしい」のだという素直さがある。バケツの底を雨漏りが打つようなあっけなさ。彼と「健康ボーイズ」を結成しているサバンナ八木の「パナキ」というギャグは、客からしりとりのお題をもらって即座に「イカ、カニ、ニク、クジラ、ラッパ、パナキ」の流れに引き込むというものなのだが、どこから始まっても「パナキ」に行き着くことの可笑しさに似たものがある。パナキとしての筋肉。筋肉のような情報。

日記の続き#89

みなとみらいに髪を切りに行って、カプリチョーザで昼ご飯を食べて、帰ってきて低気圧のせいか頭が痛かったので薬を飲んで、もういちど出かけて珈琲館で作業をした。ものすごくうるさい女性二人組がいて、同伴がどうこうと繰り返し言っているのでキャバクラの人なのかと思っていたらしばらくして片方がそれは「同伴」じゃなくて「共犯」なのではないかと言っていた。数日前から作業が好調で、これはエディタと進め方を変えたのが大きかった。まずエディタについて言えば、WordやScrivenerはやはりとにかく書き進めるという段階で使うのには向いていないと思う。書くことに集中するうえで僕にとっていちばん大きいのは、行幅が可変であること(ウィンドウの大きさを変えたら勝手に伸び縮みすること)と、フォントの大きさがデータの側に埋め込まれておらず、もっぱらインターフェイスの側で調節できることだ。家で大きなモニターで作業しても外でラップトップで作業しても、さらにそのなかで複数のソフトを同時に開いても一定の読みやすさが保てるので作業に集中しやすい。他方で最近はとにかくworkflowyでプロット以上ドラフト未満のようなものを書き連ねていたのだけど、これはこれであまりにとっかかりがなく、workflowyはプロット、アイデア、引用を投げ込む場所に限定して、それを見ながらUlyssesでドラフトを書くことにした。これが進め方にも関係している。ここのところ「尺取り虫方式」と呼んでいるやりかたで進めていて、これがめっぽう調子がいい。まず、Ulyssesで行う〈執筆は夕食までの時間しかやってはいけない〉ということと、どれだけ筆が乗っても〈1日2000字以上書いてはいけない〉というルールを決める(必ず2000字書くということも決まりにするかはまだ決めていない)。そして、それ以外の時間は執筆ではなく、workflowy上に翌日の執筆のためのアイデア、プロット、引用を溜める作業をする。これの何がいいのかというと、執筆の終わりのなさを前にしてまだ準備が足りないからとうだうだしたり、あるいは空元気で突っ走ったりすることがなくなる。それと、準備のほうも漫然としたものにならず、「明日2000字書き進めるため」という具体的な手触りのある目標があるのでやる気も出るし、何より夜の時間に書かなきゃな、でもダルいなという葛藤を抱かなくてもいいのがとても楽だ。workflowyに投げるだけなら本を読みながら何か思いついた端からスマホで書き込むだけでいいし。執筆は日ごとの終業という観念が存在しない仕事なので、晩ご飯を食べたら終わりと思えるとそれだけでとても気が楽だし、それ以降のことは明日のことと割り切れるだけにかえってちゃんと準備をしようと思える。尺取り虫方式、よさそうだと思った人は試してみてほしい。

日記の続き#88

台風が近づいているので、雨が降っている。夜に散歩をしながら初めてツイッターのスペース機能を使ってみた。音声を配信できて、リクエストをした聞き手が参加できる。なんだかんだで2時間半くらい喋っていた。コメントもアーカイブもないので、ほとんどただの通話サービスだ。そろそろ終わろうと家に向かって歩いていると小雨が降ってきた。シャワーを浴びてお菓子を食べた。昨日買ったジェニファー・ラトナー゠ローゼンハーゲンの『アメリカを作った思想』が面白くて半分くらいまで読んで、やっと南北戦争が終わったあたりまできた。『一九世紀の女性』という本を書いたマーガレット・フラーという人を初めて知って、引用されている彼女の「私が自分自身に与えられるまで、隠れていられる場所はどこか」という言葉が心に残った。「私」が与えられる前に見つかるわけにもいかず、「私」を与えるためにこそ書かねばならないというのはどういう気持ちなんだろう。スペースで日記に私的なことを書くことについて話した直後だったのもあって、どこか他人事とは思えないような、でもそうそう容易くそうは言えないような複雑な気持ちになった。(2021年7月26日

日記の続き#87

なんとなく前回の続き。こないだ開催された大和田俊とのトークイベントの打ち合わせのときに、大和田さんが僕がいつかつぶやいた「僕も困ってるし、ドゥルーズも困ってるし、それを見せてもいいんだと思えるようになった」というようなツイートをなぜだか痛く気に入っていて、その話をしたいと言っていたのだが、結局本番でその話題は出なかった。でも内容的には彼はしっかり困っているところを見せていて、むしろ僕のほうが学ぶべきものがあるなと思った。答えのないものが大事とかみんな口では言うけど、それは答えのなさに困っているところを見せないための方便に容易にすり替わる。哲学研究でもドゥルーズはこれこれの問題に取り組んだとか、こういう紆余曲折を経てこういう解答にたどり着いたとかそういうことが、書かれる対象からも書く私からも困っているという次元をスキップさせる。もちろん困りっぱなしでもしょうがないわけだがそういう純粋主義に絡め取られると書く側もしんどいし、読む側はどこに自分を引っかければいいかわからないし、ということになる。書いていて何が昨日の続きなのかわからなくなってしまったが無理矢理引きつけつつ図式化すると、白紙→完成のプロセスの単線性においては困っているということがその克服に対してつねに従属しているのに対して、不可算な困り——最近よく見る「困りごと」という言葉は困っているということを可算的に扱おうとしていてダメだと思う——の集積のほうに何かリアルな手触りがあるんじゃないかということだと思う。多動的なんだけど何をしているのかわからない感じ。まさに大和田さんの作品にはそういうところがある。彼が「石は何度石になったのか」と言っていてすごく面白いなと思った。何度目かの石として書くこと。

日記の続き#86

6月はごちゃっとしたので7月はがんばり月間にしようということで、今日は共訳本と博論本の作業を進めた。しかし「がんばる」というときに、何時までにちゃんと起きようとか、一日何時間は作業に充てようとか、今月中に何章まで書こうとか、相変わらずそういうスケールでしか考えていないことに気がついて、なんだか自分で自分にがっかりしてしまった。それはきわめて小学生的な発想で、実際われわれはそういう発想を小学校で訓練されたわけだが、それに対する裏切りとその後悔とセットで20年ほども後生大事に抱えてきたのだと思うとぞっとする(言うまでもなく日記もその延長線上にある)。がんばりについての新しいイメージが必要だ。千葉雅也さんが「書かないで書くこと」として、アウトライナーでのドラフト作成を代表とした実践を紹介したことは、そうした刷新のひとつだと思う。全体の整合性を気にして立ち止まる前にとにかく思いついた端から書くこと、白紙と差し向かう執筆というイメージを脱神秘化することは、ここ数年の彼のテーマでもある「世俗性」と響き合ってもいるわけで、たんなる仕事術・創作術にとどまらないものがある。彼を横目に見ながら——同時代の面白いひとを横目に見ながら自分の問題を考えられるのは大きな喜びだ——考えるにつけ、主体性の調達ポイントをどのように配備するかということが問題なのかもしれないと思う。というのも、たとえば洗濯機を回したら干さなきゃいけないし干したら畳まないといけないとか、ご飯を作ったら食器を洗わないといけないとか、生活のなかの諸々のサイクルには無数の重い腰を上げるポイントがあり、大小のそれらを後回しにすることで頭のなかにいろんなキャッシュが溜まっている状態になり、わかりやすいところでは部屋が散らかったり、コンビニのご飯ばかりになったり、仕事に身が入らなくなったりする。セルフネグレクトというやつだ。しかしそれはセルフディシプリンの失敗なのだろうか。一面ではそうだろう。しかし散らかるに任せるのも自動化だが片付けの理想も自動化だ。つまり、キャッシュをチャラに(白紙に)すればよいというのではないし、むしろ白紙への焦燥がネグレクトを呼び込んでいる面もあるはずだということだ(実感としては確実にある)。つねにすでに多かれ少なかれ散らかった状態との特殊な付き合い方があるとすればそれはどういうものなのだろうか。ひとつの可能な回答は、そもそもわれわれってそうしてるじゃんということだと思う。答えは現場にあり。これも世俗性か。

日記の続き#85

6月ももう終わり。なんだかごちゃごちゃした月であっという間に過ぎていった。7月は腰を据えて博論本に取り組みたい。とはいえすでに梅雨も過ぎていて夏休みにジャンプしたようだ。晩ご飯は冷やし中華とステーキというよくわからない組み合わせだったがおいしかった。電力も水道も逼迫しているらしい。日本の夏、逼迫の夏。大いに逼迫すればいいと思う。ただ暑いというのはシンプルでいい。

日記の続き#84

書きあぐねていた事務書類があって、ある物が「不要」である理由を書かなければならかったのだけど、不要だから不要なのであり、それ以上考えるのが面倒になりほったらかしにしていた。しかし昨晩ふと「用途がない」という言い回しが思い浮かんで、これなら書けるなと思いながら眠り、起きてさっき書いて出した。これで通るのかどうかは別問題だけど、こういう突破は他の文章を書いているときにもよくある。

これこれの事由により不要である、というのはとても強い言い方だ。いくら理由を連ねても、それと積極的に不要だと言うことのあいだにはジャンプがある。それがあると害をなす、あるいはそれが使えなくなるような破損を被っているわけでもないものについて、これはいらないと言うのは、結局いらないからいらないと言っているのと変わらない。しかしこれこれの事由により用途がなく、したがって不要である、というのは不思議なことにロジカルな感じがする。用途がないと言えば当の物の「パフォーマンス」について言及する必要が一切なくなる。物そのものではなく物を取り囲む状況に問題がシフトされるわけだ。あとは相手のプロトコルないし担当者の性向が「用途がない」と「不要」の短絡を受け入れるかどうかに関わっている。いずれにせよ文章というものは、「不要」の手前に「用途がない」を置くだけで視野がぱっと開けるような微妙な手続きの連続で成り立っている。(2021年3月21日

日記の続き#83

風邪のせいなのかポカリの飲み過ぎなのかわからないが、口の中のpH値が変わったような違和感がある。 あるいは口の中が安いホテルのカサカサしていると同時に湿ってもいるようなベッドになったような違和感がある。あるいは風邪を引いてポカリを飲みまくったときのような違和感が(あまりにわざとらしい)。とか考えながら二度寝をしていて、この日記の続きのありかたを考えていた。2ヶ月以上続けているのにいまだに「続き」と銘打つ積極的な理由が見つからずにいるのだが、これはシンプルに新しい文学理論を作るための実験なのだと考えればいいのかもしれないと思った。他のジャンルもそうだと思うが文学も、ジャンルを閉じたものとしたうえでのフォーマリズム的な理論とそれを社会的領野に置きなおす理論とが、後者が前者を乗り越えるというストーリーのもとで分離していて、そこで停滞しているのがこの10年だか20年だかだと思う。文学論を小説論に固定してしまうこと自体がそうしたそういう行き詰まりを生んでいて、「小説と社会」とか「小説と私性」とか、芸術と非芸術を項として立てたうえで両者の関係を——たいてい自分を芸術の側に置きながら——問うことに何かのロックがかかっているんじゃないかという気がする。これはいちばん低層では小説だからなんだというチンピラ的な怒りでもあり、ささけんさんへのインタビューで話したレッサー・アートやドゥルーズ゠ガタリのマイナー文学の話でもある。ポジティブにはこれまで「日記についての理論的考察」で素描してきたような多面性が日記にはあるし、なにより日記は誰しもいちどは書いたことがあるし書こうと思えばいつでも書ける。とはいえこれを形にするうえで『日記〈私家版〉』のように何も手を加えずに本にするというのはあんまりやりたくないので、構成を考えるのがいちばん難しいと思う。とりあえずタイトルは『日記と理論——ある文学機械の日課』とかがいいんじゃないか。