【追記あり】布施琳太郎氏および美術手帖への抗議

【6月25日追記】
抗議文の投稿から1日経ち、 布施氏から訂正・謝罪をいただきました(リンク)。誠実な内容であると感じましたので、抗議はこの限りといたします。今後あらためてこのたびの議論のもともとの内容であった布施氏の作品・展示や私からの批判について、お互い批判しあう可能性を排除せずにフェアに議論する機会があれば私としても応じたいと考えております。
私自身、今回のことを通して、「議論」や「対話」といったそれ自体ニュートラルな響きをもった実践を可能にする互いの信頼に基づいた場は、非常に脆いものだということをあらためて意識させられました。今後も互いがフェアな、しかし馴れ合うことのない緊張感のある場として言論が機能することに私なりに寄与できればと思います。
【追記終わり】

6月2日にweb版美術手帖で公開された布施琳太郎氏の論考「最高速度で移動し、喘ぐキメラ──今日の芸術の置かれた状況について」において、私は自身の発言が不適切に引用されているとして、ツイッター上で布施氏に抗議をしました。布施氏はそれについて「文をしたため直します」と言ったのにもかかわらず、その後3週間経った今にいたってもいまだ訂正されておりません。自身の発言が明白な誤解を招く状態で引用されたままで放置されていることは私にとって大きな損失であり、このたびあらためてこのように抗議文を発表することにいたった次第です。

ツイッター上のやりとりについてはまとめを作成したのでそちらを参照していただきたいのですが、あらためて私なりに状況を整理しておきます。

布施氏がキュレーター・出展作家として関わった「惑星ザムザ」という展示を私が批判し、その批判的な文脈のなかで「メディア環境を内面化したキメラ」という文言を使用しました。上記の論考で布施氏は、当該の私のツイートへのリンクを貼るだけでその批判的な文脈に一切言及することなく、「キメラ」という言葉をタイトルに含め、本文でも繰り返し自身の態度を象徴する概念として用いています。前段のやりとりを知らないであろう大半の読者は、私が布施氏を肯定的に評価したのだと勘違いするでしょう。このような誤解はたとえば、「福尾はこの語を批判的な意味で用いたが、私はむしろそれを積極的に引き受けるべきだと考えた」といった簡単な補足がワンセンテンスあれば避けることができるものです。

引用の際には引用元の文脈をねじ曲げないように細心の注意をはらうべきだというのは、アカデミックな領域だけにかかわる話ではなく、恣意的な「切り抜き・切り取り」の問題が指摘されているジャーナリズムや文化全般にかかわる問題であり、それは、リンクが貼ってあるのだからそれを踏まない読者が悪いということには決してするべきではないと私は考えます。なぜなら、そのような態度が横行するとわれわれはあらゆる文章の引用元を読まなければ当の文章を信用できないという、全面的な不信に陥ってしまうからです。

あらゆる解釈は部分的な誤解を含んでいるという、それ自体論駁しようのない抽象的な意見はこのことの反論にはなりません。言葉は思い通りにならないということを、だから私の「間違い」は間違いではないという主張にスライドすることは、結局のところ言葉を自分の思い通りに使うことの自己正当化にしかならないからです。

われわれがあらゆる引用元をあたることなく文章を読むことができているのは、その文章に一定の信頼を置いているからです。この抗議の対象に美術手帖を含めることにしたのは、その信頼を構築することの責任は媒体にもあると考えたからです。布施氏はあくまでこれは自分の問題なのだとおっしゃっておられましたが、訂正が長引くほどに誤解する読者が増えていくわけで、そのことに対処する責任は媒体にもあると私は考えます。

以上が私の意見です。布施氏および美術手帖には早急な訂正を求めます。そしてこの抗議が、今後美術の世界でわれわれがお互いの言葉への信頼を高めていく一助となることを望みます。

日記の続き#78

「郵便的、宅配便的」というタイトルを思いついた。どういう内容なのかわからないままにタイトルだけ思いつくことがよくある。「理論の突き指」とか、「端末が「ターミナル」だった頃」とか。それはもちろん僕が考えていることと無関係ではないし、タイトルと一緒にある程度の方向性は浮かび上がるが、書いておかないと忘れるのでそのつど呟いたりするようにしている。最近で言えば「スパムとミームの対話篇」は依頼があって書き始める前にタイトルだけ思いついていて、そのお題に答えるようにして書いた。言葉遊びやパロディに圧縮されたものをどう具体的な文章として展開するかという、セルフ大喜利、あるいは自分の自由連想を自分で分析するみたいな感じで面白い。

それで、「郵便的、宅配便的」がどういう文章になりえるかというと、やはり郵便はポストに投函するものであり、宅配便は玄関先で手渡すものだという対立がまず思い浮かぶ。ポストとはデリダ的な「差延」の場、つまり現前的なコミュニケーションを毀損すると同時にそれなしには当のコミュニケーションが成立しない、不在の謂である。隔たっているからこそコミュニケーションが要請され、隔たっているからこそコミュニケーションは十全なものではありえない。それに対して宅配便は差延を許さない。チャイムを鳴らし、いなければ不在通知書をポストに入れて帰っていく。不在が不在としてマークされるのだ。郵便はいるかいないかということに頓着しないが、宅配便はいれば渡すし、いなければ私はそこにいました、しかしあなたはそこにいませんでしたと、不在を局在化させ、それ自体をコミュニケーションの明示的な要素にする。郵便的な不在はいつ・どこでなくなるかわからないという不確定性によって効果をもつが、宅配便的な不在は特定された不在として位置をもっている。

しかし、コロナ禍によってアマゾンやウーバーイーツが取り入れ、急速に一般化した「置き配」はこのうちいずれに分類すべきなのだろうか。一見それは受け取り手の在/不在に関与しない郵便的な仕組みに見えるが、アパートのドアのそばに置かれた荷物を見ると僕はいまだに不気味な感じがする。それはたんに、慣れ親しんだ宅配便的インフラが急に郵便的仕組みを取り入れたことからくる違和感なのだろうか。たしかにそういう部分もあるだろうが、それ以上のもの、つまり置き配的なものの固有性があるとしたらそれは何だろうか。

ひとつにはドアの外の床に箱が置かれているということからくる疎外感があると思う。投函でも手渡しでもなく、床に置かれている。印象としては、郵便的不在には自分がそこにいるかいないか不問にしてくれているという感じがあるのに対して、置き配的不在は自分がそこにいるかどうかはたんにどうでもよく、とにかく荷物を置いて帰っているという感じがある。逆に言えばこの「とにかく」の直接性を和らげるものとしてポストは機能するわけだ。郵便は受け取り手の在/不在をそれとなく不問に付すのに対して、置き配は受け取り手の在/不在以上にとにかく荷物を置いていくことが大事なんだとあからさまに示している。

ロジスティクスの全面化。あらゆるものが出発点、終着点、経路、荷物のアレンジメントの規格化・効率化に巻き込まれる(「コントラ・コンテナ」は大和田俊の個展の分析を通してそれに対する抵抗の可能性を探る文章だった)。私がいるのかいないのかということはそこにいささかも関与しない。郵便的なものの局所的な回復はありえるだろう。しかしコミュニケーションそのものがロジスティクスに置き換わってしまったような世界で、郵便というメタファーはあまりに危ういようにも思える。「コントラ・コンテナ」や「ポシブル、パサブル」の空間論はロジスティクスそのものから距離を取って空間を考えなおす文章だったのだろう。「いてもいなくてもよくなることについて」もそうだ。やはりたんに思いついたものでも掘ってみるといろいろ出てくる。(2021年11月28日

日記の続き#77

他人事ながら見かけるだけでちょっと暗澹たる気持ちになるのだけど、アマゾンで本のレビュー欄に配送状態についてのクレームが書かれているのはとても示唆的なことかもしれないと、今、京都からの帰りの新幹線で持ってきた本のページがふやけたようにうねっているのを見て思った。田んぼに水が張られて、京都からは修学旅行生が消えて、梅雨が来た。たしかに空気はじとっとして、僕もクセ毛のうねりに困っているが、だからといって届いたときから本のページまでうねっているのはおかしいんじゃないか。批評が機能しない、あるいはこれからはポスト・クリティークなのだという批評をめぐるネガティブな態度決定の手前に、作品についてのメタ言説がプラットフォーム批判にスライドしてしまう、アマゾンのレビュー欄のクレームから新聞広告のキャラ絵への批判やネット右翼本を置く書店への批判までを覆っている、この漠とした、しかしそれ自体実定的な現象について何か言うべきではないか。舞原駅に停車した。ひかりに乗って帰っていて、車両を独り占めしている。昨日は夏至だったらしい。どうりで日が長い。そういえば去年の日記のどこかに、アマゾンのレビューで一人称を「評者」にして書いているひとを見て、それってなかなか思いつくことじゃないという話をした。「評者」氏も配送状態クレーマーもそうだけど、そこがどこかなんて気にして書く人は僕が思っているよりずっと少ないんだろう。それは祝福すべきことのように思う。そういう言葉が転がっているのがインターネットのいいところだ。

日記の続き#76

ばらばらと買った本をばらばらと読んで、遅い昼寝から起きて、米を研いで炊飯器をセットして、この日記を書いている。今日は何を作ろうか。最近作ったもので言うと、こないだ作ったヒレカツは上手にできて、昨晩作ったパスタはちょっと凹むくらい失敗した。まあまあ料理はできると思っていたし、そのなかでもパスタは作り慣れているはずだったのだけど、小さな失敗が積み重なってぜんぜんおいしくなったのだ。彼女にパスタにしようと思うが何が入っていると嬉しいかと聞いて、スモークサーモンだと言うのでまいばすけっとでスモークサーモンとアボカドを買ってオイルのパスタにすることにした。最初の失敗は麺を茹でるお湯に塩を入れ忘れたことで、途中で気づいて具のほうに塩を入れて味を調節しようとしたのだけど、なんだかしょっぱさだけ浮いた感じになってしまった。アボカドは実が堅くて風味が浅かったし、作りながら入れることを思いついた舞茸はちょっとエグみが出ていたし、これはもう牛乳を入れてクリームパスタにするしかないなと思ったら賞味期限が切れていた。料理を失敗したときの独特のやるせなさには、生活のゲシュタルトが崩れ去っていくようなところがある。彼女はおいしいよと言って食べてくれたが、彼女にしたってちょっと失敗するとすぐもう捨てると言い出すので、そのたびに僕がなだめるのだ。ゴミに意味を与え合っていくことで張り合わされる生活、その破れをラカンは現実界(英語だとthe Real)と呼んだわけだけど、生活はその大仰な闖入の大仰さを笑い合うことも含み込んでもいる。それにしても今日は何を作ろうか。お米が炊ける匂いがする。

日記の続き#75

髪を切りに行く。3ヶ月以上切っていなくて、通りがかるガラス越しに見ると頭がもさっと膨らんでいる。ちょっとぶらぶらしようと早めに横浜駅に出たのに、着いた途端気持ちが失せて本屋で本を買って、はずれにあるドトールまで歩いて行って2時間ほど読んで美容院に行った。ひとしきり切ってシャンプー台に移るときにそういえばまた煙草値上がりしたみたいですねと言われ、喫煙席で燻されていたから匂いがついているのかもしれないと思った。通りに出ると路肩に右翼の街宣車が止まっていて、白い街宣車は珍しいなと思っていると聞いたことのないくらいの大音量で叫び始めた。他の音が吹き飛ばされて重さのない空間を歩いているような感じがする。「貴様ら」という二人称を使って北朝鮮に拉致被害者を返せ、ミサイルを撃つのをやめろと繰り返している。そうなるとこれは街宣ではなく呼びかけないし警告であるわけで、われわれはそれをたまたま聞いている第三者だということになる。横浜駅に戻ると拡声器に旭日旗のステッカーを貼った、こんどは黒い右翼の夫婦とすれ違った。男は黒いTシャツにチェックのシャツを腰に巻いて、雨ざらしになったボール紙みたいな合皮の編み上げブーツを履いている。この黒右翼はさっきの白右翼と関係あるんだろうか、しかしどうにも釣り合わなさそうだ。この黒右翼に横浜の路肩から日本海の向こう側に向かって叫ぶ狂気があるとは思えない。高島屋の脇にある喫煙所で煙草を吸って帰った。(2021年10月9日

日記の続き#74

6月19日。昼に起きて配信でTHE MATCHを見た。前半の試合が終わった頃に出かけていた彼女がビリヤニを買って帰ってきてくれて一緒に食べた。最後の那須川天心があまりに強かったので、それまでの試合の幻想が吹き飛び、彼がいなくなってしまったキックボクシングは本当に焼け野原になるんだろうなと思った。それにしても彼と武尊がこのリングで3分3ラウンドふたりきりになるためにこれまでどれだけのものを積み上げてきたのかと考えると、本当にすごいことだと思う。ふたりになるというのはこれだけ大変なことなのだ。対話でも議論でも闘争でも批判でもポジショントークでもなんでもいいが、そういうもので何かしらの関係や地位を作れると思っている人らに、あのふたりが6年間、それぞれが約40試合負け無しで闘い続けて初めてやっとリングで向かい合うことができているという事実を、あなたがたはどう考えるのかと聞きたくなるようなよくわからない怒りがこみ上げてきた。同時に、この試合が実現したという事実は、単純にルールや制度に乗っかったのではないところで自力で、それぞれがあらゆるものを動員して、フェアな関係を作ることができるということをあらゆる関係の非対称性が言われるこの時代に示しているわけで、それはどこまでも素直に尊敬するべきことだと思った。

日記の続き#73

名前を書こうとして「ふくおた」を打ったら「ビリヤニ」と変換されて、そのことについてツイートしようと「ビリヤニ」と打ったら今度は「表象文化論」と変換された。前々からMacの入力ソフトが変な学習をしていることは気になっていて、ここはひとつと思ってジャストシステムのATOKをインストールしてみた。入力ソフトを変えるのは初めてだ。ライブ変換じゃなくなったし、変換候補のウィンドウのデザインが違うし、確定しようとして改行してしまったりでまだ強い違和感があるが、慣れるまでしばらく使ってみよう。去年読んだトーマス・マラニーの『チャイニーズ・タイプライター』が面白くてそれから梅棹忠夫の『日本語と事務革命』や武田徹の『メディアとしてのワープロ』を読んだりした。QWERTYキーボードでローマ字入力し、それを漢字仮名交じり文に変換するという、考えてみればとても奇妙な書記システムにわれわれは適応してしまっているわけで(その意味でフリック入力は重要な抵抗行為だ)、これはなんなのかと気になったからだ。武田の本には最初のATOKの開発者のインタビューが収録されていて、当時は変換用の辞書を一から人力で作っていたらしい。それがフロッピーになって、ワープロに挿していたわけだ。その歴史に敬意を込めて今回はATOKにしてみた。ローマ字入力とフリック入力の次に来るものはなんだろうか。いまのところ音声入力技術の発達が期待されているのかもしれないが、もはや「入力」すらしなくなるかもしれないなとも思う。

日記の続き#72

ドトールの喫煙ブースに入ると、もう腕落としちゃうしかないんじゃない、でもあいつ腕落としたら脚落とすタイプかもという声が聞こえてギョッとして、あまりそちらを見ないように煙草に火をつけた。台に肘を置いて向き直るように視野の端で声の主を見ると、金髪にフェイクファーの黒いパーカーを着た女性が壁に背をもたせかけてしゃがんで電話していた。真っ白の厚底スニーカーから鋭角に飛び出した日焼けした膝が黄ばんだ照明を受けて光っている。いずれも誇張されたシルエットの黒と白で挟んで、脚を細長く見せるためだけに選ばれたような格好だ。服を着ていない部分を見せるために服を選ぶというのは僕にとっては尋常ではない感じがした。まさか本当に腕を切り落とす話をしているとも思えないが——たぶんリストカットをやめられない知人の話でもしているんだろう——とはいえ水商売とかですらなさそうな非カタギ的な服装だし、なんだってここらの喫煙ブースはそういうろくでもない話をしているやつばかりなんだと思った。こないだはコメダに詐欺にあった「社長」と彼をなだめているんだかからかっているんだかわからない「マネージャー」がいたし、いつかはこのドトールであいつも殺人教唆で7年くらったからなあと、高校の部活仲間を思い出すみたいに話しているおじさんがいた。時代の闇の象徴とされるような突発的な暴力とは違う、分厚い歴史のなかで醸成される悪や暴力もある。そういうもののほうが僕にとっては異質に感じられる。喫煙席から喫煙ブースへの移行にともなってその密度が増しているのだ。人を馬鹿にしたような小ささのセリーヌのバッグを提げてその女性が出て行った。(2021年11月6日

日記の続き#71

6月15日午後9時。京都から横浜に戻る新幹線車内。非常勤先で6つの研究発表を聴き、5つに質問・コメントをして脳が疲れた。と言ったものの、僕は脳が疲れるということにはなかば懐疑的で、耳と側頭部と胸骨・胸郭を掌底でぐりぐりと骨から皮膚を引き剥がすようにマッサージするとそれだけでかなりスッキリする。でもこのスッキリもシャキッとするということではなく無意識の強張りがほどけてリラックスするという感じで眠くもなるので、やはり脳が疲れているのかもしれない。脳に疲労が存在するとして、それは筋疲労とどう違うのだろうか。脳と言えば、僕は物心がつくと同時にその柔らかい頭に「脳がスポンジ状になる」という狂牛病問題の報道が飛び込んできたトラウマを抱えた世代の人間だ。

というところまで書いてやめて、帰って寝て起きて翌日の午後3時。珈琲館。なんで狂牛病の話なんかしようとしていたのか思い出せないが、ともかく僕が8歳くらいから中学くらいまで、つまり2000年から2008年くらいまでの時期は、やたら食品関連の事故や不祥事のニュースが多かった気がする。狂牛病、段ボール餃子、不二家、雪印、ミートホープ、船場吉兆、生レバーの販売禁止。大人になるともう世界には不味いものがなくなっていた。こないだセブンイレブンでパテ・ド・カンパーニュのバゲットサンドが350円で売られていて驚愕した。パテとピクルスと粒マスタードだけの、それぞれの角を取って媚びるようなソースもない素朴でおいしいサンドイッチだ。こういうのは僕が子供の頃、小林聡美が主演する恐ろしく退屈な映画でしか見たことがなかった。それにしてもあの『かもめ食堂』に始まる一連の退屈な映画はなんだったのか。あの退屈はなんだったのか。観光地で帆布のバッグを買うおばさんの退屈だ。食品偽造と『かもめ食堂』的な退屈とスポンジ状の脳のゼロ年代。僕のなかでそれらはずっとわだかまっている。

日記の続き#70

引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるのだ。あるコラムが「フェミ系」の人に向けての揶揄であるということで誌面の写真がツイッターで拡散され批判されていた。その内容と同じくらいどの雑誌のものかも言わず誌面の写真を貼ることが引っかかる。引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるけど、ツイッターは素材の投下とそれへの反応のセットが怖いくらい効率化されていて、制裁を加えてよい引っかかりももう写真やハッシュタグや語彙のレベルで圧縮されてパターン化されている。でも文章なんてもともと引っかかりの塊だ。他人の書いたものを400字読めば絶対自分はこういう言い方はしない・できないという箇所が出てくるだろう。それは潜在的、一次的には不快だが、憧れに転ぶこともあるし、怒りに転ぶこともある。引っかかりには書き手と自分の体の距離が表れていて、表面化した感情にはすでに第三者からの目線が入り込んでいる。サッカー選手が大袈裟に転んで見せるように。それは「シミュレーション」と呼ばれる。ぜんぶが審判へのパフォーマンスになるとゲームは崩壊する。問題は一方でコンタクトの技術が蒸発すること、そして他方で、世界に審判などいないということだ。逆に言えば引っかかりへの解像度を上げることと、自分がいったい誰を・何を審判だと思っているのかと考えることはいつもセットであるということだ。(2021年6月13日