日記の続き#54

日記についての理論的考察§10各回一覧
そう、テクストをプレーンに受け取ってもらうための鍵は信頼だ。こう言うとすごく当たり前の話に聞こえる。もうちょっと経済学的な言葉で「信用」と言ってもいい。ビリーフとクレジット。毎日書かれ、毎日投稿されるという信用がテクストを実体的——「実体経済」というときの「実体」と類比的な意味で——なものにする。ツイッターに溢れている、どんどん戦線が小さく小さくなっていくなかで加速するポジショントークは、メタレベルでの張り合いが通用する場としてのフィルターバブルと循環的に互いを強化する関係にある。フィルターバブルは言葉の価値の「バブル」を産むのだ。経済学的なバブルと違うのは小さくなるほど変動性が上がるということだろう。
しかし、つぶさに見てみると、ツイッターで起こる社会的・文化的な話の炎上は、たとえば芸能人の失言や失態に対して明示的な悪口が集中する炎上とは規模も質もぜんぜん違うように思える。インテリの縄張り争いは——インテリも亜インテリも変わらないと思う——メタな読みとプレーンな読みをそれぞれが自在にスイッチして、文字通りに読めばそんなこと言っていないとか、文脈や書き手の属性に照らしてこれはこう言っていることになるとか、字義性/解釈のメタ解釈のレベルでの闘争が起こっている。しかもそれは実のところ直接的な対決ですらなく、スクショを貼って嫌味を言うという形式が一般化していることに表れているように、あくまで言った/言われたを自陣に向けてアピールするためになされる。字義性という盾と解釈という矛。逆のほうがまだ知的じゃないか。

日記の続き#49

日記についての理論的考察§9各回一覧
昨日の続きで〈メタテクスト/プレーンテクスト〉について。一般的に言って、ある文がメタに機能するかプレーンに機能するかというのは文脈による。しかし、多少ややこしい話になるが、文脈によってメタとプレーンを割り振れるという発想自体が、文章に対してメタな視点に立つ物言いである。つまりメタテクストとは己をプレーンテクストから切り離す垂直的な運動に宿ると考えたほうがおそらく正確で、たとえば、タイトルと本文の分割とか、章立てと本文の分割とか、段落中の「キーセンテンス」と「サポートセンテンス」の分割とか、そういうアカデミック・ライティング的なカスケード構造はそうした垂直性の典型だ。日記にはそういう垂直性に抗う側面があると思う。というのも、形式的にメタであるところのタイトルが血も涙もないただの日付で、これがメタが高層化することをブロックするからだ。日付を書いてしまえば、本文で記述的になろうが分析的になろうが内省的になろうが思弁的になろうが扇動的になろうが、それをその日のそういう私としてプレーンに受け取ってもらえる(気がする)。これはべつにマジカルな話ではなく、たんに私が書きつける日付に、このひとは昨日も書いたし明日も書くだろうというヒューム的で投機的な信用が宿っているからだと思う。

日記の続き#48

日記についての理論的考察§8各回一覧
イベントレスネス/イベントフルネスの話はいったん区切りがついたことにして仕切りなおし。イベントレスネスが日記の内容面での具体的な条件(カントにとって超越論的なものはそこから論理的に演繹される可能な経験の条件で、ドゥルーズにとってそれは論理的なオプションの格子を食い破る実在的な経験の条件として捉えなおされるべきものであった。この違いはちょうど、イベントフルな日記の抽象性とイベントレスな日記の具体性に対応する)だとすれば、それに対応する形式面の条件はプレーンテクストだと思う。僕はこの言葉をメタテクストとの対比で使っている。情報理論の用語で「メタデータ」とは文字や画像のデータがいつどこで誰によって作られたものか記されたものを指すが、これを敷衍して、あったことや思ったことを書いたものをプレーンテクスト、それを書く意味や外在的な状況を記したものをメタテクストと呼んでいる。これは相対的な概念で、たとえば本のタイトルは本文に対するメタテクストだが、本の本文のうちにも主題を宣言したりその意義を説明するメタテクスト的なものが含まれる。実体としては底も天井もないが、メタに向かうかプレーンに向かうかという傾向はある程度腑分けすることができる。長くなりそうなのでまた次回。

日記の続き#43

日記についての理論的考察§7 (各回一覧
ドゥルーズは90年代初頭の段階で「イベント=出来事」が完全に商業的な領域に飲み込まれてしまったことを嘆いていた。モノ消費からコト消費へとよく言われるけど、30年前からそういう傾向に対して警戒していたわけだ。ドゥルーズ初期の『意味の論理学』は物体的な因果性をはみ出す出来事の存在論を体系化した本だったけど、そういう非物体的な次元はその後20年ほどで「付加価値」に置き換わってしまった。もちろん彼はそれでもうイベントなんて言ってたってダメだと言ったわけでなく、むしろイベントの商品化に抗うような出来事論を組み立てていった。これと似たような道筋を辿ったのが「コンセプト=概念」で、ドゥルーズはこれについても、概念は哲学が創作するものであるはずなのに商品の気の利いた惹句になってしまったと述べている。老境の彼は自分が長年取り組んできたものが資本の運動に簒奪されていく寂しさを感じていたのだろう。そういうのってどういう気持ちなんだろうか。哲学ってコンサルに使われてるんですよなんてとてもじゃないけど彼には言えない。僕なりの応答として、出来事が体験であり概念が広告であることがほとんど所与になった世界で、そういう世界が作った通路の吹き溜まりにイベントレスな日々を、コンセプトレスな散文で書いている。

日記の続き#40

日記についての理論的考察§6 (前回まで
ここ3回くらい「イベントレスネス」の話をしようとその入り口を探して周囲をぐるぐるしているような気がする。これは論文っぽい文章でもそうだが、たいてい外堀から埋めようとすると難しくなってしまうのだ。ひとっ飛びに真ん中に降り立ってどっちに歩くか考えたほうが結果的にスムーズに書ける。あなたはつねにすでに森の中にいて、それをまずは外から眺めてみようというのはある意味で傲慢なことだ。日記も同じで……と言い始めるとまた話が逸れてしまうので本題に入ろう。そもそもイベントレスネスという言葉を作ったのは、イベントへの衝迫のなかで日記を書いているとどんどんキツくなるのに対して、今日は何もなかったなあという日に限っていい日記が書けたりするという経験があったからだ。ここで「いい日記」というのは、それを書こうと思った瞬間にすべてが解決するような、スナップ写真的なよさのことだ。日々はスタジオではないので、照明を動かしたり背景を変えたり、モデルの周りをぐるぐると歩き回ったりはできない。写真と違うのは日記は思い出しながら書くということだが、その観点から言うといい日記を呼ぶイベントレスネス——イベントが「少ない」ということに加えてイベントが「小さい」という意味をもたせることにしよう。今思いついたのだが——とは、明日には忘れてしまいそうなことを書くということを含んでいると思う。まずはエディタを開いて、今日は何にもなかったなあと言ってみてほしい。

日記の続き#33

日記についての理論的考察§5
「友達と遊んだ」といったいかにもイベントめいたものはかえって書くのが難しいという話、それを順序立てて書くより周縁的な小さなことを書いたほうがかえって何かが保存されるという話をした。この二重の「かえって」に含まれている逆説についてもう少し考えよう。書くべきことはあるのにそれにどう手をつけたらいいかわからない、あるいは、どう書いてもそのイベントの楽しさなり嬉しさなりが伝わらない感じがする、というのは文章力の問題ではない。むしろ「文章力」というものへの過剰な期待が書く手をスタックさせていると考えたほうがいいだろう。僕もこれだけ毎日文章を書いているとたまに文章が上手いよねと言ってもらえることがあるのだけど、挿入句がちょっと多いくらいでおおよそ平凡な文を書いていると思うし、それが上手く見えるのは、そういう人が抱えている「文章力」に対する屈託が僕には少ないからだと思う。要するにこれはナルシシズムの問題なのだ。どこかで腰が引けていたら似合う服も似合わないのと一緒で、文章力を上げるために努力をすることは逆効果だとさえ思う。この形式面での屈託は内容面の屈託と背中合わせになっている。つまり、あるイベントの輪郭がまずあって、それを埋めるように書きたい、でも文章力がないから書けないという循環に嵌ってしまっている。でもイベントにはあらかじめ輪郭なんてないのだ。ハッシュタグやアットマークが与えてくれる流通可能な輪郭に文章を従属させる理由なんてぜんぜんない。書くことで生まれる輪郭のうちに本当のイベントはある。でもそれはそれである種の切なさをともなっているとも思う。

日記の続き#30

日記についての理論的考察§4
飛び飛びで書いているのでどうしても話が冗長になってしまうのだが、ふだんの文章では僕はむしろ冗長性を確保するのが苦手なのでかえってこれでいいのかもしれない。ということで前回の途中の話に戻るのだが、「イベント」めいたものとして友達と遊ぶことと映画を見に行くことを例に挙げた。こうしたことを日記に書くのが難しいのは、あらかじめイベントとしての輪郭が与えられていて、それ塗り絵のように埋めなくてはならないと思ってしまうからだろう。でも友達と遊んで楽しかったということは、こんなことがあってこんな話をしてということを書くより、たとえば帰りに携帯灰皿を見ると一本だけ友達のフィルターがそこに混ざっていたとか、そういう非本質的な小さなことを書くほうがいい気がする。詳しく書くほど毀損されてしまうようなタイプの出来事はあって、ある種のシネクドキに託すほうがかえって何かが保存されるということがある。難しいのはそれをもったいないと思う気持ちをいかに振り切るかということなのだけど、そこでもったいないと思ってしまうことがすでに、友達と遊ぶということをいいねがもらえそうな流通可能な「イベント」として捉えてしまっているのだという自己チェック能力を働かせるよりほかないとも思う。でも他方でそこまでメタ認知を働かせずとも、より坦懐に今日の何が私の心を震わせたのか、記憶に引っかかったのかと問いさえすれば、勝手にそういう便利な小さいものが出てくると思う。それが難しいのだと言われればそうかもしれないけど、それに勝てなくても日記は日記なのでいいと思う。そればっかりだと楽しくなくなってきちゃうよねという話。

日記の続き#28

日記についての理論的考察§3
(*各回を以下のタグから一覧できるようにしました)
イベントフルネスという罠が、日記と日々のウロボロス的な循環にわれわれを閉じ込める。これは極論に始まる抽象的な推論の帰結でもあるが、とてもプラクティカルな話でもあると思う。たとえば友達と遊んだとか映画を見に行ったとか、そういう「イベント」めいたものがある日ほど日記を書くのが難しい。というのもそういうとき否応もなく、そういうイベントのある私を見せたいという自意識(への猜疑)がくっついてきて、詳しく書くほどに実際起こったことを毀損しているような気がしてしまうからだ。あるいはそれらしいことがなくても、起きて朝食を食べてどこに行って帰ってきて何をしてというふうに、1日を小さなイベントの連続としてまんべんなく書くことは、困難ではないにしても端的につまらない。アテンションエコノミー的な自意識も罠だし、自分を機械的にイベントフルな日々に還元したいという苦味走ったセルフ・ディシプリンも罠だ。日記に固有の可能性はインスタグラムや日誌とは別のところにある。それを「イベントレスネス」と呼ぼう。和風の味付けで「寂び」とか言ってもいいのかもしれないが、もっとだらしないこと、ありていに言えば暇だということなのでイベントレスネスがちょうどいいと思う。

日記の続き#26

日記についての理論的考察§2
ふたつの極限的なケースのいずれにおいても、書き手は日々と日記の循環関係に囚われてしまっている。たしかフリオ・コルタサルの短編に、男が部屋で小説を読んでいてそのなかで殺人鬼が部屋に侵入し、椅子に座っている男を後ろから刺すとそれはその小説を読んでいる当人だったという話があったが、この読書を執筆に入れ替えたような循環が日記には避け難くくっついてくる。ラカンは主体の構造を〈数えるものが数えられるもののなかに含まれること〉と説明した。その限りで日々のなかで日々について書く日記は主体化の実践だ。
もちろんわれわれは日記を書くためだけに日々にイベントを詰め込んだり、日記の執筆に1日を費やしたりということはなかなかしない。あくまでこの話はそういう空転から無関係でいられない——それはSNSでも同じことだろう——という感じを分析するために持ち出した極論だ。この「感じ」を分極してみてわかるのは、ひとつにはこれまで述べたような循環構造がそこにあること、そしてもうひとつは、そうした循環が「イベントフル」な状態への衝迫によって形作られていることだ。ここでようやくもとの話に戻れるのだが、毎日書くということは、「イベントフルネス」への希求を強制的に断念させされるということでもある。(次回へ続く)

日記の続き#25

雨。しばらく前に暑い日が続いたとき、彼女が冬服をしまっていてまた寒くなるよと言ったのだが聞かず、結局また冬の部屋着を出して着ている。

日記についての理論的考察
ひとくちに日記と言ってもそのかたちは様々なので、ここでは僕が書いてきた日記が従っている(1)毎日書く(2)書いたらそのつど公開するというふたつの条件を満たしているものを対象として想定する。これら以外にも僕の日記の規則はあるだろうし、これらを満たしていない日記にもこの考察が寄与するところもあると思うが、とりあえずこのふたつを大枠とする。実際僕の日記の輪郭を形式面から規定する要因としてはこのふたつがいちばん大きいと思う。毎日書くという縛りがなければ書かないようなことを書いているし、今日はよく書けなかったなと思うと投稿ボタンを押すのに気が重くなる。
まず毎日書くということについて。ふたつの極端なケースを想像してみよう。書くことを作るために1日を無理やりイベントで埋め尽くすというケースと、1日中日記を書く以外のことをしないというケースだ。いずれも病的な感じがするが、僕は1年間日記を書いていてこの狂気のリアリティをうっすらと感じていた。気づけば日記のことが頭の片隅にあるということ自体が、この狂気の片鱗に触れていることを示しているだろう。一方で僕は日記に書くことを探し続け、他方で頭のなかでは何かがつねに推敲されている。ともすれば日々から日記の外部がなくなってしまうのだ。(次回へ続く)