日記の続き#8

YouTubeで見た岡田斗司夫が喋っている動画——なぜだかたまに見てしまうのだ——で、彼が視聴者からの手紙を読んでいて、そのなかにテレビで林修が引用したというニーチェの「愛せなければ通り過ぎよ」という言葉が出てきた(すごい重層的なコンテクストだ)。質問や回答はどうということはなかったのだが、その引用、それも内容ではなく、名言のストックとして哲学者が扱われることに不思議な感興があった。名言、あるいは箴言とは文である。哲学が文の集積だと思うから「超訳」は可能になる。でも哲学は文の集積ではないかもしれない。少なくともドゥルーズは哲学とは概念のシステムなのだと考えた。そうすると先の引用はルサンチマンとかニヒリズムとか、そういう概念の布置のなかで初めて理解されることになる。超訳は許されず、概念の訳語を可能な限り固定することが望まれる。しかし何が概念であるかを決めるのも翻訳の一部であって、全面的で統一的な逐語訳は文も概念も破壊する。したがってどちらがどちらの根拠というわけでもなく、翻訳には概念と文の困難なデュアリティが最も明白に表れている。というのは保守的すぎるかもしれない。哲学が名言集になって林修から岡田斗司夫に漂流するのもいいものなのかもしれない。でもそれに耐えうる哲学者はあまりに少ない。これまで述べた理由で哲学はたいてい文に変な負荷をかけるからだ。あらためてニーチェは不思議。