日記の続き#117

八月の30年——0歳

とうぜん当時の記憶はなく、物的証拠も写真(あとへその緒?)くらいなので主に周辺情報を書くことになる。1992年6月4日、岡山県井原市井原町の井原市民病院で生まれて、そこから国道313号線をまたいで向かいにある県営住宅に住む。生まれた場所と家の近さ、「井原(いばら)」という地名の連打にすでに表れているように——幼稚園は井原幼稚園で、小学校は井原小学校で、中学校は井原中学校だ——僕は非常にコンパクトな環境で子供時代を過ごすことになる。中国地方を南北に貫く313号線と、それに沿って近づいたり離れたりする小田川だけがそうした環境の外と通じ合っているかのようだ。ドゥルーズ゠ガタリならそれを「脱領土化の線」と呼ぶだろう。これは次のように図式化して構わない。まず313号線という経線があり、そこから東へ200メートルほどのところに小田川というもう一本の経線があり、それが環境の横幅を規定しており、国道にへばりつく団地の位置に対応する緯線に始まって縦幅が徐々に拡張される。これが大局的に見たときの僕の成長に対応した環境の拡張プロセスであり、その時々の頭のなかの地図もおおよそこのようなものであった。国道の西と小田川の東は山になっていて、なおさら縦長の帯の上を上下するイメージが定着したのだろう。313号線の最南端でぶつかり瀬戸内海沿いを東西に走る国道2号線の存在が自覚されるまで世界の横幅は決まっていた。たとえ「環境」の外に出て実際には倉敷やら福山やらに行っていても、それはあくまで縦方向の遠さとして感じられる。「環境」より遠くはレーシングゲームの主観映像のようにただこちらにやってきて脇をすり抜けていく。