日記の続き#129

八月の30年——12歳

ここのところこの文章を書くのが嫌だなあという気持ちで1日の3分の1くらいを過ごしている気がする。それでどんどん生活時間がズレ込んでいって、今はもう朝6時半だ。こんなダウナーな文章を朝読んでしまうことを思うと申し訳ないなとも思う。昨日引っ越した話をしたが、話が1年ズレていて、引っ越したのは12歳のときで、小6なのも12歳のときだった。初めての一軒家で、家族4人に加えて母方の祖父母と、彼らが飼っているマリというおとなしいシーズー犬と住むことになる。マリは僕が高校生になる頃まで生きていた。世話をしていたのはもっぱら祖父母で、接するのはみんなで晩ご飯を食べるときに居間にやってきてくるときくらいだった。マリが死んだとき、彼女は縁側に敷かれた布団に寝かせられていて、頭を撫でたりしながらばあちゃんから死んだときの様子を聞いた。お腹に水が溜まっているということなのでお腹を撫でると、たしかに普段よりぽっこりしていた。夕飯の席でばあちゃんが母にたっくんがマリのお腹を触ってくれたという話をしていた。それはお腹を触ったことについての話ではなく、そういう気持ちについての話だった。でもそれはお腹を触った話として話される。その距離を感じながら黙っていた。

日記の続き#128

八月の30年——11歳

団地から一軒家に引っ越す。隣の学区に移ったが、すでに6年生の3学期だったので転校せずに車で送り迎えしてもらう。車を停める裏門側はそれまであまりなじみのないゾーンだった。そこには地元の偉人ということで、池田長発(「ながおき」と読む)という幕末にパリまで条約の交渉に行った(失敗して隠居を強いられた)人物のブロンズ像が建っている。校長室のある廊下には長発ら髷を結って袴を着た使節団が立ち寄ったカイロでスフィンクスをバックに撮影したモノクロ写真が飾られていた。「長発太鼓」という和太鼓の曲があって、6年生はこれを学芸会や市のイベントで披露する習わしがある。しかし教師も含めて長発が何を考えてどういうことをした人物なのか説明できる人はいなかったし、太鼓にいたってはそれが長発と直接関係のあるものなのかどうかすら誰も気にしていない。井原市のもうひとりの偉人は平櫛田中(「でんちゅう」と読む)という彫刻家で、街の真ん中にある小さな田中美術館の前にある田中公園には、彼の「いまやらねばいつできる/わしがやらねばたれがやる」という箴言が彫られた石碑が建っている。いやはや。僕の気持ちがわかってもらえますかね。

日記の続き#127

八月の30年——10歳

学年の終わりの文集に宝物を書く欄があって「Aバッジ」と書いた気がする。後年それは岡山県の小学校でだけ配られるものだと知ることになるのだが、毎年行われる体力テストで総合点がAになるとその小さなバッジがもらえるのだ。僕は小2から小6までの5個持っていて、同級生で6年制覇したのはあっくんだけだった。彼は中学に上がると3年生の女子がわざわざ見に来るくらいきれいな顔をしていて、彼のオスグッドの膝の出っ張りさえクールに見えた。それで運動するときは膝に黒いサポーターを巻いたりするのだからたまらない。小学生というとよく一緒に遊んだり疎遠になったり、いじめたりいじめられたりと無軌道に入れ替わる場所だったが、あっくんとも一時期よくふたりで遊んでいた。たいてい彼の家の応接間でゲームをしたのだが、任天堂64の『ゴールデンアイ007』という大人っぽいゲームで、しかもFPSなんてとうぜん触ったこともないし何が何だかわからずぜんぜん勝負にならない。それでいつも彼と彼の兄が対戦しているのを眺めていた。でもソファというものが珍しかったのでそれでも楽しかった。鮮烈なソファ体験というと、小2の年だったが、僕が住んでいた団地の近くに別の団地があって、そこに住んでいる同級生のミサキさんのところに遊びに行ったときにソファがあって始終跳ね回って遊んでいた。翌日学校に行くと家に行ったことを別の女子にからかわれ、僕とミサキさんが一緒にシャワーを浴びているところを描いた絵を見せられた。なぜ絵なのか。なぜシャワーなのか。数年後にはからかう手段もいくぶん洗練されて、使い捨てカメラで僕を撮影して、僕が好きな子——だと彼女らが思っている人——にそれを渡すと言ってくるというものになった。それはすごく嫌だった。図星だったし、意味がわからないし。そういえばあっくんとは、中1のときに彼が母親と一緒に福山に変形の学生服を買いに行くのに呼ばれてついて行って、彼女にワンタックがいいのかツータックがいいのかと聞かれて、「タック」が何のことかわからなくて何も答えられなかったということがあった。あれはなんだったんだろう。

日記の続き#126

八月の30年——9歳

ふと思い出したことを書くのではなく、こうして年で区切って無理矢理思い出を引っ張り出すのは、暦が刻んだ魂の傷をわざわざなぞるようなものかもしれない。ともかく、団地の同級生、ヒロくんにはペルーからの移民の従兄弟がいて、なぜか彼が団地にやってくるたびに僕は彼と喧嘩をしていた。当時地元にはペルー人がちらほらいて、しばらくしてから中国人の女性をよく見かけるようになった。若い大人の女性が連れ立って自転車に乗っているとそれだけで目立つので、すぐに中国人だとわかる(そもそも「若い大人」が珍しいのだ)。最近はベトナムから来る人が多いらしい。僕の叔母は地元の工場——たしかコンビニ弁当とかのプラスチック容器を作る工場だ——で働いていて、よく職場の外国人と仲良くなって彼らの地元に呼ばれて遊びに行ったりしているひとで、数年前の正月に彼女からその話を聞いた。僕もペルーに呼ばれるくらいの仲になるべきだったのかもしれない。でも彼はとても乱暴で力が強くて、いちどなどアイアンクローの爪がおでこに刺さってかなりの深手を負ったこともあったし、いつも組み伏せられて終わっていた気がする。それにしても目を合わせるたびに喧嘩をしていたのは僕がレイシストだったからなのか、何か他の因縁があったのか、思い出せない。

日記の続き#125

八月の30年——8歳

けっきょく記憶をたぐりよせるのに年齢、西暦、学年に始まって、今回の8歳だったら3歳から習っていた水泳をやめてサッカーにシフトしたこととか、そういう大きいことから小さいことへ外堀から埋めていくのに頼りがちになってしまうことについて、どうなんだろうと思っている。まあ入る道と出る道は必ずしも同じでないわけで、入っていって見つけたものを「ライフステージ」に再回収することをやる気で——こればっかりはやる気に頼るしかない——避けていけばよいのだろう。それで8歳というと、たしか地元に井原線という小さな私鉄が開通した年で、それは井原市を東西に横断するだけの端から端までとくに何もない線で、僕も結局数えるほどしか乗ったことがないのだが、開通の式典に学校ごと呼ばれて「いっくん」という井原の「井」の字のゆるキャラが書かれた小さな旗を持たされた。その年かその次の年に何を思ったのか天皇と皇后が井原にやってきて、今度は日の丸の小旗をもたされて井原駅で行われた式典にまた学校ごと動員された。そのとき撮影された写真がどこかで売られていたのか、父方の祖父母の家の長押にふたりの写真が飾られていた(祖父母が死んで家は無人になったが、写真は今もあるはずだ)。居間を囲む長押には他にも、その家の周辺を空撮した写真(そんなものを撮って売るサービスがあるのだ)、天狗のお面と能面(子供の頃それが怖かった)、生まれたばかりの兄を描いた父の鉛筆画(彼は絵が得意だった)、そして神棚といった奇妙な取り合わせのものが並んでいた。天皇皇后の写真は奥の仏壇がある壁に掛けられていて、仏壇の横にはテレビがあった。正月に親戚が集まるといつもそのテレビで駅伝が流れていて(言うまでもなくお盆は甲子園だ)、僕は兄やひとおおり配膳を終えた母と末席のほうに座って何が面白いんだろうと思っていた。

日記の続き#124

八月の30年——7歳

小学2年の担任だったニシムラ先生は、僕が初めて会った日常的にサングラスをかけるひとだった。たいていピンクのジャンパーを着ていて、外に出るときは濃いサングラスをかけていた。目が弱いからということらしく、それが一緒になるきっかけだったという話だった気がするのだが、彼女の夫は小さい頃に片目を失明したらしい。何かあってクラス全体を叱っているときに彼女は突然その話を始めた。彼は小学生のとき、後ろの席のクラスメイトに小突かれて、折り悪く机の上に立てて遊んでいた鉛筆の先端が目に突き刺さってそのまま失明してしまったのだ。彼女は泣きながらその話をしていて、その教訓は「ふざけて友達を小突いてはいけない」そして「鉛筆を机の上に立ててはいけない」ということなのだが、子供ながらにその教訓の些末さと話のグロテスクさのギャップに戸惑った記憶がある。どうしてそんな悲痛な出来事からこんなしょうもない教訓が出てくるのかと。いや、もっと正確に言うと、当時の僕が面食らったのはおそらく、形ばかりの教訓を口実にそんな私的な話——惚気話でもある——を泣いてまですることの奇妙さだった。教師にはそういうところがある(たしか「スモーキング・エリア」の#4にもそんな話を書いた)。そしてこれも小2のときだったが、同じ団地に住む同級生のヒロくんが風邪か何かで高熱を出して、その結果片目の視力を失った。これも同じ団地のユウくんは意地悪なやつで、見えているほうの目を隠してこれで本当に見えないのかと言ってからかっていたので腹が立って殴った。ユウくんの親は今で言うヤンママ風のひとで、団地の3階に住んでいたのだが、家で叱られたらしい彼と妹と弟が全裸でベランダに放り出されているのをよく見た。

日記の続き#123

八月の30年——6歳

尾田栄一郎が今の僕の歳、つまり30歳になる頃に何を書いていたのかふと気になって調べてみると、それは2005年のことで、エニエスロビー篇を書いていたようだ。この歳でもうあそこまで作って広げられるのかと思うと同時に、その後のフランキー、ブルックの麦わらの一味への加入の心躍らなさや情報ばかり増えてキャラクターが白痴化していく展開を思うと暗い気持ちになる。6歳というとちょうど『ONE PIECE』の連載が始まった頃で、桜橋という車の通れない細長い橋で小田川を渡ったところにある、なんだかわからないが職員が常駐していておもちゃがたくさん置いてあって自由に出入りできる児童会館という施設の図書室で読んだのが最初だ。それからも自分で買って読むということはなかったが、高校までは友達の家で、阪大時代は終電を逃したりホテルを取らずに東京に出たときに泊まったネットカフェでそのつど最新刊まで追いつくということをしてきて、いつだったかKindle版を揃えた。キャラの造形がシンプルで見開きの扉絵がいつもお洒落だった初期はよかった。というか、たしか村上春樹に「駄目になった王国」という短編があったが、そういうものを眺めるときの独特のパセティックな感じ——と、この「駄目さ」にはなにか他人事でないものがある気がするという予感——がクセになっていまだに買い足しているんだと思う。それにしてもあの児童会館は結局どういう施設だったのか。何か催し物や講座が行われていたような記憶もないし、ほんとにただひたすら5時まで開いているおもちゃ箱だった。黒ひげ危機一発とかドンジャラとか、スーパーファミコンもあったし、パソコンもあって、友達に触ってみろと言われて触ると、画面がブラックアウトして悲鳴とともに真っ白い女性の顔が映し出されて腰が抜けるくらいびっくりした。入るときに名前と電話番号を、出るときにチェックマークを書かされたのを覚えている。

日記の続き#122

八月の30年——5歳

まだ5歳か、とも思うが、もう1997年かとも思う。研究領域に沿って言えば20世紀というひとつの大きなスパンがあって、その意味で21世紀はオマケのようなものなのだが、僕の半生から言えば反対に20世紀というのは純粋なモラトリアムのようなものだ。とはいえそこには何か固有の闘いがあったはずで、今となってはそれを思い出すことはできない。幼稚園で飼っていたハムスターはよくブロックの下敷きになって死んでいた。無謀にも幼稚園で飼われるハムスターほど憐れなものもないが、当時の僕がそのことについてどう感じていたのかはわからない。学芸会の演劇で白い綿のタイツを履かされたのがとても悲しかったのは覚えているが、それが何の役だったのかはわからない。たぶん当時もわかっていなかったのだろう。

日記の続き#121

八月の30年——4歳

幼稚園には団地の小学生と班になって一緒に歩いて通うことになる。小学校の隣に幼稚園があって、その「本町3班」という班で8年間同じ道を通っていた。考えてみれば半径3キロくらいの範囲にいる小学生・幼稚園生が同じ時間に班ごとに集まって列をなして登校・登園するしくみがあり、それがおそらく数十年にわたって維持されるというのはなかなか途方もないことだ。居住地区ごとに「班」で分けられて、学校では「組」で分けられ——組の名前は数字でなく「いろは」だった。学年2クラスしかなかったのでい組とろ組だけだったが——それがまた机の並びとかで「班」に分けられ、それぞれに飼育係とか連絡係とか特定の機能にも対応している。小学校にはもうひとつ赤・白・青・黄の「縦割り班」というものがあった。これは全学年をまたいだ集団で、掃除場所のローテーションや、運動会のチーム分けに使われる。それぞれの色がさらに6班に分かれていて、たとえば「赤1班」には各学年から数人ずつ所属し、6年生がリーダーとなり掃除や運動会の練習を指揮する。こうしてみると小学校というのはすでにかなり複雑な組織形態が縦横に交差した場であって、物心つくころにはすでにそういうもののなかにいるわけだ。いきおい小学校のことばかり書いてしまったが、幼稚園は年少は「きく組」で年長は「すみれ組」だった気がする。年少のときの担任の先生が、数年後に行った歯医者で受付をやっていた。

日記の続き#120

八月の30年——3歳

それにしても最も古い記憶が自転車に乗るのと文字を書く記憶だというのは、三つ子の魂百までというのはよく言ったもので、今でも乗り物は好きだし、文字はこの通り毎日書いているので、よくできたものだなと思う。しかし3歳の頃の記憶というともうひとつあって、こっちはどうにも収まりが悪い。父がジェミニという車——たまたまだが僕は双子座だ——をハイエースに乗り換えた頃の記憶で、ふたまわりほども大きくなった車体にうっすらと恐怖を感じていたのだが、その後ろを回って車に乗るときに、すでにエンジンがかかっているマフラーから出る熱風が足に当たってそこに激痛が走ったのだ。それからは排気をまたぐようにして歩いていた。振り返ってみればそれは風が当たると同時に足を挫くかなにかしただけなのだが、因果関係の錯誤による子供らしいマジカルな世界の構築に、痛みが関わっているというのはどういうことなのだろうか。大きい車の排気は痛い。たしかにその排気は僕がそれまで見知っていた排気とは異質な熱をもっていた。痛みはその異質さを認定させてくれるものとしてやってくる。一方でそもそも痛みなしに因果という概念は起動しえないとするなら、そして他方で、そうして立ち上がる因果がファンタスマティックな防護壁でもあるとするなら、痛みは合理と非合理の区別より先にある裸の推論のようなものの条件であるだろう。痛みと推論。それは人を因果から剥離させると同時に、因果を見出されるべきものにする。