12月21日

互いに排他的であるということと、両者が共存できるということは両立する。なぜか。世界は広いから。そういう誰でも知っている単純なことが置き去りにされがちな時代だと思う。ちょうど昨日はデカルトの延長概念について書いたが、これもそういう排他的共存の話でもある。『〈情弱〉の社会学』という本をざっと読んで、タイトルから期待していたものとは違ってちょっと残念だった。どうしてわれわれの情報環境は世界を狭く感じさせるのかということが書いてあるのだと思ったら、そういうことでもなかった。SNSを見ていて、YouTubeを見ていて、世界が頭のなかでぎゅーっと狭くなるような感覚、そうした感覚へのアディクションの解析と処方箋があればいいのだけど。しかし「ウチはウチ」なき「ヨソはヨソ」はありえるのだろうか。ツイッターで「あっち行け」とは言えない。いまどこで「あっち行け」と言えるのか。

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12月20日

まとまりのない一日だった。夕方に早めにお風呂に入って、晩ご飯を食べると眠くなって布団に入って、起きると夜中の1時くらいでそれから翻訳を進めたり『存在と時間』を読んだりした。4時ごろに黒嵜さんから起きていたらちょっと話そうと連絡があって、結局朝11時くらいまで喋っていた。ハイデガーはデカルトの世界概念を批判的に検討していて、デカルトが物体的なものの本質を延長とする議論が取り上げられていた。デカルトはもし物体が、それに私が手を伸ばすのと同じ速度で私から離れていくなら、私はその物体の固さを感じないが、だからといってそれでその物体が存在しないとは考えないだろうと言った。固さと同様に色や形や運動(いわゆる「二次性質」)はそれらを物体から取り去っても物体の存在は消えないが、延長のない物体はありえないと。この結論やハイデガーの批判はともかく、私の運動とあまりに一致しているので感知されない物体の固さというイメージによって、ふだん明白に区別されている固さと運動が頭のなかで識別不可能になり、この混乱からの防衛反応として延長が持ち出されているように思えて、それがとても面白かった。思いのほか重たいものが地面に釘付けされているように感じたり、思いのほか柔らかいものが手から逃げたように感じるときの、一瞬の認識のバグ。延長は運動でも形でも固さでもないのではなく、運動だと思ったら柔らかさだった、というときの「と思ったら」を埋めるパテのようなものなのかもしれない。

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12月19日

三角形のコーヒーフィルターを使っているのだが、コンビニやスーパーには台形のものしか売っておらず、アマゾンで注文した。それが三日前の話で、荷物がどこかで行方不明になったのか、配送状況を確認すると近所の集配所に来たところから丸二日動きがなかった。諦めてキャンセルして、その場しのぎにモンカフェを飲んでいる。いろいろあるけど手軽に買えるドリップバッグ付きのコーヒーはモンカフェが結局いちばんおいしいと思う。でも冷めて酸化すると香りが変わって、何かに似ていると思ったらサッポロポテトの匂いで、それからはモンカフェにサッポロポテトを探すようになってしまった。鍋を作ろうと思って冷蔵庫から豆腐を出すと、賞味期限が年明けで、いよいよ年末なんだと思った。

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12月18日

キンドルのライブラリーを見ていたら大昔に買ったフロイトの『精神分析入門』があって、読み返している。それぞれの講義が「みなさん!」という呼びかけから始まっているのがいい。前半ではまず言い間違いが、次に夢が取り上げられる。いずれにも共通するのは、その原因が生理学的なものであるにせよ、そのつど言い間違いが「この」言い間違いとして、夢が「この」夢として現れることは純粋に心理学的に考えるべきだということだ。加えて、言い間違いは言うべきことを言う意図とそれを妨げる意図とのぶつかり合いであり、夢は昼の意識に対する夜の意識の復讐であり、つまり、ふたつのトピックはともに、(1)生理的な動因をもちつつもその内実を捉えるためには心理的な機序の解明がなされるべきものであり、(2)ふたつの心理的な傾向の存在が両者の葛藤を通して示唆されるものである。生理と心理の分離と、心理のうちでの意識と無意識の分離。なされていることの大きさと、そのつど最大限——結局のところそれ自体心理的な——反発に譲歩しながら説き起こす態度の慎ましさのギャップに心を打たれる。僕はいつも概念、とくに対立するふたつの概念を前提してから話をすることが多いので、初手からのるかそるかになってしまいがちだ。僕も「みなさん!」と言って始めるべきなのかもしれない。

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12月17日

家にいるときは日が暮れるにしたがって体が冷えてくる。それは気温とはあまり関係がなく、体が今日は出かけたりしないんだと知って勝手にギアを落とすような感じで、そこで昼寝をするのが気持ちいいのだが、また朝まで起きているのも嫌なので寝るわけにもいかず、なるべく厚着をして起きていた。こないだ筑前煮を作ったときに余った野菜で豚汁を作って、鯖を焼いて晩ご飯にした。ご飯を食べると汗が出るくらい急に温まって、それと一緒に服の下で体がどうにもこわばっているのに気がついた。羽織っていたダウンベストを脱いで、体を反ったり捻ったりして胸郭をストレッチをして、手をグーにしてあばら骨に張り付いた筋肉をほぐしたり、指をなるべく深くお腹に食い込ませてマッサージしたりしたら、外から帰ってきてコートを脱いで部屋着に着替えたみたいに楽になった。もとから部屋着だったのだが。マッサージといえば体の背面ばかりしがちだがあばらマッサージは簡単でおすすめ。胸の真ん中を走る胸骨の両脇や鎖骨の下、体側をグーでぐりぐりと押して皮膚を動かす。とくに寒がりの人は無意識の緊張が取れて、部屋着に着替えたみたいに楽になるかもしれない。

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12月16日

新宿に行って八木くんと私家版の打ち合わせをする。湘南新宿ラインから見える景色は春のようだった。いまだに新宿の駅と周囲のランドマークの位置関係がよくわからない。どこから出ても知っているものがある。でもそれがどこなのかはわからない。打ち合わせは順調で、八木くんが印刷所の人とも製本所の人ともしっかり話しながら進めてくれているので安心感がある。彼らもこんな本は初めてだと楽しみにしてくれているらしい。別れて伊勢丹で彼女のプレゼントを探してみたがピンと来なかった。久しぶりにギャルソンのレディースを触ってみたが、なんだか出来の良さばかり目についてしまって、もう中年の服なんだろうなと思った。毛先を緑に染めた店員の話し方まで親切な枕屋みたいだ。ひょっとして僕が親切な枕屋モードで話すべき客だと判断されたのかもしれない。伊勢丹の服売り場は、特別に内装を施されたブースのブランドと、名札のついたハンガーラックだけのブランドに分けられている。子供が互いに指を差して誰かに——誰に?——言い訳しあっているような空間だ。地下鉄で馬喰横山まで行ってαMで高橋大輔の個展を見て、表参道でいくつか路面店を回ってプレゼントを買って帰って、袋のままクローゼットにしまった。

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12月15日

気分がどんよりしていたのだがそのことについて日記を書いて、いくぶんすっきりした。日記が嫌になっていたのも、それについて書いて多少すっきりしたのも本当のことで、世話がないというか、日々のあちこちにそういう世話のない両立があるということが日記の条件なのかもしれない。珈琲館で作業して、煙草に火をつけて外を見ると、ひとしきり泣いたあとみたいに、鼻の奥がツンとして眼圧が下がり、頭のうしろがすっとしたような感覚があった。いつから泣いていないんだろうと思った。

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12月14日

夜に、また寝て起きたら日記を書くのかと思うと暗い気持ちになった。決まった内容があるわけでもない、とうぜんお金にもならない、1年と決めていなければおよそ続かなかった、しかし逆に言えば続いているのはそう決めたからということにすぎない、この日記が、ほとんど自罰とか自傷とかなのではないかと思えてきてしまう。私家版の刊行だって、これだけ書いて赤字で終わることをどこかで望んでいるんじゃないかという気がして怖い。セルフケアと自傷は紙一重だと思う。先日ネットの記事で、整体の祖である野口晴哉があるとき夜尿症の子供に手を当てて治療をしたらそれ以降その子供に盗癖が出るようになって、治療とは何かと悩んだという話を読んだ。精神分析家が舌舐めずりするのが聞こえてくるような話だ。僕はその子供のことがわかるような気がした。優雅な生活は最高の復讐であるという言葉があるが、なんということのない、それは生活への憎悪からの子供じみた敗走であり、憎悪のほうはそのスピードを燃料にしているのだ。

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12月13日

洗濯を回して、干しっぱなしになっていたものを畳んで、また干して、部屋を片付けているともう夕方だった。普段作らない煮物を作ってみようと思って、YouTubeで野永喜三夫の筑前煮のレシピ動画を見て、スーパーに行った。人参、里芋、筍、蓮根、牛蒡、鶏。絹さやはいらないだろう。レジでお金を払って袋詰めの島に行くと、会社員ふうの男が大きな指輪をしているのが目についた。右手の中指に、大きな菱形の台座に「13」と書かれたシルバーの指輪を嵌めている。まさか日にちに合わせているわけでもないだろうし、落ち着いた服装とオカルティックな数字のギャップに戸惑いながら家に帰った。

煮物を作るのにはとても時間がかかる。かかりきりでないと作れないわけでもないが、なんだか家事ばかりして一日が終わったようだった。野永シェフのレシピでは、3倍濃縮の麺つゆを10倍に薄めた出汁をフライパンに入れて、火にかける前に切った端から具材を入れて、冷たいところから火を入れていく。初めて煮物をちゃんと作って、「煮含める」というのがどういうことなのかなんとなくわかった。たとえば人参のエッジが残っていることとか、牛蒡の香りがしっかり閉じ込められていることとか、具材の固体性を保ったまま一方的に出汁を染み込ませることが大事なんだと思う。エントロピーのなすに任せる西洋的なスープとか、あるいはおでんとかモツ煮とかともぜんぜん考え方が違う。「煮る」が「炒る」になってしまう直前のところ、植物的に静かな料理。

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12月12日

数日前座談会に参加してほしいという依頼があって、しかも週明けにはもう収録だという話だったが、今年の現代美術の動向を振り返るという企画で、そういう状況論的な話題で呼ばれることってこれまでなかったなと思い引き受けることにした。とはいえ喋り仕事はとうぶんやっていないし、ふだんそういう真面目な話をすることもないので、リハビリ兼ブレストにと思って昨夜ツイキャスで1時間半ほど喋ってみた。朝それを聞き返しながらメモを取ってアイデアを整理して、あとは別の原稿を進めた。

YouTubeを回遊していると、コメント欄で文末に(伝われ)とか(語彙力)とか書かれているのが目についた。ここ最近よく見るようになった表現だと思う。恥も外聞もない。というか、恥も外聞もなさを、わかってやってますよと先取りせざるをえない、それ自体恥ずかしい挫折にこそ共感を求めているみたいだ。というか、そうした屈託としてしか自分の内面の存在を確保できないのかもしれない。文面を超えたものが私のうちにある、しかしそれは文面を貶めてみせることでしか仄めかすことができない、みんなもそうでしょう、と。気の利いたことを言えたら蒸発してしまうような内面にどんな意味があるんだろう。僕は単純に文字数の問題だと思う。2万字書いて最後に(伝われ)と書く人はいないだろうから。そうなったら意味が内面にあるか文面にあるかなんて誰も気にしない。でも彼らが求めているのはそういうことではないんだろう。コメントじゃなくても握力計とか血圧計とかでいいのだ。それでも(握力)とか言うのだろうが。

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