日記の続き#189

京都に行く日。イッセイの黒いシャツと白いスエットパンツを着て出かける。シャツに袖を通しながらもう10年くらいこの服を着ているなと思った。学部生の頃、大阪の船場にあるイッセイのお店にたまに行っていて、いつも話しかけてくれる店員の小柄なお姉さんがいたのだが、決まって何着かレディースの服を試着させられた。あれはなんだったんだろう。横浜に住んでからあんまり服屋にいかなくなった。横浜にはいいお店がぜんぜんないし、服を買うために東京にいくのも面倒だ。行きの新幹線で駅で買ったおにぎりを食べて、帰りの新幹線で駅で買ったサンドイッチを食べた。キャンパスのすぐ外のファミマは喫煙者のたまり場になっていて、授業の前後に煙草を吸いながら勘違いした高校生みたいな粗暴な若者たちを眺めている。阪大も横国もこんな感じではなかったので、私立大はやはり別物だなと思う。授業で見るのは院生だけなので、彼らに比べるとぜんぜん元気がない。どちらがいいのか難しいところだ。

日記の続き#188

どうにも頭がしゃきっとしないので、ソファから少しずつ日が暮れるのを見ながら本を読んだ。

昨日難しい本は引用するつもりで読むといいと書いたが、これは文章を素材として見るということだと思う。写真家が街の景色を素材として見るように。何らかの表現に習熟するということは、経験——という語はできるなら避けたいが——を素材として何かを作ることができるということで、それは表現することであると同時にそうした素材に表現を見いだすことでもある(いぬのせなか座の山本さんがよく表現を見いだすという言い方をしていて、前から気になっていた)。哲学の文章の読み書きで言えば、難しいものが読めるようになるのはこの表現することと表現を見つけることの回路が構築されるということだと思う。昔ながらの講読レジュメがこの回路を作るのにいちばん手っ取り早いと思う。ところで、ドゥルーズは『千のプラトー』の動物−芸術論で表現という観念と所有という観念を結びつけていた。表現とは所有であり、所有とは表現である。表現とは何かに表現を帰属させることであり、表現することで初めて所有できる。知識ではなく素材を。所有=簒奪ではなく所有=贈与を。

日記の続き#187

単著単位の長い原稿を触るのは本当に苦しいので、1日ごとの時間を決めてやっていくことにした。そうでもしないとそれ以外の時間がすべて原稿をやっていない時間になる。

夜にラリュエルのPhilosophie et non-philosophieを読み始めた。フランス語の本は再読するときに話の流れを辿りなおすのに時間がかかるので、線を引きながらevernoteで読書メモも取りながら読む。僕らは再読することを前提に本を読むのが当たり前になっているが、これは変なことなんだろう。結果として再読するかどうかはどうでもよく、再読するつもりで——もうちょっと限定的に言うと、いつかどこかで引用するつもりで——読むのは難しい本を読むときのポイントかもしれない。原稿だって読書メモだっていつまで続くかわからないが、日記のおかげでいつまで続くかわからないものをとりあえずやることへの抵抗がなくなってきた気がする。ラリュエルは読んでいるとそんなに毎段落見得を切って疲れないのかと思うけど、1989年で、バディウの『存在と出来事』が1988年で、ドゥルーズの10歳くらい年下で、と考えるとここまでやらないと突き抜けられなかったんだろうなと思う。メイヤスーやブラシエはこういう勇気に励まされて出てきたんだなという感慨があった。

日記の続き#186

ちょっと前まで朝8時くらいに寝て昼3時くらいに起きるめちゃくちゃな生活だったのだが、ここのところ2時か3時には寝て午前中に起きている。家の近くの去年廃業したラブホテルの軒先にゴミが不法投棄されるようになって、それがたちどころに増えていって、もう車道にまではみ出している。通りかかるとテレビの取材が来ていて、ネットで横浜市、南区、不法投棄と調べるとしばらく前からニュースになっているようだった。夜になると酔っ払いの叫び声がよく聞こえるし、なんだか酷いところに住んでいるみたいだ。商店街も近いし作業しやすい喫茶店もたくさんあって、とても住みやすいのだけど。

夜に初めてメルカリで買った服が届いた。マルジェラの白いカーディガンで、個人が出している古着だし、2万5千円というだいぶ安めの値段だったので心配だったが新品と言ってもいいくらいの状態だった。

日記の続き#185

起きて、棒状のレーズンパンをふたつ口に入れて、しばらくだらだらして日記を書いて、外に出た。イセザキモールを歩いて久しぶりにマクドナルドに入って、ダブルチーズバーガーとポテトとコーラのセットを食べた。しょっぱさの濃淡だけがある。あとは炭酸。よくできた食事だ。カルディでコーヒー豆を買って有隣堂でノートを買ってコメダで本を読んだ。急にぐるぐるとお腹の調子が悪くなってきてトイレに行った。すぐトイレに行ける場所でよかった——やはりマックは特別なのだ——それにしてもコロナにかこつけて多くのコンビニはトイレを貸さなくなった——かなり重要なはずのインフラが不意に取り上げられたわけで、その意味するところは——それにしてもまた副交感神経が壊れてしまいそうなくらい熱い便座の季節がやってきた——などと考えながら手を洗って喫煙ブースに入った。「社長」と呼ばれるくたびれた背の低いおじさんと、「マネージャー」と呼ばれる、割れた氷のような奇妙なエイジングを施されたジーンズを履いた細身のおじさんが話している。悪いことっていろいろあるんだよ、いつも言ってるでしょ、とマネージャーが言った。でも困っている人がいたら助けるとか…… と言って社長は黙ってしまった。社長は誰かに騙されて、マネージャーは訳知りにそれはありふれたことで、気をつけるべきだったのだと諭しているようだった。彼は昔は不動産取引も今みたいに銀行を挟まず現金でやったし、それは向こうにも後ろ暗いところがあるからだし、そういうところに盗みに入っても向こうも何も言えなかったのだとか、そういう話をした。俺は知ってるよ、社長にもいつも言ってるでしょ。社長は悪い人がそんなにまっすぐに悪いことをするのが信じられないようだった。(2021年10月28日

日記の続き#184

休日。昼はどん兵衛といなり寿司を買って食べて、夜は豆乳鍋の素を買って鍋にして、それにパルミジャーノを削って入れてリゾットにして食べた。どれも美味しかった。休みの日の昼にどん兵衛といなり寿司を食べると休みの日の昼という感じがする。というか、僕は水曜以外はぜんぶ休日と言えば休日なのだが、妻が休みだと休みの日だという感じがする。

妻と話しているとどうでもいい嘘ばかりついてしまう。「伊東家の食卓」は今もネット番組として続いていて孫役で鈴木福が出ているとか、子供のときの弁当には何が入っていたかと聞かれたら、実家が鰻屋なので毎日肝吸いでそれが嫌だったとか。これは爪を噛む癖がある人がいたり、あるいはビートたけしのチックみたいな、そういうものだと思う。出口で冗談になるようにしているが、たんなる嘘だ。

日記の続き#183

ウェイトトレーニングのケミカルな疲労のあとの煙草がすごく美味しい。こないだはグリコーゲンが切れたのかすぐコーラが飲みたくなったので、今回は水ではなくポカリを飲みながらやったらマシになった気がした。専用のアプリでトレーニングの記録を取り始めて、その日の総重量を見ると、4.7トンと出て入力間違いかと思ったが50キロ10回を3セットやればそれだけで1.5トンになるのだ。自分の生活にトンという単位が入ってくるとは。

YouTubeで見た柔術のジムをやっている人の一日を撮った動画で、生徒がブリッジのドリルをしているショットにジムに放されたパグが仰向けになって床に背中を擦りつけているショットが繋がれて、その不意に映画的なモンタージュに妙に感動してしまった。自分で場所を作るなら動物がいる場所がいいなと思った。

日記の続き#182

京都で非常勤の日。あいかわらずひかりに乗って、20分のロスと引き換えに空いた車内に座っている。往復だと40分移動が増えるが、べつにその40分で車内でできないことを何かできるわけでもない。2回喫煙ブースに行って、1回トイレに行く。これもいつも通りだ。バス停にはホームレスのおばさんがいつもどおりの位置に立ち尽くしていて、しかし夏休みぶりに見ると髪が坊主頭になっていた。バス停の喫煙所にはひとりで喋り続けているおじいさんがいて、とにかくいろんな偉い人が身内なのだという話をしていた。安倍も小池知事もそうやし、みずほ銀行があるやろ、あそこらへんは東大も早稲田も慶応も、と名詞が横滑りし続けていて、そのうちどれかがときおり「身内」に引き入れられていたが、その枠組みは決まって自分は関西の人間だが東京にコネがあるということだった。つまり関西と東京という区分けのもとで、あらゆる名前がひとしなみに物語化されるのだ。テレビの悪影響とはこういうことを言うのだろう。僕が煙草を吸い終わる頃には水卜アナウンサーの話になって、みんなミトちゃんって言うけどミウラなんやと繰り返し言っていて、その知識が彼の、関ヶ原の向こうのエルドラド的身内世界を支えているようだった。4限で修士の、5限で博士の学生の研究発表にコメントしてバスで京都駅に戻る。さっきまでピンク色だった西の空が黄色く霞んでいて、長いローソンの隣に短いレンタカー屋があった。空が黄色くて、長いローソンの隣に短いレンタカー屋がある。不意にとても寂しい気持ちになった。

日記の続き#181

トレーニングは多関節運動をなるべくたくさんやって、1回で全身を鍛えるようにしている。ストレッチをして30分ほど走って、フリーウェイトの区画に行く。セットのあいだの休憩は3−5分取るのがいいらしいのだが、そのあいだすることがないのでどんどんやってしまう。たしかに周りを見ると、座ってスマホを見て、ときおり思い出したようにトレーニングに取りかかる人が多い。サウナみたいだ。しっかり休みながら3セットずつで種目を変えていると、これはいつまでもできるんじゃないかと思うが、6種目くらいでいつも不意にもう終わっていて、これ以上はできないことに気がつく。陸上にせよサッカーにせよ、疲労はいつも息切れを伴っていたのでこの出し抜けの、呼吸は生きているのにエネルギーだけが枯渇している疲労感は不思議だ。帰り道に体を引きずって自販機で缶のコーラを買って飲んでやっと生き返る。トレーニング中にサプリを飲む人がいるのもむべなるかなという感じがする。

日記の続き#180

まいばすけっとに入るとカートを押しながらおばあさんが大声で「まいばすけっと売れない商店街の合い言葉」と繰り返しながら入ってきて、僕に「おーい売れない商店街のぼくちゃん」と言って、無視すると店員に「いらっしゃいました売れない商店街」と言っていた。狂った言葉をぶつけられると独特の疲労感がある。書店で働いていたときに明らかに挙動がおかしい若い男がカウンターに来て、後輩が対応していたので引き取ると「なんでずっと舌ぺろぺろしてるの?」と言ってくるので引っ張って店の外まで出たこともあったし、大阪で街を歩いていると後ろからおじさんに声をかけられて「キダタローの息子やろ」と言ってしばらくつきまとわれたこともある。彼らの言葉には言葉の威力があまりにダイレクトに宿っていて、憔悴した容疑者が冤罪を自白させられるような気持ちになる。話にならないというより、話にしてはいけない話を前に自分を保つのにはたいへんな努力がいる。