12月6日

『存在と時間』を読み返している。前に読んだときは中公クラシックス版だったのだけど——小倉さんが何かにつけて中公クラシックス推しだったので——せっかく読み返すならと思って高田珠樹訳の作品社版を買って読んでいる。いろんなところでハイデガーも大変だなあと思うのだけど、とくに自分の目指す存在論にはそれに見合う「文法」が存在しないので、いきおい表現がぎこちなくなったり、醜くなったりしてしまうかもしれないとエクスキューズしていて、これには考えさせられた。彼はそこで、プラトンの時代にすでにトゥキディデスらの「物語」的な語りと哲学的な用語法とのあいだには大きな開きがあったと述べている。でもそれは日常的な言語で捉えられないものを目指すからこそのことなのだと。同じようなことはドゥルーズも『哲学とは何か』のなかで言っている。哲学者はイデアとかコギトとか、当の言語のなかでは「かたち」とか「考える」とかのようにごく日常的に用いられる語に新たな意味を付与する一方で、ときにはギクシャクとした造語を作らざるをえないときもあると(たしか脱領土化déterritorialisationを例として挙げていた。デテリトリアリザシオン)。そもそもが明治以降の急拵えの翻訳のうえに成り立っているがゆえに、日本のほうがよっぽどそうした乖離は大きいと思う。印欧語族のなかでやって済むんだったら楽でしょうよと思ったりもしていたが、ハイデガーも大変そうなのでそもそもそういうものなのかと思った。意地を張って他の一般的な言葉を使わずわざわざ「現存在」と言っているのでは決してないと言っていてちょっと可笑しかったが、彼の真摯さと謙虚さを見習いたいと思った。

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12月5日

買ったカフェオレを飲みながら道端に立っていると小さなおばあさんが近づいて話しかけてきた。どうしてかわからないがおばあさんによく話しかけられる。何を言っているのかわからなかったが、スマホの画面を僕に向けている。どうしたんですかと聞くと、画面下部にある三つの物理ボタンのひとつの、メールのアイコンが点滅していて、それの止め方がわからないということらしかった。リウマチなのか指がこわばっていて、見慣れない画面で、何かしきりに話していて、終始画面に向かって俯いているので顔が見えず、突然夢の中に放り込まれたように意識がまとまらなかったが、それで困っているらしいということはわかった。僕も自分が何を言っているのかわからないままに彼女の側頭部に向かってとにかく何かをハキハキ喋りながら、点滅しているボタンを押して、未読になっているらしいメールを開いて、それもひらがなだらけで何が書いているかわからず、家のマークの物理ボタンを押してホーム画面に戻ると、点滅が消えて、彼女は歩き去って行った。

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12月4日

ここのところ早寝早起きだ。と言っても1時か2時に寝て起きるのは10時くらいだが。あんまり夜更かしすると、サッカーで終盤をリードして迎えたチームがとりあえず自陣で球を回すみたいな、間伸びした時間が増える。夜更かししているだけでやる気を示せているような気になり、しかし実態はサボっているだけだという自覚と焦りもあり、同時に今日はもう大きな作業はできないという諦めもあり。追い込まれたときは夜中がいちばん頑張れるけど、そうでないときはそうでないのだ。自罰的な感情による「リベンジ夜更かし」という言葉もあるらしい。そういう言葉は、その俗っぽさによって、それに何か自分の実存が巻き込まれてしまっていることの恥ずかしさに気づかせてくれる。あとまあ、友達と遊ぶなり長電話するなりしていたのがいままでだいたい深夜から朝にかけてのことで、それを待ち望む気持ちがなくなってきた、というより、待ち望んでもしょうがないということから目を背けたかったのかもしれない。これからまたそういうことはあるだろうけど、そのときはそのときだ。

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12月3日

起きて、電気ケトルのスイッチを入れて、顔を洗って、洗濯機を回した。コーヒーを入れて、パンを食べて、洗濯物を干した。パーカーだけで寒くないかしばらく迷って、ネックウォーマーも持って出かけることにした。役所に住民票を取りに行く。アパートを出てすぐ、前から何かを抱えたおじさんが歩いてきた。何かを両手で大事そうに抱えている。胸の前に抱えて、覗き込むように頭を傾けている姿勢から真っ先に赤ちゃんが思い浮かぶが、伸びてうねった白髪と、着古したデニムジャケットにサンダルといういでたちとそぐわない。通り過ぎるときに腕のなかを横目に見ると彼が抱えていたのは黒っぽい鳩だった。役所で見かけたちょんまげの若者をイセザキモールでまた見かけた。

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12月2日

久々に家にいるのにご飯を作らない日だった。起きてパンを食べて、夕方に出かけてマックを食べて、夜中にセブンイレブンのナシゴレンと、昨日作ったアンチョビ入りのポテトサラダと一緒に食べた。これもセブンで買った紙パックの甘いカフェオレと一緒に食べていると、インドでビリヤニを食べながらミルクセーキを飲んでいるような気分だった。埃っぽい風とともにクラクションの騒音が聞こえてくることもなく、深夜と明け方に静かな地震があった。

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12月1日

濃厚接触という言葉の退場と入れ替わるようにして、単純接触効果という言葉をよく聞くようになった気がする。たんに接する頻度が高いほど相手に好意を抱きやすくなるという説。おそらくコロナ前であればひとつの恋愛工学的なテクニックとして、とにかく頻繁にやりとりすべしみたいな感じで使われていたのだと思うけど、いまやむしろ自分が抱いている好意を頻度にすり替えるために使われているような気がする。VTuberやスマホゲームのキャラ化された貧しい人格のアディクション的な消費に顕著に見られるようなものへの、あるかないかのアイロニカルな距離が単純接触効果という言葉には込められているように感じる。この好意は接触が濃厚だからではなく、単純で頻繁だから生まれたものにすぎないのだと。気持ちはわかる。

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11月30日

振り込み通知のメールが来ていて、何かと思ったら『眼がスクリーンになるとき』の電子書籍版の印税だった。にっこりするような金額ではないがいまでも読まれているのは嬉しい。他の人がどうか知らないが、僕はわりと過去の仕事に報いるというモチベーションが強い。まああれは若書きだからとか、絶対自分に言わせないという憎悪に近い感覚で書いたし、いまでも自分はちょっと気を抜いたらそういう、いけすかない大人になってしまうんじゃないかという恐怖がある。だから局所的には修正や発展はありますが、大局的にはwin-winでやっていけたらという、見ようによっては及び腰な交渉みたいなものが、かつての仕事といまの仕事のあいだで行われている。それでいまはずっと書籍化のために博論を書き換えていて、これもバチバチに頑固なスタイルの建築に、ここに手すりだけ付けていいですかねとか、この空間はこう割ったほうがむしろ動きが出ませんかとか、そういう交渉で頭をいっぱいにしている。作業のために読んでいた『差異と反復』の文庫版の訳者あとがきでドゥルーズがポスト構造主義と言われると嫌な顔をしたという話があって、でもポスト構造主義だよなあと思いながら風呂に入った。僕の構造主義、ポスト構造主義の定義は乱暴で、前者は科学で後者は哲学、以上。というものだ。面倒なので詳しくは書かないが、そういえば後期ラカン再評価と後期レヴィ゠ストロース再評価は同時期(日本であれば松本卓也の『人はみな妄想する』とか、ヴィヴェイロス・デ・カストロの邦訳が出た頃)に進んだ気がするけど、あれはなんだったんだろう。マニグリエの後期ソシュール再評価もあるし、彼はカストロ論も書いている。僕はとしては、たとえばラカンであれば大文字のシニフィアンだけじゃなくてサントームとか言ってて(もちろん誇張して単純化している)という後期への全ベットより、あくまで前期後期の緊張関係が気になる。そこにもいろんな交渉があるだろう。

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11月29日

起きたら1時。彼女が自分の弁当を作るときに多めに作って置いていってくれて、それを昼ご飯に食べた。夕方になって、家に玉ねぎと人参と茄子があったので、茄子を入れたボロネーゼを作ることにしてスーパーに行った。玉ねぎとセロリと人参を刻んでしっかり炒めて、別の鍋で炒めた挽肉を加えて赤ワインとトマト缶とローリエを加えて煮込むあいだに洋梨と柿のサラダを作った。2人分の量で作ったのに4人分くらいできたのでソースを保存容器に取り分けておく。麺を茹でて、帰ってきた彼女と一緒に食べる。昔お母さんが日高シェフのレシピを見て作ってくれたのに似ていると言われて、図星だったのだが、それがなぜか恥ずかしくてへえと言って受け流した。風呂上がりに脚が乾燥で痒くなるようになって、クリームを塗っている。お腹が空いたのでコンビニでパンを買って食べながら作業をして歯を磨いて寝た。

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11月28日

「郵便的、宅配便的」というタイトルを思いついた。どういう内容なのかわからないままにタイトルだけ思いつくことがよくある。「理論の突き指」とか、「端末が「ターミナル」だった頃」とか。それはもちろん僕が考えていることと無関係ではないし、タイトルと一緒にある程度の方向性は浮かび上がるが、書いておかないと忘れるのでそのつど呟いたりするようにしている。最近で言えば「スパムとミームの対話篇」は依頼があって書き始める前にタイトルだけ思いついていて、そのお題に答えるようにして書いた。言葉遊びやパロディに圧縮されたものをどう具体的な文章として展開するかという、セルフ大喜利、あるいは自分の自由連想を自分で分析するみたいな感じで面白い。

それで、「郵便的、宅配便的」がどういう文章になりえるかというと、やはり郵便はポストに投函するものであり、宅配便は玄関先で手渡すものだという対立がまず思い浮かぶ。ポストとはデリダ的な「差延」の場、つまり現前的なコミュニケーションを毀損すると同時にそれなしには当のコミュニケーションが成立しない、不在の謂である。隔たっているからこそコミュニケーションが要請され、隔たっているからこそコミュニケーションは十全なものではありえない。それに対して宅配便は差延を許さない。チャイムを鳴らし、いなければ不在通知書をポストに入れて帰っていく。不在が不在としてマークされるのだ。郵便はいるかいないかということに頓着しないが、宅配便はいれば渡すし、いなければ私はそこにいました、しかしあなたはそこにいませんでしたと、不在を局在化させ、それ自体をコミュニケーションの明示的な要素にする。郵便的な不在はいつ・どこでなくなるかわからないという不確定性によって効果をもつが、宅配便的な不在は特定された不在として位置をもっている。

しかし、コロナ禍によってアマゾンやウーバーイーツが取り入れ、急速に一般化した「置き配」はこのうちいずれに分類すべきなのだろうか。一見それは受け取り手の在/不在に関与しない郵便的な仕組みに見えるが、アパートのドアのそばに置かれた荷物を見ると僕はいまだに不気味な感じがする。それはたんに、慣れ親しんだ宅配便的インフラが急に郵便的仕組みを取り入れたことからくる違和感なのだろうか。たしかにそういう部分もあるだろうが、それ以上のもの、つまり置き配的なものの固有性があるとしたらそれは何だろうか。

ひとつにはドアの外の床に箱が置かれているということからくる疎外感があると思う。投函でも手渡しでもなく、床に置かれている。印象としては、郵便的不在には自分がそこにいるかいないか不問にしてくれているという感じがあるのに対して、置き配的不在は自分がそこにいるかどうかはたんにどうでもよく、とにかく荷物を置いて帰っているという感じがある。逆に言えばこの「とにかく」の直接性を和らげるものとしてポストは機能するわけだ。郵便は受け取り手の在/不在をそれとなく不問に付すのに対して、置き配は受け取り手の在/不在以上にとにかく荷物を置いていくことが大事なんだとあからさまに示している。

ロジスティクスの全面化。あらゆるものが出発点、終着点、経路、荷物のアレンジメントの規格化・効率化に巻き込まれる(「コントラ・コンテナ」は大和田俊の個展の分析を通してそれに対する抵抗の可能性を探る文章だった)。私がいるのかいないのかということはそこにいささかも関与しない。郵便的なものの局所的な回復はありえるだろう。しかしコミュニケーションそのものがロジスティクスに置き換わってしまったような世界で、郵便というメタファーはあまりに危ういようにも思える。「コントラ・コンテナ」や「ポシブル、パサブル」の空間論はロジスティクスそのものから距離を取って空間を考えなおす文章だったのだろう。「いてもいなくてもよくなることについて」もそうだ。やはりたんに思いついたものでも掘ってみるといろいろ出てくる。

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11月27日

いまぼんやり考えていることで2年後くらいに実際に取り掛かっていそうなことがいくつかある。というか、2年後くらいに実際に取り掛かっていそうなことの妄想と、目先の作業とを行ったり来たりするタイムマシーンのようなものが自分のなかで育っていく感じがあり、それはこの仕事の楽しさのひとつだと思う。これは大和田さんから又聞きした話なのだけど、彫刻家の曽根裕さんは5年かかるプロジェクトと1時間で終わるプロジェクトとか、スケールの違う仕事を1日の作業のなかに意識的に混ぜているらしい。気分としてはよくわかる。ただ仕事柄僕の場合、先のプロジェクトについていまやれることが本を読むこととかメモを溜めるとかそういう間接的なことになりがちで、結局執筆という直接的な作業が神秘化されるというか、具体的な締め切りが与えられて初めて輪郭が立ち上がる執筆とそれ以前の準備との分割があまりに強くなってしまう。半面そのおかげでやる気が出る部分もあるが、その繰り返しばかりだと時間がサウナに入ったり出たりしているみたいなたんなる密度の波になってキツいということもあると思う。

その点この日記はそのつど準備も何もなく1年書いて、いまそれを本にしようという話をしていて、来年は書き溜めた日記を素材にこのサイトで少しずつ何か書いていって、それはそれでまたその次の年くらいに本になればいいなと思っている。散文が登場人物になったサーガのようなものだ。溜めたものを書くのではなく、切れ切れに書いたものが溜まって形をなしそれがまた別の文章を呼ぶ。昨日のことを思い出しながら、2年後のことを予期しながら。自分の書いたものに引用符を付ける必要はないので——もちろん場合によるが——読んで集めた素材とはまた違う。その意味でこの日記は初めて予備動作なく「たんに書いている」ものであると同時に、純粋に素材でもある。準備−執筆−締め切りのシャトルランの傍にこういう時間があると生活が豊かになった感じがする。仕事と生活のバッファのようなものだ。

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