12月30日

美容師とか、そういう、仕事のつながりではないひとと話して、哲学って難しそうですねと言われたとき、哲学って真理とは何かとか、どう生きるべきかとか、そういうことを腕組みして考えるみたいな学問に見えるけど、基本的にはちまちました作業の積み重ねで、あなたの仕事と同じですよと、まずは言う。真理も善も目に見えないものだ。哲学は目に見えないものを問うが、つねに目に見えるものを通してそれを問う。目に見えるものの代表がこれまで書かれた文章である。だから哲学は、目に見えないものを問うだけでなく、目に見えないものと目に見えるものとをどう関係づけるかと問わねばならず、だから哲学においてはテクストの解釈が重要視される。しかし哲学のイメージは、目に見えないものを直接言うことと、テクストをちまちま読むことのあいだで分裂している。賢者か研究者か。

別の話。世界が、戦争も芸能スキャンダルも身近な業界での喧嘩も、同じ論理で動いているように見えて、こちらはこちらで、それに対する応答の論理をひとつしか持っておらず、世界が一様なのか、僕が退屈な人間なのかわからなくなっている。世界の全体性と私の特殊性をまっすぐに繋ぐ口実は安売りされており、なおさら、自分の言葉がその速度に巻き込まれないように無口に、あるいは話すにしてもこうして散文的になっていく。自分の仕事をするしかない。世界の全体性と私の特殊性の焼き切れそうな回路の外に、仕事の個別性がある。でももうずっとそう言い聞かせてきたのだ。

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12月29日

「いや、単に自分自身がいやになってきただけだよ。世界が自滅するのを思いとどまらせようと、僕みたいに5年以上あれこれやってくると、そういう行動そのものが世界の自己破壊計画の一部であることが見えてくる。僕たちにわかっていることなんて、その程度なのさ。」
マルカム・ラウリー『火山の下』

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12月28日

体がだるくてほとんど一日中寝ていた。なんだか擬似的な鬱みたいな風邪で、熱も頭痛もひどい咳もないが、ちょっと動くと頭がぼおっとしてきて、スマホやパソコンを見ると眼の奥が引き絞られるように重たくなる。疲れが溜まっていたのだろうから無理に治さない。寝て起きて本を読んで軽くストレッチをする。毎週の京都日帰りと横国の非常勤、隔週で横国と神保町の講読が重なると帰りが夜中12時になり、月末に1万字の原稿の締め切りがあり、毎日本を書くというのは、いま思えばキツかったのかもしれない。週2日出勤なのでなんてことないと思っていたが。

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12月27日

しばらく前にKindle Paperwhiteを買って、毎日風呂に浸かりながら普段読まない本を読んでいる。いまは河出文庫の『世界の歴史22 ロシア革命』を読んでいて、考察も論争もなく、短いセンテンスで淡々と書かれていて読んでいて気持ちいい。74年の本。新しくもないのがいい。

「ペテルブルクからモスクワまで鉄道をしく設計図をつくるとき、自分で定規をとって両市を結ぶ直線をひいた。皇帝[ニコライ1世]の指先にあたって、直線が三か所とびだしたが、工事はその曲ったところをそのまま実施にうつした。」

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12月26日

風邪が長引いているのに、朝6時に寝て昼1時に起きるリズムになっているのでやたら夜が長い。熱はないので仕事はできる。

先日のワークショップの感想がぽつぽつと届く。面白かったようだ。あれは小学校の「朝の読書」に似ていたかもしれない。

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12月25日

クリスマス、だが授業。さすがにいつもの講義をやる気も起きないので、事前にみんなに書いてもらった日記を返却して、グループで読み合うワークショップをする。ふつうに読めば20秒くらいで読めるものを、10分かけて読む。自分はその言葉の並びを使うのか、そこに読点を打つのか、解像度を上げていくほどに、読み飛ばせば読み飛ばせるものから異物感が浮かび上がってきて、そこから逆照射して自分が抱えている規範意識のようなものを自覚する。どうとでも書けるものをどうしてこの人はこう書き、自分はこう書くのか。あと、近づけば近づくほど文章が小さな断絶に満たされたものに見えてくるだろう。これは当時思ったことなのか、書きながら考えたことななのか、書きながら考えたことを当時思ったこととして書いているのか。なぜ話はここで出来事の推移ではなくその背景の説明にスイッチするのか。それがさらに自分がいつも思っていることへスライドするのは、どれだけ書き手が意識的にコントロールしていることなのか。とたんに1000字に満たない文章がわからないことだらけになってくる。説明とタイムキープだけで90分の授業が終わり、横浜駅で花を買って帰った。水炊きと、サツマイモのテリーヌと、花でクリスマスをした。

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12月24日

水炊きを火にかけているあいだ、適当に感想をつぶやきながらM-1を見た。システムより人間が見たいよな、とか、君は誰なのかと問われているんだと、思って舞台に立ってほしいな。せっかくウソつくんだから、とか。実際、一緒に生きていくウソを作ることの楽しさこそが、エンターテイメントだと思う。映画や演劇を見たときに限らず、格闘家でもユーチューバーでも、このひとは「いい役者」だと言うとき意味しているのはそういうことだと思う。演劇まわりのひとを端から見ていてつまらないのは、戯曲が演出が、言葉が身体が場がという、制度論と制作論ばかりで、ひとりの人間が生きていて、舞台に立つことという——カサヴェテス的な——側面が見えてこないことだ。現代美術も似たようなものだ。ウソをつくことをシステムに仮託するか、「私」の名のもとに本当のことを言うか。でも大事なのは、このひとはウソをシステムに預けずに、それと一緒に生きていくんだという信頼だと思う。それがウソでもいいわけだが。

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12月23日

夜中scrivenerで作業をしていたらcommand+Aを押した拍子にすべてのテクストが消えてしまいたいへん焦った。操作の取り消しもできないし、自動バックアップも数日前のファイルしかなく、ここまでの見直しがすべてフイになってしまう。なんとかTime Machineに繋いでいたので、20分くらいまえのファイルを復元できた。しかしなぜcommand+Aであんなことになったのか。もとのところまで作業をやりなおして、今日は触らないほうがいいと思って寝た。

起きたときから喉に違和感があって、風邪を引き始めているようだった。薬が入った引き出しにトラネキサム酸があったので、寝る前に飲んだ。

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12月22日

『非美学』初稿チェックの続き。3章後半まで進む。先が見えないまま当たりをつけるように書いた箇所を整えて回収していく。あまり振り返らないようにしながら6章を書いていたので、頭のなかで勝手に前半はぐちゃぐちゃで、ここまで書いてきたいまから振り返るとさぞ不格好に見えるのだろうと思っていたが、思っていたよりずっとよく書けている。ちょっと新しいことを書くと自分が賢くなったような気がするが、そんなことはなく、そうであるとしたらそのちょっと前からもう賢いのだ。

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12月21日

なんだか妙に急かされるのでやったほうがいいのかと思いiPhoneをアップデートすると、ホーム画面に「ジャーナル」というアプリが追加されていた。開いてみるとその日の行った場所や撮った写真を自動的にセレクトして、日記をつけるのをサポートするアプリらしい。調べてみるとサードパーティ向けのJournaling Suggestions APIも公開されているようだ。ちょうど「日記と哲学」の授業の初回で、「君らのiPhoneは君らがどこに行ってネットで何を見て誰にどういうメッセージを送っているか理論上知ることができて、Apple Watchがあれば脈拍の上下までわかる。ここにARグラスが追加されることを考えてもいい。デバイス内外の行動履歴と生理学的データ、映像と音声をもとにAIが日記を代筆することは技術的にはすでに可能であるだろう。村上春樹風の日記を書いてくれと言えば、勝手に自分の一日を村上春樹的に書いてくれるかもしれない。そういうものがあったら使いたいか」と聞くと、誰の手も上がらなかった。「であれば逆に、なぜ自分で書くのか。しかも進んでSNSのようなひとの目に触れる場所で」、と聞いた。その直前にSNSをやっているひとの数を調べたら、200人全員が何かしらやっていたのだ。「この授業ではそういう、書くこと、書かされること、プライバシーと自己提示、それらと社会や技術の関係について考えます」。以下Appleの記事より引用。

パーソナライズされた提案と、振り返りを促すプロンプト

賢く厳選されるパーソナライズされた提案は、初めて訪れた場所、撮影した写真、演奏した曲、達成したワークアウトなどのモーメントをユーザーが思い起こして書きとめるのに役立つよう設計されています。ユーザーのアクティビティにもとづく提案には、有意義な洞察を可能にするために書くことを促すプロンプトや、ユーザーが感謝、思いやり、目標などに意識を向けるのに役立つ、日々の振り返りを促すプロンプトが含まれます。ユーザーは「提案」に表示されるコンテンツの種類をコントロールでき、自分が選んだ「提案」でジャーナルを作成できます。

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