11月22日

日記の私家版のデザインを八木幤二郎くんに頼んだら引き受けてくれて、早速打ち合わせをすることになった。湘南新宿ラインで新宿まで行って、小田急線に乗り換えて下北沢で降りる。ふたりとも煙草を吸うので喫煙可のカフェを指定してもらった。去年初めて彼と話したときに、本をマニ車的なものとして、つまり背表紙が筒状になった円環的な構造で作ることに興味があるということを言っていたのを憶えていて、僕が日記本でやりたいことに通じるところがあると思っていた。赤字が直接自分に返ってくる初めての企画なので怖いところもあるが、自主制作で小部数発行だからこその思い切ったデザインの本になるといい。それに本文だけならここにすべてあるのだ。彼がヴィルヌーヴ『メッセージ』の文字の話をして、僕がその原作のテッド・チャン「あなたの人生の物語」ではヘプタポッドの円環的な身体構造と時間認識の相関が説明されていることを話したり、そういう概念的な話と具体的なものの話が高速で行ったり来たりして楽しかった。久々にそういう、物を作るための話をしているという感覚があった。

外に出ると雨で、もう3時くらいで、どこか展示にでも寄って帰ろうと思っていたが、そうしてラッシュに巻き込まれることを考えると憂鬱でやめてしまった。来た道を戻る。電車から街を人が歩いているのを見られるのは都心の特権だと思った。高いビルの上の方が雨に煙って隠れていた。例えば新幹線に乗っていると、何もないが家と田んぼだけがあるような、表に一切人影がない景色が延々と続く。ああいう場所から僕は来たのだと思った。人影はないが、統計的にはおそらく多数派であり、高速で通過されることでその無個性を圧縮されたような場所。

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11月21日

酉の市の2日目。それで昼頃からずっと家の周りが騒がしく、雨まで降ってきて、外に出たくなかった。昼ご飯はお茶漬けだったし、晩ご飯はチャーハンだった。夜に日記私家版の話をツイッターでしたら、書店からもし出たらうちで置かせてほしとDMが来て、じゃあ作ってみようと思ってデザイナーにDMをした。翌日のいま電車で打ち合わせに向かっている。

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11月20日

昔からよく暇潰しにネットで服を見る。決まったセレクトショップの通販サイトを見たり、そのとき気になるブランドのラインナップを見たりする。今日はキャップで有名なニューエラのアパレルをチェックしていた。キャップはもうクリシェで、自動的にパーカーとスウェットパンツとナイキのバスケットシューズという組み合わせが思い浮かぶ。これはこれでひとつのコスプレとして楽しめそうではあるが、僕っぽくないし、そもそもキャップなんてかぶりたくない。アパレルのほうはキャップほどヤンキー的なものとして記号化されていないし、ラフでスポーティな感じを普段着ているものに組み合わせて、でも「ニューエラ」であるというくらいがいいんじゃないかと思った。数年前からスウェットパンツ——いまや出していないブランドのほうが珍しい——の履き方をぼんやり考えては諦めていたので、その線でもニューエラはちょうどいい気がした。でも実際見てみるとやっぱりスウェットはスウェットだなあと思って冷めてしまった。服を見ているとよくこういう気分になる。見ているものがたんなる記号になってしまうと同時に、自分が不恰好な土くれになってしまったような気分になる。

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11月19日

日記を始めて10ヶ月経った。ちょうど雑談掲示板にもそういうコメントが来ていたが、更新を楽しみにしているという以上の、「救われている」というようなことを言ってもらうことがちらほらある。他方でこれもちらほら言われることとして、この日記を本にしないのかと聞かれることもある。これまでの約300日ぶんで17万字くらいあって、1年経つ頃には20万字くらいになるだろうから、たしかに立派な単著サイズではある。でも現に編集者からそういう話をもらっているわけでもなく、僕としてもどこかに企画を持ち込んだりする気もない。それはひとつには、書いている僕にとっても、読んでこの日記が何かちょっとした支えになっている人にとっても、やはり日々とともに書き継がれていく時間が書かれたものとセットになっていることが大事なんじゃないかと思うからだ。本にするとそういう時間は無くなってしまうし、遡って読まれるにせよ、このサイトの記事を辿っていくほうがここにそういう時間があったという手触りが感じられると思う。だから今は書籍化するとしても365部限定の私家版として個人的に出す——なるべくこの日記のもともとの読者に優先的に届くように——というあたりがちょうどいいかなと思っている。それで、今ふと思いついたのだが、例えばこういうのはどうだろう。365部限定で、それぞれが異なる日の日記から始まっていて、最初の日記がそのまま表紙になっている。1月20日から始まって1月19日で終わっているものもあれば、9月1日に始まって8月31日に終わっているものもある。同じ1年ぶんの日記の365通りのバージョンの本になる。それがこの日記が書かれるのと時間をともにしながら読んだ人それぞれに届けられる。素敵な感じがする。

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11月18日

もう定番になりつつある喫煙ブースの話。やはり何かあの場所には風水的によくない澱みが発生しているんじゃないかと思う。ドトールで作業しつつブースで煙草を吸っていると60歳くらいの女性ふたりが入ってきた。それぞれ煙草に火をつけてあそこのドンキがどうこうという話をしながら、ひとりが台に散乱していた煙草の空き箱を漁り始めた。もうひとりはそれをなんでもなさそうに見ている。喫煙ブースの台に散乱している煙草の空き箱——ゴミ箱がないのでそこに置きっぱなしにされたり灰皿の穴に無理やり突っ込まれたりする——を漁ることがふたりにとってとても自然なこととして行われていて、その自然さが悲しかった。例えば食事中にテーブルに肘をついてしまう、それを本人も周りも取り立てて意識しない、とかそういうレベルの「ついつい」として、くしゃくしゃの空き箱をこじ開けるということが行われていて悲しかった。そういう種類の悲しさがこの街のいろんなところにこびりついている。痰を搾り上げる音とか、スウェットの毛玉とか、使い回されたビニール袋とかとして。

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11月17日

部屋で裏地がナイロンのボアベストを羽織っているからか、煙草を吸いに台所に行ったりするたびに、どこかに触ると指先にパチっと静電気が走る。夜になるとその頻度が上がるような気がする。最初のうちは煩わしかったが慣れてしまってからはクリックみたいなものだと思うようになってきた。タップ&スワイプという擬似的な点への接触が静電気を気取られることなく用いているのに対して、実際の接触にともなうパチっと鳴る静電気はある種のキアスムの関係にある。タッチスクリーンが「タッチ」を偽装するためにピクセルというリアルを隠蔽するのに対して、痛みをともなう静電気は実際のタッチを点的なクリックに翻訳するのだ。とか考えながら煙草を吸っていた。

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11月16日

しばらく前に中森弘樹さんと黒嵜想さんと僕との鼎談記事「いてもいなくてもよくなることについて」を拡張したうえで書籍化する話を編集者から提案された。以下なんとなく、編集者をH、中森さんをN、黒嵜さんをKとしてそれ以降今日までの顛末を書く。

Hから話をもらって、とりあえずその鼎談を一緒に企画したKにその話を伝えた。そんなに乗り気にならないだろうなというのは、ここ1年くらい彼が元気なさげなので思っていたが、なかなかはっきりした返事が来なかった。しかし数週間前にKが急に元気になり長い電話をしたときにその話を出すと、Nの単著として彼の論考を増補して出すなり、いずれにせよNの仕事が中心になるように作るのが筋じゃないかということで、僕も異論はないと言ってそうHに伝えた。もともとNの単著を発端とした鼎談であり、失踪というテーマもそこから来ているので、われわれはそれがいちばん自然だと考えた。しかし他方でHからその旨を聞いたNはあの鼎談はKと僕のおかげで出来たのだと言い、三者がそれぞれ主導権を譲り合う格好になってしまい、Hが困っていた。有り体に言えば、あの鼎談がよくできすぎたいわゆる神回で、ぱっと集まってあれ以上の話ができる気がしないということもみんな思っていたことだ思う。

そういう曖昧な状況ななか元気になったKが東京に遊びに来ていろいろ話をして、それとは別の企画をKと僕ともうひとりのXとでやらないかということになってKは京都に帰って行った。これが2週間ほど前。若干かっ飛ばし気味でヒヤヒヤするところはあったがいつものKに戻ったようでひと安心した。しかしそれから数日後にKとXとの企画会議中にちょっとしたトラブルがもちあがって、Kは元気になる前より元気がなくなり、しばらく療養をしたほうがいいと自分で判断し、その企画から抜けてしまった(ちょっと前の日記に書いた「〓〓さんと〓〓さん」の話はこのことだ)。僕はちょうどそのとき手が塞がっていてグループチャットの成り行きをなすすべもなく見ていたのだが、少しして今度はKからNとHと僕とのメールに鼎談書籍化の企画は不参加とさせてほしいという連絡が来た。Kは冗談まじりに「いてもいなくてもよくなること」の実践として自分抜きでNと僕だけで作ってもいいんじゃないかと言い残していた。僕はそれは本当にKが必要としていることかもしれない思い、しかしKの近況を知らないNとHには寝耳に水の話だろうと思ったので、ふたりに僕から見た限りでのKの状況を説明したうえで、僕としてはマジでNとふたりで進めてしまっていいと思うと言った。これが3日くらい前のこと。

すると、本当にびっくりしたのだが、今度はNが、Kがそういう状況になったのは特別驚くことではない、誰でもいつ鬱状態になってもおかしくないし自分も半分そんな感じだと言い、この企画は最初にKが消え次にNが消え福尾が消えという感じになってもいいのではないかと真顔で言っているメールが来た。なんともNらしい、およそ僕には及びもつかない発想で、勝手なことを言ってくれるなと思うと同時に、なんだかとても嬉しくなった。Nは鼎談公開収録のときも打ち上げの「う」の字を聞くと同時に僕は帰りますと言って帰っていて、この『失踪の社会学』の著者は本物なんだと思った、その嬉しさだ。企画としてはどんどんフォームが崩れてきて、すでにどう転がってもまともな本にはならなさそうだが、僕はKの元気がなくなったこととは別に、この状況はすごく変で面白いと思っている。もちろんHの意見次第でもあるが、僕としてはこれがどんな形であれ具体的な成果物として出来上がったら絶対変なものになるし、そのためにできることはしたいと考えている。僕が楽しんでいる限りはKおよびNのいてもいなくてもよさは確保されるのではないか。

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11月15日

起きて、日記を書いた。書き終わるとブラウザのタブが5個くらい増えていて消した。冷蔵庫が壊れた。引っ越してきて近所のリサイクルショップで買ったもの。昨日の朝オーブントースターと湯沸かし器とドライヤーを同時に使ってブレーカーが落ちて、急に通電したときから壊れていたのだろう。そういうこともあるらしい。中のライトは点くのに冷えなくなってしまった。価格ドットコムとAmazonとヨドバシを行ったり来たりしながらちょうどいい大きさのものを注文した。卵とか溶けてしまったアイスとかを捨てて、まいばすけっとで氷をたくさん買ってきて入れた。

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11月14日

Spotifyのおすすめに出てきたWool in the PantsというバンドのWool in the Poolというアルバムを繰り返し聴いていた。思い出したのは、中学のときだったか、キューピーハーフマヨネーズのCMで流れたTommy GuerreroのIt gets heavyを初めて聴いたときのことだ。それが収録されている輸入盤のCDをHMVのネット通販で買って、アルバムタイトルのSoul Food Taqueriaの”Taqueria”という綴りと赤と黄色だけで描かれた南米風の街角に言い知れない異邦感があった。「国境の南」という曲名がメキシコを指すことを知らなかった村上春樹の小説の主人公のように。いずれのアルバムもダウナーなファンクで、重いベースが前に出て、呻るようなボーカルが低徊している。Wool in the Pantsのボーカルの「私」が「YTC」に聞こえる粘っこい節回しが独特で、高田渡のフォークソングから人生観を根こそぎにしたような乾いた歌詞が癖になる。1曲目のタイトルはBottom of Tokyo。それがどこなのかわからないのに生々しい。その乖離感がリアルだと思う。

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11月13日

こないだの大雨からずっと気持ちのいい晴れが続いている。遅く起きてご飯も買ったもので済ませて、翻訳を進めたり本を読んだり動画を見たりしていた。夜中にお腹が空いて、でももう大きいスーパーは閉まっていたので、家にあったアスパラガスとしめじと玉ねぎと、まいばすけっとに買いに行ったキャベツとウィンナーでスープを作った。鍋にオリーブオイルを多めに入れて、ニンニクひとかけをゆっくり熱する。そのあいだに玉ねぎをざっくりと切って香りが移った油に入れてざっと混ぜ、そのまま弱火で加熱する。玉ねぎが透き通ってきたところに残りの材料を切っては鍋に入れ混ぜるを繰り返す。ここまではラタトゥイユと同じ作り方だ。材料をすべて入れたら、こないだ鶏ハムを作ったときに出た出汁を凍らせていたやつをレンジで溶かして入れて(水でもいい。コンソメなどを入れなくてもしっかり野菜の味がする)、沸騰してから15分くらい煮込む。味を見て塩と胡椒を加えて、牛乳を1カップ入れる。好みで粉チーズをかけて食べる。昨日中目黒で見つけたパン屋さんで買った、中にじゃがいもとディルが入っていて、表面にチーズが焼き付けられているパンと一緒に食べた。

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