日記掲示板2

日記掲示板の投稿数が999件に達し、新規投稿ができなくなっていることに気づいたので新たに作りました(もしその間投稿できなかった人がいたらすみませんでした)。

ルールは同じで以下の通りです。
(1)以下のコメント欄に名前と内容だけを書く(アドレスは不要)
(2)名前は本名やどこかで使っているアカウント名ではなく、このサイトだけの通称を使用すること
(3)日記以外のものは雑談掲示板に投稿すること

ちょうど僕も1年続けた日記が終わって、新たに日記の続きを書き始めたところなので、みなさんもそれに並走するかたちで気軽に書き込んでいただければと思います。

2022/04/08 福尾

563件のコメント

  1. 『サートリス』は2章6節に差し掛かる。「動かぬ青銅色の炎」の種馬とヤング・ベイヤードの激闘を読む。20時からは隔週のゼミが控える。今夜中に5月末の法人の祭りのレポートを書いてほしいと頼まれている。遡れば、3月末に行った常駐先の「運動会」のレポートも書いていない。先週末の出張イベントも。隣の席にはその荷物を置いている。黄色い籠のなかにけん玉や竹とんぼが大事そうに入っている。朝の学校訪問では地域セクターと行うケースワークの実際を知らない管理職から「失礼」を受けながらも、塞翁が馬か、専任の先生と繋がり個別の濃いケースについて共有することができた。日中は往復して竹等の搬出に汗を流す。道行く収集車のおっちゃんや老夫婦に笑われたり、声をかけられたりする。行き帰りに放課の学童に向かう子たちなどと旧交を温める。出向かないと関わりを作りにくい団地のエリア。現場では「〜でさー、ね?」が口癖の少年のポテチと名付けられたトカゲとの別れの話(朝いつも玄関に出ると「さみしい」)を聞き、swingをあちこちに提げる。人けも少ないのでビー玉も長く流す。倉庫を閉めて、少し早く退勤した。このようにして一日浴びたインプットが日誌として書き出されるかたちで、またこの投稿の時間軸に帰ってくることができた、のだろうか。雨はあがっている。

  2. 鼻毛の収拾がつかなくなると、弘前に行く。岩木山から降りてくる『大地を曲げわっぱに詰めたような風』は密林地帯をするする抜けていく。その頃にはもう鼻毛は伸びない。

  3. いつも日記を書いているはずなのに、日記をやろうと思うと何故か日記が書けなくなります。昨日夜ご飯を食べてお腹がいっぱいになったはずなのに、寝る頃にはお腹が空いていて、今朝も空腹で目が覚めました。朝ごはんにバームクーヘンとヨーグルトを食べたのになおお腹が空いていて、今はご飯が炊けるのを待っています。空腹の辛さに対して、行動が見合っていなかったので反省しながら。この文章も、投稿されると日付がつくので日記になりますか?この日記の書き方は、私の中では新しくて、少しときめきを感じています。

  4. ヘッドフォンにも携帯にも、どちらも充電がない。両足首が成長痛のようにじんじんと痛むのは、今朝の満員電車の酸欠に圧されて血液が一日足りていなかったからだろう。あのときは満身創痍で新綱島の長い階段を昇り、救護トイレで1時間弱横になっていた。ふたつの学校訪問と竹に騒ぐ現場を終えて、また同じトイレに入る頃、手元には多和田葉子(『星に仄めかされて』)とヘミングウェイ(『海流のなかの島々』)。静まった夜の下り列車。銀河鉄道のようだ。

  5. 「一行が縫うようにして進んだ道路は非常にせまく、影がまっくろにあたり一面をおおっていたので、突然がらんとした野原と広大な空のもとに出たときに夕空がまだ明るく澄みきっているのを見て、みんなは驚いた。孔雀のような緑を帯びた空が頭上に完全な丸天井を描き、黒味を増す立木と濃い菫色の遠景に接するところでは、空は金色に映えていた。ほんのりと明るい緑色の空にも、はや、水晶のような星がひとつふたつ、瞬きはじめた。昼間の光の名ごりは、ハムステッドの向う端と、健康の谷と呼ばれている有名な窪地一帯に、黄金色の輝きとなって残っているばかりだった。このあたりを散策する休日利用のハイカーも、まだ全部姿を消したわけではなく、アベックが数組、ベンチにぶさまに腰かけており、遠くのほうでは、あちこちに、ブランコに乗った女の子が、まだ黄色い声を張りあげている。天の栄光がしだいに深まって暗さを増し、人間のこのうえない俗悪さを覆い隠すのであった。斜面に立って谷の向うをながめていたヴァランタンの眼に、捜し求めているものの姿がとびこんできた。」(G・K・チェスタトン「青い十字架」、『ブラウン神父の童心』、創元推理文庫、1982(1911)、28-29頁)

  6. 逗子・葉山駅(高校生のときは新逗子駅だった)を出た列車は基本的には羽田空港まで行くらしい。閉館まで残っていたのはふたりだけだった。『森の屏風』シリーズの色-織り(「〜越しに見る」という経験が強烈に描かれているような…?)を呆然と浴びたまま、夕暮れの葉山海岸に出る。きっとまだ学生くらい若いのであろう彼女に下手に声もかけられないのは自明だけど、「安醒と俊子をあんなに熱心に見ていたのはどうしてだったの?」(醒の字の実際の部首は玉部)とだけでも聞いてみたかった。丁度のタイミングで来たバスでもう一度居合わせたときに聞いてみればよかった。波打ち際でひとり戯れている姿を目で追うままに、今日もまた視線だけの幽霊のように過ごした。手元にはフォークナーの『サートリス』。双子の弟を失って戦争から帰ってきた孫を祖父が迎える序盤を読んでいる。昨夜浮かされたように50,000円も払って2枚買ったラフマニノフ公演と言い、浮足立っているようなところがこの週末はある。

  7. 組織への謀反とも取れる病休を使って東京に出る。同じ車掌だろうか。行きには「今日は夏日が予想されております。お気をつけて、お帰りの際のご利用をお待ちしております」、帰りには「今日も一日おつかれさまでした。よい週末をお過ごしください」と柔らかい車内アナウンスが流れる。梅屋敷-蒲田や九段下-神田を歩いたいつかの休日と同じように、今日は千石-駒込の公園、古書、喫茶店…と町の一画を転々と巡り歩いた。目当てにしたのは「ときのわすれもの」で開かれていた内間安醒の展示。惑星にも砂漠の稜線にも見える3階に飾られた木版画に目を奪われる。細い赤は稜線を波打つかのように感じられた。スリッパに履き替え、お茶も出してもらって近代建築のなかで過ごす。そういうスタイルなのだろう。大きな古木の見下ろす築山にこどもが集まる富士前公園(路地でもあそんでいる)や文学的な女性(学生だろうか)の微睡む喫茶東城といった周辺の小空間との連続性も感じられ、こういったことどもが「文京」と名指されているのか、とひとり浸るように過ごせたのは5月の陽気によるものだろうか。買い込んだ古書たちを読んでいる、気づいたら身が漂流しているような予感もしてヒヤッとする。気の利いたエスプリは流れて行ってしまうし、夏植物たちも矢鱈と色香を立たせるように感じられて落ち着かない。今ここに来たからこそ出会う環境と、本を開いたり展示を見たり映画を観たりすることで入り込む別世界があって、休日はその行き来で心身を広げるように生きている。それと休日ではない、つまり現場に立って仕事をしている時間においては、どう生きることができるのか。また、その時間について書かれた文としての日誌はどう位置づけることができるのか。午後の光のなか神樹たちとでも言いたくなるような巨大な欅楠たちの麓に広がる公園であそぶ放課のこどもたちを眺めながら、あおさとブロッコリーのホットサンドを振る舞われ、遠雷に急いで場を閉めた昨日の現場を思い出していた。この間にどんな橋を架けることができるだろうか。

  8. 海風吹く。後ろ髪が逆巻いている。快晴の下の鳩の滑空を小川と高架下で2度見る。現場で苛まれたある疑惑について、今朝のセッションで話し「待てるなら待つのはいいこと」「見てるぞというジャブは打って、フォローもしてるからいい対応だ」というアセスメントをもらえた。スーパーバイザーは偉大な役職だ。パソコンを家に置いてきてしまって、図書館のような神大キャンパスでひとり呆ける。休日は大学生のモードをそのまま引き伸ばして生きている。2本立てのレイト・ショーを観に行く(雲雀洞にも寄る)のか、それまでに1度家に戻って家事を済ませるのか、そういった枠的な計画見込みの手前で足踏みしている。

  9. 風呂からあがって、流石に寝ようとトイレを済ませに出るとき、今何をしていたんだったかと少し考えて、部屋で呆けながら歯を磨いていたのかと思い出す。棚には『豊饒の海』シリーズが控えている。部屋の電気を消して床に就く。潜水から息継ぎをするみたいに、この投稿に縋るように。

  10. もう好き! みたいな恋愛感情はないんだけど、時々4人で話してるのに2人だけの世界になる時間みたいなものが何回かあって。

  11. 立夏。塩焼きそば。こどもの日の現場には鯉のぼりが泳ぎ、新聞で折られた兜がそこらを歩いていた。もう長いでしょう、と最近言われるようになった。場づくりの美学的モデルとしての庭師、日誌=フィールドノートを書くなかで自らの「身ぶりと言葉」をふりかえるプロセスに身を置き続けるモデルとしての人類学者(民族誌)、そして、精神性のモデルとしてのアイドル、という3つのモデルの背中を仮に見上げながら仕事をしてきて、今の現場は5年目になる。昨日文学フリマがあったという投稿を読みながら駅から歩いて、町から現場の森を臨むとき、頭をよぎるのは自分の仕事のスケールの狭さだ。

  12. 起きたら降っていた大雨のなか、陰ったリビングで『あのこは貴族』と『怪物』を観る。階級を扱った作品と「ふたりだけの世界」(昨夜読み返した2年前のGWの日誌)を描いた作品。予約していた2度目の歯医者に出るころに雨が上がり、雨後の強風に煽られながら鳴りを潜めた街を行って戻ってきた。駅の改札前には慶應大の見学を終えたらしい高校生の課外授業の大集団。居酒屋の前には氷水に大量の鯵が浸された樽。学童の前には路肩にまで出てきて掃き掃除をするこどもたち。花屋の姉さんたちが店の前を自転車で通る知人に「あとでね」と挨拶を交わす。小径には前を歩くおじさんと両脇に茂る夏草とうなじにあたる雨上がりの陽光とが夏の匂いを演出する。駅の裏の小さなスペースで出発する列車を見て興奮して飛び跳ねている障害者の青年と付き添いの母親。普段歩かない連休前の15−18時の時間帯に、普段見ない場面をよく見た。
    昔父によく連れて行ってもらった「ムー大陸」(ゲーセン)の煙草の匂いの記憶が今も心地よくさせる、そんな空間として入る喫茶店で『僕が本当に若かった頃』を読んでいると、外は夜になった。鳥の声に耳を澄ます魂、『神曲』の遍歴を読みながら性の交錯とすれ違う生活。そういう本を読んでいるから、性と暴力のニュアンスを帯びた状態で1週間同居することになるのだと拒絶されたのが昨夜だった。『TRICK』の阿部寛のように「いつでも殺せるくらい」の存在(男)であることが同居の条件だという線引きが再確認されて、そこで唾棄すべきは大江−中上的な探求ではなく、同僚たちとの不毛な格闘なのだ、と個人的に結論づけた。4月はクマバチが飛び、紫蘭が咲き、筍が隆盛をほこる月だった。

  13. 弘明寺。湯上がり。憩い所でゲームや漫画を見て過ごす兄弟のそれぞれに対して真逆の態度を取る母親の姿が目に痛い。横浜駅の南改札で友人親子と記念写真を取って別れる段になって、公然と姉妹のうちの上の子に辛くあたる父親とそれを受けて唇を噛み締めながら撮影をしたあと、ボロボロと表情を崩した当の子の姿を思い出した。街で見かける小さな虐待。こどもの方もまた交わしながらその環境を生きている。3時間半に渡る打ち合わせ?では、あの現場で終わっていたはずの物語はまだ終わっていなかったのかという「シーズンⅡ」の感を得ながら、「場を開く者は派遣された職員が追っている責任に対して責任を持たなければならない」というテーゼを聞いた。先週の昨日の神保町で手に入れた大江の短編集は北軽井沢の「生の連鎖に働く河馬」篇へと至り、先週の今日に一緒に『PHM』を観に行った妹とは昨夜『カリオストロの城』を観た。こどもたちに囲まれた週末の現場時間を日誌に結晶化することが遅れたまま、副交感神経も開ききれなかった気がする。同僚たちはみな体調を崩していて、それは自分もなのだった。

  14. 【あいちゃんの夜戀館】プライバシーを大切にされる方へ、
    安心してご利用いただけるご案内をしております。
    女の子は全員、非風俗の素人で短期出勤。
    事前にお写真確認のうえ、オンラインでお選びいただけます。
    料金はすべて込み、当日現金払いのみで追加料金は一切ありません。
    東京・大阪エリアにて、完全予約制で対応しております。
    少しでも気になった方は、
    ご相談だけでもお気軽にご連絡ください。
    【連絡先】
    【 TG:R300687】【Gleezy:uber77】
    公式サイト:yoasobi25ドットコム

  15. 「幻の国を雲間に見上げるように、しかし実際には自分が、陽のあたる高みの土塁に足を踏まえて見おろしている、上下の引っくりかえしにはじまって、なにもかも転倒している世界の、そのトバくちに立っているように僕は夢想した。様ざまな経験に痛めつけられ精神に障害を発し、不幸な死に方をした人間よりも不幸にいまは生きている、四国の森の倉のなかの病室のタカチャンと、いま中国の新疆省を旅して、交河故城から広大な窪みの風景を見おろしている、ともかくは自由な自分。その相互関係が、まるごと引っくりかえっているような、もうひとつの世界。そこへ至る道を覗きこんでいるのではないかと、夢想の展開するところへ向けて、僕は耳を澄まし眼を見はるようであったのだ。」(大江健三郎「四万年前のタチアオイ」、『大江健三郎小説8』、新潮社、1997(1985)、348頁)

  16. 穀雨。昨日の夕飯は鮭のムニエル。神保町で18,300円分の買い物をする。露店よりも屋敷のような古書店のなかでの方が大江やヴァレリーの本を見つけられる。ひとびとは「収穫」として買った本を投稿するけど、僕の感覚からすると肥料に近い。本棚という土壌を混ぜかえす「田起こし」をしたのも昨夜。早速買ってきた全集で読み始めた大江の連作「河馬に噛まれる」は浅間山荘の悲惨な事件の裏で糞便の水路を開発していた青年の話からはじまる。ラブレー、バタイユ、熊楠…と導き手を感じる「糞論」とでも言えるような思考が扱うものは、お腹の調子が相変わらず悪い自分にとって大事な問題系だ。
    明けた今日も海老名で買い物をする妹を待ちながらサンマルクで大江を読み進めている時間が幸福だった。互いの靴を買ったら、駆け込みで映画『PHM』(2度目)を観て、こちらは遠心装置のダンス、エコーロケーション、模型、刺青=ヒエログリフ…といった異星生物間におけるコミュニケーションのデザインに改めて目を奪われた。主人公が意思疎通のために作業台でマケットを即席する場面が特にすごい。
    この2日間のことが最近の宙吊りな不安感を打開するヒントになってほしい。土壌づくりと作業台。

  17. 「イーヨーは地上の世界に生まれ出て、理性の力による多くを獲得したとはいえず、なにごとか現実世界の建設に力をつくすともいえない。しかしブレイクによれば、理性の力はむしろ人間を錯誤にみちびくのであり、この世界はそれ自体錯誤の産物である。その世界に生きながら、イーヨーは魂の力を経験によってむしばまれていない。イーヨーは無垢の力を持ちこたえている。そのイーヨーと僕とが、やがて「雨の木(レイン・ツリー)」のなかへ、「雨の木」をとおりぬけて、「雨の木」の彼方へ、すでにひとつに合体したものでありながら、個としてもっとも自由である者として、帰還するのだ。それがイーヨーにとり、かつ僕にとって、意味のない生と死の過程であると、誰がいいえよう?」(大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』、講談社文芸文庫、2007(1983)、344-345頁)

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