6月15日

 サンダルもあるし、決してきれいではないのはわかっているのだけど、裸足のままベランダに出ることがある。2ヶ月にいちどくらいやってくる、ちょっとだけ寝て無理して起きて生活時間を朝型に戻す日だった。朝6時くらいに寝て3時くらいに起きるリズムにずれ込んでいて、これはあんまりだと思っていた。コーヒーも飲まないようにして、一日中ぼんやりしていた。時差ボケは英語でジェットラグというらしいけど、仮に24時間半を平均的なサイクルとして少しずつ生活時間がずれ込んでいくのは、毎日少しずつ西に移動して寝起きする緩慢なジェットラグに対応するんだろうか。今日は横浜で、明日は福岡で、明後日は台湾で。横浜で12時に寝て7時に起きるのを基準だとすれば、3時に寝て10時に起きたので、パリから香港くらいまで戻ってきたのかもしれない。

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6月14日

 煙草を吸いにベランダに出ると目の前に不思議な形の雲があった。目の前ではないのだが、それくらい低いところに浮かんでいて、仰ぎ見られた大きい雲を縮小して地平線の上に乗っけたみたいだった。こないだマックに行ったとき、前に並んだおじさんの着ているTシャツの背中いっぱいに牙を剥き出しにしたリアルな虎の絵が描かれていて、なんで背中なんだろうと思った。ちょうど後ろで組んだ手が虎を抱えるような形になっていて、多重にちぐはぐな感じがした。萩原朔太郎の『猫街』という小説がある。近所を歩いていて見知らぬところに入り込んで迷ってしまったと思ったらいつもの道を逆から歩いていただけだったという短い話で、ふたつはフラッシュ猫街みたいな感じだった。せっかく写真も撮ったので載せておこう。

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6月13日

 引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるのだ。あるコラムが「フェミ系」の人に向けての揶揄であるということで誌面の写真がツイッターで拡散され批判されていた。その内容と同じくらいどの雑誌のものかも言わず誌面の写真を貼ることが引っかかる。引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるけど、ツイッターは素材の投下とそれへの反応のセットが怖いくらい効率化されていて、制裁を加えてよい引っかかりももう写真やハッシュタグや語彙のレベルで圧縮されてパターン化されている。でも文章なんてもともと引っかかりの塊だ。他人の書いたものを400字読めば絶対自分はこういう言い方はしない・できないという箇所が出てくるだろう。それは潜在的、一次的には不快だが、憧れに転ぶこともあるし、怒りに転ぶこともある。引っかかりには書き手と自分の体の距離が表れていて、表面化した感情にはすでに第三者からの目線が入り込んでいる。サッカー選手が大袈裟に転んで見せるように。それは「シミュレーション」と呼ばれる。ぜんぶが審判へのパフォーマンスになるとゲームは崩壊する。問題は一方でコンタクトの技術が蒸発すること、そして他方で、世界に審判などいないということだ。逆に言えば引っかかりへの解像度を上げることと、自分がいったい誰を・何を審判だと思っているのかと考えることはいつもセットであるということだ。

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6月12日

 気づいたらいろいろやった日だった。起きて日記を書いて、洗濯物を干して掃除機をかけて床拭きのロボットをセットして、ひとまわり大きい冷蔵庫を見に歩いてすぐのリサイクルショップに行った。ちょうどいいのがあって、すぐに運んで今使っているほうも引き取ってくれるということだったのでお願いする。家に戻って中のものを全部出して棚を拭く。すぐにチャイムが鳴って頭にタオルを巻いた大柄の人が来た。とても腰が低くて、指に血豆の跡がある。数時間は電源を入れないでほしいと言われた。コンプレッサーに液が溜まった状態で通電すると壊れてしまうらしい。珈琲館に行って原稿を進めた。帰って晩ご飯を作った。電源を入れてしばらくしても異常はなかった。冷蔵庫が広くなって嬉しい。

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6月11日

 めずらしく12時過ぎには眠たくなって、今寝れば朝に起きられるかもしれないと思って寝たのだけど、体が昼寝と勘違いしたのか1時間ほどで眼が覚めた。手持ち無沙汰になって日記を書いている。夢を見た。大昔に住んでいた団地——われわれはそれを「住宅」と呼んでいた——にいる。夜で、低いところに星がたくさん見える。部屋のドアを開けると入れ違いに兄が出かけるところで、こんな夜中にどこに行くんだろうと思う。寝ているのと喋っているのとが重ね合わされたようなかたちで両親が寝室にいる。居間のこたつで彼女がサラダ味のサッポロポテトをつまんでいて、リクライニングを倒した座椅子に寝そべって狭いこたつに足を突っ込む。みすず書房からフロイトとウィトゲンシュタインの中間の人の新刊が出ていて、「その日の仕事を別のかたちで保存して食べるために毎日料理を作る」と書いてある。それは彼がしていた子供向けの授業を本にしたもので、こんなものがあったのかと思う。

 とりあえず書いてみたけどこれはほとんどボツだなと思って寝なおした。別の話をしよう。街には悪そうな人がたくさんいる。というか、昔悪かったけど今はもうくたびれている感じの人がたくさんいる。悪というとどうしてか一様に悪い人が集まっているのを想像してしまうので、悪のあとでばらばらと様々に人がくたびれているのを見るとなんだか元気になる。連れの東南アジア系の女性にやり込められている人もいれば、Tシャツの袖から和彫りをのぞかせて道端に座っている人もいる。そこには生活の匂いがあって、そういうレベルでの悪の多様性に触れることは陰謀論への免疫になるのかもしれないと思った。

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6月10日

 動物に必死に人間の似姿を探そうとするのは、人間が動物になってしまうのが怖いからだ。ドゥルーズは動物は死ぬことを知っていると言ったが、それは動物の死は死を最小にする死だからだ。人間は墓を建て弔い死を最大にする。そのとき死は非物体的なものになり、死体の物体性は滅却される。動物は死ぬときたんに死体になる。人間性にせよ人権にせよ、それを動物に拡張するときに人間の側で何が確保されようとしているのかとつねに問う必要がある。しかし例えばペット葬なんて馬鹿らしいと言いたいのではない。たしかに半分はそう思う。でももう半分は、人とともにあることを彼らなりに解釈し生き、人に喜びや安らぎを与えてくれたということに対して、弔うこと以外でどう応答すればいいのかと思う。これは社会の問いであり文明の問いだ。その時点でやはり半分はもう興味を失ってしまう。動物に出くわすたびにわれわれは半分に割れる。その割れるということ自体から何かポジティブなものを取り出すことはできるだろうか。

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6月9日

 また朝まで起きていて、急にカルピスソーダが飲みたくなったのでコンビニに出た。普通のカルピスはあったけどソーダは青リンゴ味しかなかったのでそれと、目に入ったカップ入りのロックアイスを買った。公園まで歩いてベンチに座ってカップに注いで飲みながら煙草を吸った。涼しくて気持ちいい。ビールの空き缶が転がっている。外でお酒を飲むのも気持ちいいんだろう。このロックアイスに酎ハイを入れてもいいし、炭酸水とウィスキーを入れてもいいし、赤ワインをそのまま入れてもいいかもしれない。ぜんぶコンビニで買える。赤ワインとオレンジジュースを入れてサングリアっぽくしてもいいかもしれないし、白ワインをこの青リンゴカルピスソーダで割って、そこに冷凍のカットライムを入れてもいいかもしれない。お酒は飲まないけどいかにも美味しそうだと思う。光がだんだんくっきりしてくるのを感じながらそういうことを考えていると何かとても充実した気分になって、帰り道にはもう素直な眠気を感じていた。

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6月8日

 ツイッターで流れてきた(真面目なほうの)スポーツ誌『Number』の記事を開いてみる。棋士のインタビュー。内容より記者の手つきのほうが気になった。こういう作り方の記事は人文系、美術系の媒体ではぜんぜん見ない。インタビューというより取材ルポのような書き方で、取材に至った経緯、相手の様子の描写、記者の心情のなかにときおり相手の発言が鉤括弧で括られて挿入される。『眼がスクリーンになるとき』を出したときに朝日新聞にインタビューを受けて、それが記事になったときに感じた驚きを思い出した。文脈の設定、直接話法と間接話法の使い分け、そこに加えられる注釈や考察。ほとんど哲学の論文の書き方と同じだと思った。われわれもテーマを提示し、文脈を抑え、直接話法で言質を取りつつそれを間接話法にスライドさせ、注釈し図式化し、もとのテクストから新しい相貌を引き出す。いわゆるドゥルーズの「自由間接話法」的なスタイルはこれらの各ステップの段差を極端に圧縮し滑らかにしたもので、どこまでが引用でどこからが介入なのか読者は容易に解凍できない。でも生身の人間を相手にこういうことをするのは全く別種の難しさもあるんだろう。ちょっとやってみたいけど取材したい人が思い浮かばない。

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6月7日

 昼過ぎに起きて、ずっと頭がすっきりしないまま1日が終わった。夜に原稿と関係ない、コンピューターの仕組みと歴史についての本を読んでいてそれでやっと息抜きができた感じがした。休むのも難しい。ツイッターやユーチューブは気を紛らわせてはくれるけど休んでいるという感じはしないし、ずっとごろごろしていても余計頭が重くなるし。結局本を読んで音楽を聴いて家事をするのがいちばん気が休まるのだ。そういうちょっとめんどくさいことがいい。ちょっとめんどくさいからこそ、秒単位で切り替わる刺激を浴びなくても夢見の悪い昼寝をしなくても休みが休みとして過ぎていく。

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6月6日

 結局朝8時半まで書いてなんとか出来上がってゴミ出しをして寝た。日記を毎日書いていれば原稿も少しは楽になるんじゃないかとも思っていたがそういうことではないらしい。書いていてこれは日記とは違うなと思うのは楽しくもある。日記、エッセイ、批評、論文。それぞれにゲーム性というか、マナーと楽しみ方があるけど、言いたいことを言うというところは変わらない。どれかひとつばっかりだと形式のほうに乗っ取られてしまうこともあるだろう。研究者は往々にして英語論文の書き方みたいなことには熱心なのに、批評やエッセイについては書けば書けるものと思っている節があるような気がする。でも案外、論文をクリアに書くことよりエッセイをクリアに書くことのほうが難しかったりする。

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