1月23日

 雨。11時ごろに起きて、つぶあんパンを食べてコーヒーを飲んで、コメダに行った。博論を読み返す。いつもそうだけど、自分が書いたものを読むとよくこんな難しいこと考えたなと思う。書き終わった途端に、書いているとき、とくに書き終わりつつあるときのいちばん明晰な景色はぼやけ始めるが、対象化されることで別の可能性が浮かび上がってくるほどまだ時間は経っていないのかもしれない。ときどき喫煙ブースに立ちながらいくつか誤字や細かいツッコミどころをメモする。

 お腹が減ったので近くの丸亀製麺でうどんを食べて、有隣堂で最近上下巻が揃った岩波文庫のラカン『精神分析の四基本概念』を買って、ドトールに入ってそれを読む。前に単行本で読んだのは学部生の頃だった。指導教員の三宅先生が『意味の論理学』の原書講読をしていて、そこで参照されているラカンの「「盗まれた手紙」のセミネール」を読んだあとで借りて読んだんだと思う。ほとんどわけがわからなかったけど構造や眼差しの話が新鮮だったのは覚えている。

 スーパーに寄って帰って、ゲームしたり昼寝したりして、起きてから数食分のラタトゥイユを作った。参考にした動画ではラタトゥイユはトマト煮込みではなくトマトが入った野菜炒めなんだと言っていた。ざっと炒めて蓋をして数十秒蒸らすというのを、硬い順に野菜を一種類ずつ入れながら繰り返し、最後にトマトを入れてまた同じことをする。冷めるのを待ちながら肉も焼いて晩ご飯にした。ラタトゥイユは確かに食感がしっかりしていて美味しかったが、どろどろになってナンボなんじゃないかという気もする。

 今日4杯目くらいのコーヒー。煙草は毎日ほぼきっちり一箱吸う。睡眠時間がぐちゃぐちゃなので煙草の切れ目が一日の区切りだ。だから必ず一箱ずつしか買わないし、無くなったら何時でも買いに行く。初めて日記らしい日記になった気がする。

投稿日:
カテゴリー: 日記

1月22日

 今日は昼に起きて新居の契約をしに行った。長い契約書の説明を聞き、たくさん名前と住所を書いてたくさんハンコを押した。家賃と更新料と支払い手数料の関係についての文言の解釈でちょっと疑問があったので、どうなんでしょうこれはこういうことではないですかと言ったら、確かにそうですねすいませんと言われた。論理国語。

 貸主が甲で借主が乙。説明してくれる不動産屋さんは契約書のなかには存在しない。でも彼がいなければ契約は成立しない。帰り道にはもう甲も乙もなく、路地に入って2時間ぶりの煙草を吸った。

 

投稿日:
カテゴリー: 日記

1月21日

 昨日の晩、樋口恭介さんが僕の文章は疲れているところがいいと言ってくれた。それで冒頭の文章から疲れている大岩雄典「スローアクター」展の批評を読み返したりした。

 それで思い出したのだけど、年末に大岩さんと布施琳太郎さんのトークの司会をしたときに、ふっと、都会は静かなのになんかあったりするけど、田舎は静かなところにはなんもないという話をした。僕は「都市」という言葉より「都会」という言葉をよく使う。「都市」というのは、静かだけどなんかある「都会」のひとが使う言葉だという感覚がある。

 トークの会場であり、そのとき大岩さんの個展がおこなわれていたTOKASは、水道橋とか本郷三丁目とかの駅の近くの、住宅や小さなビルの多い静かな地区にある。こんな静かなところに現代美術のギャラリーがあるのだなと、会場に向かって歩きながらぼんやり考えていた。

 美術が疲れるのは、物をちゃんと見るという変なこと(それはやはり変なことだ)を繰り返しするからであると同時に、まず会場まで行くのに疲れるということだ。美術が何か疲労の手触りと特殊な関係をもっているとするなら、作品への物理的、技術的、制度的なアプローチにかかる労力にも関わる。「サイトスペシフィック」とかいうことも、その「サイト」にどういうアプローチがくっついているのかということとセットで考えなければならないだろう。

 疲労は、展示に入る前と後、出る前と後を否応なく貫くものであり、それは持続と空間の連続性を指し示している。作品や展示がいかに「自律」していても、私の疲労はそれを閉じるがままにさせない。水道橋の街のよそよそしい静けさにまで腹が立ってくる。見るべき室内の展示と見なくていい街の平凡な景色に、当たり前のように分割を強いているような気がして。

 その点、大和田俊の個展「破裂 OK ひろがり」のポンプ小屋の作品は良かった。何もない、栃木的にまっ平らな、枯れた田んぼの端に、ところどころ透明な板で囲んだ小さな小屋があって、その中に彼の《unearth》が設置されている。石灰岩に点滴袋からクエン酸を垂らし、それで数億年前の微生物の死骸でできた石が溶ける。マイクで拾われたその音が、町内放送に使われるような、電柱の上に取り付けられたスピーカーから流されている。

 狭義の会場である車屋美術館から離れたところに設置されたその作品は、ここからが美術、あとはその外という分割に基づいているのではなく、歩いたら疲れるとか、微生物が死んで石になるとか、集音するためには小屋を閉じなきゃいけないとか、でもその音は小屋の周辺にいる誰かれ構わず聞かされていることとか、石を見ることと音を聴くこと、スピーカーを見ることのあいだにフィジカルなズレがあって行ったり来たりしなきゃいけないこととか、そういうこととつながっている。

 しかし配布された資料にある、大和田オススメの、会場近辺のパキスタン料理店やトルコ料理店が書き込まれた手書きの地図は何だったんだろう。ちょうど地元の五月女さんが車で案内してくれたから行けたけど、ひとりで電車で行ってたら絶対行かなかかっただろう。そういえば《uneath》にもある、よくわからない多動を強いられる感じや、無理があるこの地図は、彼自身の落ち着きのなさを追体験するものでもあるのかもしれない。

 

 

 

投稿日:
カテゴリー: 日記

【2月18日】博士論文公聴会のお知らせ

昨年末に提出した博士論文の公聴会がZoomウェビナーで公開されます。

見学希望の方は以下のリンクから詳細を確認のうえお申し込みください。

http://www.ygsc-studio.ynu.ac.jp/2021/01/2021218.html

参加可能人数はかなり多めに取っていただいておりますが、いちおう早めの登録をお勧めします。

なんだか大事になってしまった。緊張する。

1月20日

自分のサイトを作ってみた。
本当になんにも知らないのでとりあえずサーバーとドメインの契約をして(これだけでもひと苦労だった)、wordpressをインストールして、デフォルトのテーマをそのまま使い、初心者向けのサイトで絶対入れとけと言われているプラグインを入れている。

記事タイトルがやたら大きいのと、スマホで開くとメニューのタブがちょっと不格好で、本文のフォントも大きすぎるのが気になるけど、このテーマ(Twenty Twenty-One)のデザインは気に入っている。いろいろいじれるんだろうけど、本当になんにも知らない。

例に漏れずSNS疲れというやつで、「何か言ってやれ」みたいな気持ちに自分がなっていること、そして呟いてしまうことに嫌気がさしてきた。この日記は言うべきことの少なさのために書かれる。

投稿日:
カテゴリー: 日記

プロフィール

福尾匠 Takumi Fukuo

Mail: takumi.fukuo@gmail.com 



活動一覧(随時更新)

*日付降順、2020年12月28日更新

[トーク]大岩雄典・布施琳太郎・(司会)福尾匠「大岩雄典と布施琳太郎:インスタレーションや執筆や二人が前提としていることについて」、トーキョーアーツアンドスペース本郷、2020年12月14日

[エッセイ]スモーキング・エリア#4:時間の居残り」、「約束の凝集」展内のエッセイ連載、gallary αM公式Twitterアカウント、2020年11月

[エッセイ]スモーキング・エリア#3:僕でなくもない」、「約束の凝集」展内のエッセイ連載、gallary αM公式Twitterアカウント、2020年10月

[批評]「Tele-visionは離れて見てね」、『文藝』2020年冬季号、河出書房新社、2020年10月、pp. 364-369

[トーク]迫鉄平・福尾匠「迫鉄平 全映像作品2013-2019 上映会」、埼玉県立美術館「New Photographic Objects」展、2020年9月5日

[エッセイ]スモーキング・エリア#2:音響空間の骨相学」、「約束の凝集」展内のエッセイ連載、gallary αM公式Twitterアカウント、2020年8月

[レクチャー]地層と概念」、鷲ノ山、2020年8月8日

[鼎談]中森弘樹・福尾匠・黒嵜想「いてもいなくてもよくなることについて」、ひるにおきるさる、2020年8月

[展評]「絵画の非意識」五月女哲平個展「our time」評、『our time』、NADiff、2020年7月、pp. 12-13

[批評]「ポシブル、パサブル:ある空間とその言葉」、『群像』、2020年7月号、講談社、p. 169-185

[ゲスト講義]「準ゼミ:制度のリテラシー」全6回、東京造形大学CSLAB、2020年5-8月

[エッセイ]スモーキング・エリア#1:煙草と同じくらい分煙が好き」、「約束の凝集」展内のエッセイ連載、gallary αM公式Twitterアカウント、2020年4月

[論文]「ベルクソン『物質と記憶』の哲学的自我:イマージュと〈私〉」、『表象14』、表象文化論学会、2020年、p. 159-173

[論文]ドゥルーズ『シネマ』におけるイメージ概念の実践的価値」、『常盤台人間文化論叢』、第6巻、第1号、常盤台人間文化論叢編集委員会、2020年、p. 5-31 

[エッセイ]「変化のプライバシーと照れ笑い」、『生活工房アニュアルレポート2019』、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、2020年4月、p. 53

[レクチャー]「哲学対話 PARA SHIF パラシフ」(第1夜「やる気と元気」、第2夜「作品と広告」)、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、Cafe Mame-Hico 三軒茶屋店、2020年2月15, 22日

[レクチャー]「今、美術にとって言葉とは何か」、東京造形大学CSLAB、2019年12月10日

[書評]理系が引き出す文系の魅力」カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(富永星訳、NHK出版、2019年)書評、『朝日新聞』朝刊、2019年11月16日号、15面

[展評]現在を寝返る」(迫鉄平、荒木悠、高嶋晋一+中川周「IMG」展評)、Sprout Curation展示サイト、2019年

[インタビュー]「たんに見ることはなぜ難しいのか」、『談』、第116号、公益財団法人たばこ総合研究センター、2019年、p. 9-36

[批評]「感じたらこの法螺貝を吹いてください」武正晴『全裸監督』(Netflix、2019年)評、『群像』2019年11月号、講談社、pp. 502-503

[書評]「テーゼ、テーゼ、テーゼ」江川隆男『すべてはつねに別のものである』(河出書房新社、2019年)書評、『文藝』2019年冬季号、河出書房新社、p. 544

[アフタートーク]円盤に乗る派『清潔でとても明るい場所を』、BUoY、2019年8月8日

[インタビュアー]脱げないヴェールのかぶりかた:遠藤麻衣ロングインタビュー」、ひるにおきるさる、2019年7月

[トーク]平井靖史・福尾匠「脳はイメージである:ベルクソン『物質と記憶』を読む」本のあるところajiro、2019年6月18日

[講演]「ドゥルーズ『シネマ』から考える読むことの創造性」、福岡大学人文学部文化学科 学部教育充実プロジェクト、福岡大学、2019年6月17日

[選書コメント]「コンピューターは「ベルクソン的なもの」になる」、『WIRED vol.33』、プレジデント社、2019年、p. 133

[ゲスト講義]「制作と鑑賞の非対称性について:ドゥルーズ 、フーコー、デリダ:展評を書こう!」、京都市立芸術大学大学院美術研究科デザイン学特論ゲスト講義シリーズプールリバー、京都市立芸術大学、2019年6月11日

[コメンテーター]アケネ・スメリク「イリス・ヴァン・ヘルペン(Iris van Herpen)とポストヒューマン・ファッションデザイン」コメンテーター:室井尚・福尾匠、FashionStudies™ × 横浜国立大学 アネケ・スメリク氏来日記念講演、公益財団法人日本服飾文化振興財団、2019年6月4日

[書評リプライ]廣瀬純氏による拙著『眼がスクリーンになるとき』書評について」、『repre』第36号、表象文化論学会、2019年6月

[展評]話が前後するが、」大岩雄典個展「スローアクター」評、『ウェブ版美術手帖』、2019年4月

[書評]「やさしさはひとにだれかのふりをさせる」大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房、2019年)書評、『新潮』2019年5月号、p. 262−263

[インタビュー]「研究と批評」、『横浜国立大学都市イノベーション学府・研究院イヤーブック2018/2019』、都市イノベーション学府・研究院、2019年3月、p. 14-18

[書評]「新実在論」はどう響くのか」丸山俊一『マルクス・ガブリエル:欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書、2018年)書評、『朝日新聞』2019年3月16日号、27面

[モデレーション]「田中功起『可傷的な歴史(ロードムービー)』上映後アッセンブリー」、シアターコモンズ’19、東京ドイツ文化センター、2019年2月22、24日

[トーク]福尾匠・奥泉理佐子・大岩雄典「re・だんだん・see:一望できないものの設計と批評」、大岩雄典個展「スローアクター」、駒込倉庫、2019年2月11日

[合評会]「『カオスに抗する闘い』『眼がスクリーンになるとき』合評会」、DG-Lab、クロスパル高槻、2019年2月8日

[講師]「東京芸術大学大学院壁画第一研究室修了生ゲスト講評会」、東京芸術大学、2019年1月28日

[研究ノート]「思弁的実在論における読むことのアレルギー」、『現代思想』2019年1月号、p. 310

[対談]小倉拓也・福尾匠「新世紀ドゥルーズ論――絶望とともに生きて死ぬドゥルーズの哲学」『図書新聞』 第3379号、 2018年12月、1面-3面

[レビュー]「異本の論理」、『アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ 公式パンフレット』、ザジフィルムズ、2018年11月、pp. 38-39

[インタビュー]「メディアよりイメージを優先させる」態度」、『NOBODY』ウェブマガジン、NOBODY編集部、2018年11

[展評]テーブルクロス・ピクチャープレーン」、ウェブ版美術手帖、2018年11月

[トーク]福尾匠・大前粟生・黒嵜想、「『回転草』×『眼がスクリーンになるとき』刊行記念トークイベント——書くひとと書かれたひとは書かれたもののなかで手をつなげるか?」、出町座、2018年10月7日

[トーク]福尾匠・小倉拓也、「『カオスに抗する闘い』&『眼がスクリーンになるとき』発売記念 小倉拓也さん×福尾匠さんトークイベント ドゥルーズはなぜ面白いのか――哲学と芸術の狭間で」、紀伊国屋書店グランフロント大阪店、2018年10月6日

[エッセイ]タフだが面白いものを/『シネマ』が複雑である意味」『週間読書人』第3258号、2018年9月、第3面

[トーク]福尾匠・千葉雅也、「『眼がスクリーンになるとき -ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』-』『思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集』刊行記念福尾匠さん×千葉雅也さん トーク&サイン会」、ブックファースト新宿店、2018年9月20日

[トーク]福尾匠・平倉圭・三浦哲哉・石岡良治、「『眼がスクリーンになるとき』+『オーバー・ザ・シネマ』刊行記念トークイベント」、横浜国立大学Y−GSCスタジオ、2018年9月10日

[トーク]福尾匠・高橋明彦・星野太、「『眼がスクリーンになるとき』刊行記念トークイベント」、芸宿、金沢、2018年9月8日

[インタビュー]「単に見ること」が持つ可能性」、『朝日新聞』2018年9月8日朝刊、23面

[エッセイ]「見て、書くことの読点について」、『新潮』2018年9月号、新潮社、2018年8月、pp. 244-245

[単著]眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、フィルムアート社、2018年7月

[書評]プロジェクション(なき)マッピングあるいは建てることからの撤退」、10+1web site、2018年7月

[展評]画鋲を抜いて剥がれたらそれは写真」、ウェブ版美術手帖、2018年6月

[展評]「瞬きである物体:ミンウー・リー「35º47’5″N 139º53’55″E」について」『PARADISE AIR LONGSTAY Program 2017 Document Book』、PARADISE AIR、2018年3月、pp. 57-63(*英訳付き)

[対談]長谷川新・福尾匠「発明されるべきものとしての形式」『STUDIO VOICE vol. 412』、INFASパブリケーションズ、2018年3月、pp. 180-181

[事典項目]「パースペクティヴィズム」、『美術手帖 2017年12月号』美術出版社、2017年11月、p. 40

[展評]鑑賞の氷点と融点:Surfin’ 展評」、Surfin’ アーカイブページ、2017年8月

[トーク]山本浩貴・福尾匠「いぬのせなか座×アーギュメンツ#2トークイベント」 、美学校、2017年7月17日(https://youtu.be/ahkvQqiogA8)

[口頭発表]“Deleuze’s Anesthetics”, Encounters with Japanese Artists, 草御殿, Taipei, June 3rd 2017

[批評]「映像を歩かせる:『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」『アーギュメンツ#2』2017年5月、p. 28-37

[レクチャー]5時間でわかるドゥルーズ『シネマ』」、クロニクル、クロニクル!、クリエイティブセンター大阪、2017年2月5日

[修士論文]「ジル・ドゥルーズ『シネマ』の虚像:知覚から身体へ」大阪大学文学研究科文化表現論専攻、2017年1月

[トーク]黒嵜想・福尾匠「映像批評の未来〜100年前の実験映画からシン・ゴジラまで〜」、クロニクル、クロニクル!、金沢美術工芸大学、2016年12月5日

[レビュー]小泉明郎「CONFESSIONS」展:イメージの背中、告白の背理」、HAPS PRESS、2016年11月30日

[口頭発表]「わたしに身体を与えてください」、第12回ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ研究会、2016年11月

[口頭発表]「エリー・デューリングの映像論:トポロジカルな同時性とパースペクティブ」、第11回表象文化論学会研究発表大会、2016年11月

[口頭発表] “A View from Inside the System(s) of Cinema: Perception as Zeroness and the Structural Moment of the Passage to Time-image” , The 4th International Deleuze Studies in Asia Conference, Seoul University, June 2016

[批評]In (Search of) a Lost Image, Lost in a Stage : 伊藤高志『三人の女』」、『hyphen』、ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ、第1号、2016年3月、pp. 22-26

[依頼翻訳]アンヌ・ソヴァニャルグ「リゾームと線」小倉拓也・福尾匠訳、『ドゥルーズ:没後20年 新たなる転回』、河出書房新社、2015年10月、pp. 42-63

[口頭発表]「眼=カメラから眼=スクリーンへ:『シネマ』におけるふたつの受動性」、第3回ドゥルーズ=ガタリ・ラボラトリ研究会、2015年5月

[卒業論文]ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象』論」大阪大学文学部、2015年1月

投稿日:
カテゴリー: 未分類