日記掲示板の投稿数が999件に達し、新規投稿ができなくなっていることに気づいたので新たに作りました(もしその間投稿できなかった人がいたらすみませんでした)。
ルールは同じで以下の通りです。
(1)以下のコメント欄に名前と内容だけを書く(アドレスは不要)
(2)名前は本名やどこかで使っているアカウント名ではなく、このサイトだけの通称を使用すること
(3)日記以外のものは雑談掲示板に投稿すること
ちょうど僕も1年続けた日記が終わって、新たに日記の続きを書き始めたところなので、みなさんもそれに並走するかたちで気軽に書き込んでいただければと思います。
2022/04/08 福尾
「別の惑星に行っていて、軌道に射抜かれていた」という比喩からはじめて、つる性植物を頼りにそこから回復する現場(時間を持ち、野放図で一貫性のない場)でのプロセスを具体的に日誌に書き起こしたら、緊迫はゆるめることができた。中井久夫「急性期離脱の一経路」の仕事は何度でも立ち返りたい。土曜日という着陸地。しかし、帰ったら妹が寝床に伏せていて、別の軌道からの延長戦があるかもしれない。
久しぶりに予定のない日。
プールも昨日いったので、ダラダラ過ごす。
AMはオーストラリア行きの飛行機の席が決まっていないので手配。私の分だけ決済がうまくいかないので、航空会社とチャット。
英語のやりとりでもチャッピーがあれば余裕だ。言語、語学を学ぶ意味はだいぶ変わってくるだろう。必要性ではなく娯楽としての語学学習。
YouTubeを徘徊していると昼になる。
冷蔵庫にあるもので、簡単なカレーをつくる。SB赤缶は何を作っても赤缶の味になる。
午後はUNIQLOと組合にレコードを取りに行く。夜はカミさんも飲み会なので、ゆっくり過ごそう。
UNIQLO Uの気になっていた商品をチェック。あんまり着たことないけど、モッズコートはちょっといいかも、と思う。たぶん変な凝ったのを買うより使いやすそうだし、たぶん安い。同じモールのモンベルにいくとカラフルなパラコードが売っていて、これでカスタムしても面白いかもな…という着想を得る。
最近ずっとたこ焼き食いたい気がするなぁ、と思いつつ、我慢。レコードを受け取って帰る。
帰り際、早めにジムのサウナに行くつもりが、今日は休みなのだった。曜日感覚がかなり希薄になっている。
荷物を部屋に置いて、近場の銭湯サウナへ。また雨がパラついている。上がったらCoCo壱でテイクアウトして家で食おう。細野さんの新譜も聴きたいし。
帰宅。チキンカレーとハイボール。
とりあえず細野さんのラジオをチェック。カミさんが帰ってくる。
レコードは特装版をかったのでゆっくり堪能。音も良い。
個人的にずっと(15年以上か…)音楽の師匠は細野さんだと思っている。今回も流石だ。hosonova以降の流れの集大成という感じの音づくり。
坂本龍一が亡くなった時、私は自分が想像していた以上に落胆したことを思い出す。
細野さんが居なくなったらどうなるだろうか。
最近、細野さんはペースメーカーを入れたらしい。
亡くなった父方の祖母もペースメーカーを入れていたこと、母が介護をしながら「死にそうになったら心臓を動かされちゃう訳だから、そりゃ長生きするよね」と言っていたのを思い出した。
一番早い時間帯から教習があるので早起き。
カミさんはもう少し寝たいという事がことで、一人で出かける。
割とゆっくり出社ができる環境だったし、最後のほうはもうモチベーションも低かったので、会社に行っていたのよりもだいぶ早い。それでもあまり苦じゃないのはどういうことなんだろう。
今日は仮免の見極めもあるので、少し緊張している。最近、雨続きなのも地味につらい。
ATを挟んでだいぶ感覚が狂った感じがあり、一本橋をだいぶやり直した。たぶん内腿のニーグリップをする筋肉が弱いので、膝が開いてバランスを崩しやすい。
一応、合格をもらった。
二輪教習は詰まっているらしく、次は11月になるかも知れないと言われる。
帰り際、スケジュールを入手するが、新しい会社のことはよく分からないし土日だけ受けられるように設定する。
チャッピーに内腿の筋トレ方法とか、筋力不足で起こる問題を相談(股関節が弱いのはそれが原因では?)する。
マックで昼食を買いつつ帰宅。
朝イチから動いていると、だいぶ時間に余裕がある。
初めて教習と同じ日にプールに行く。
夏休み期間が終わり、区民プールの雰囲気もだいぶ変わっていた。
途中で未就学児向けらしきスイミングスクールが始まる。開始前から男の子が号泣しており、大声が響く度に大人は笑顔になる。
自分も昔、同じようなスクールに通っていたが、泳ぎを矯正されるのが嫌だったなという感情をありありと思い出した。
(特に高齢の)大人が子供を見て面白く思うのは、今目の前にいる子供だけではなくて、そこに自分の過去の記憶がかさなり二重に、子育ての経験があればその記憶で三重に、と複数のレイヤーで情報が頭をよぎるからではないか、ということを考えた。
夜は会社を辞める後輩の送別を兼ねた飲み会。自分の部屋の近くの名店を会場にしている。
先輩は早く仕事が終わるということで、別の中華屋で0次回。これもいい店なのでちょっと食べ過ぎる。
1次会も盛り上がる。久しぶりの気のおけないメンバーでの飲み会、かつ仕事をしていない解放感もあり、ちょっと話しすぎる。
辞める後輩は、ビールメーカーの営業になるのだと言う。
全く別の業界/業種かつthe体育会系のイメージではあるが、彼女は自分がこれまで見た中で断トツに酒が強い(しかもかなりの偏食にもかかわらず普通に超健康体らしい)。
この年頃の転職となると、自分の特性にあった職を選ぶのは自然ではあるが、そんなフィジカルな部分で…となんだかすごく納得してしまった。
日本酒を楽しむというテーマのその会はいつもいいバランスで楽しい会になる。
舌の肥えた後輩たちとよい店の情報交換もできるし。
職場は離れてもこの会だけは続けていきたいと思う。
溜めてしまった。
AM,整体へ向かう。
なかなか疲れが抜けず整体後もちょっと体が辛い感じが抜けない。
少し部屋で休んでいると、すぐに出かける時間になる。改めて時間を調べるとけっこうギリギリだ。バイクの教習に向かう。途中、駅で立ち食い蕎麦。とろろ美味い。
今日の教習はシミュレータとAT体験らしく、楽そうで助かる。
Aシミュレータの講師のおじさんのノリと優しさがいいおじさんのそれでとても良かった。緊張をほぐす感じ。
おじさん曰く、これまでの経験でATが楽だと言ったのは3人くらいしかいないという事だったが、まさにそれで全く小回りが聞かず困った。「ビッグスクータなんて誰がつくったんだ。こんなんアカンやろ」と強く思った。
帰りのバスの中で、左の首から胸の腕の付け根あたりまでが凝っている事に気づいてマッサージしたら、だいぶ体が楽になった。そのままジムのサウナに寄り、首周りもほぐす。風呂は偉大だ。かなり疲れが飛んだ。
帰宅するとカミさんも帰ってきており、クックドゥの極み回鍋肉をつくる。
最近はプールやら風呂やらサウナやら水風呂やらを繰り返すので、回鍋肉のような暮らしをしているな、と自分で思っていた。パッケージの指定を無視して、冷蔵庫の具材をたくさんつぎ込む。キャベツも大量にいれたがやはり辛く、カミさんは苦戦していた。
明日は教習が早いし、予定も詰まっているので早々に寝る。
「《かいぬしはさんぽのあいだに、自分のいぬがすきそうな枝や、木のぼうをひろっておき、かえるまえに、それを湖にむかって、おもいきりなげる。〔…〕ぼうをくわえ、もどってきたいぬは、湖のみずにあらわれて、きれいになっている。いぬは、ばかみたいにからだをふるわせ、みずをとばす》(h「盆のこと」)。あの枝、この枝を次々と私の新たな重力としながら、体のバランスを揺らがせ、泳ぎ遊び、棚田に捨てられ死んだ姥の日記が書かれる前に、私は日記を書く。《泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む》(永田耕衣)、そんな知らせが水面らを手がかりにやって来る。」(「日記と重力」、山本浩貴『フィクションと日記帳』、いぬのせなか座、62頁)
最早、明日の前借りなのか、お手付きであることは承知で身体に何重かにかかった負荷をここに昇華せんと欄をひらく。上の引用文のタイトル通り「重力」に潰れそうになったのは、これを呼んでいた前後に参加したオンラインゼミでSSWとして働くメンバーから自傷事例についての発信があり(2度目)、その対応が森のようちえんなどにおけるお弁当や喧嘩が「ぬるっとはじまる/おわる」事例と連続して語られるのに僕自身の肝が耐えられなくなったからだ。それは朝に入った授業でこどもたちが思いがけず熱中した小刀による竹の削り、および彼らのまなざしと奇妙に響き合う。あるいは、午後の定例会で事例共有としてあげられた、現場で会ったこどもの家にあがってしまう、彼女自体は無害な特性持ちの若い女性の背中が改めて幻視されるようでもある。大江を読んでいながら、事例を前にして自分の肚の弱さに呻いている。
そのようにして身体を揺さぶられた先で読む「日記と重力」。芭蕉-子規の「田毎の月」(「姥の見た田毎の月は、私の死後も数百年単位で続き、私と月の組み合わせを、それ自体は異なる水面において生み出し続けるだろう」(57頁))の景にハッとさせられ、同時に、荒川+ギンズによる「天命反転」(「身体バランスを恣意的に崩させる(絵画も含めた)建築物の制作と、それを用いた「私が私であること」の分析」(60頁))を必要とするほどに、改めて身辺の配慮された生活環境(ユニバーサルデザイン!)を見回して息苦しくなる。引用はその最後の段落にあたる。息を吹き返したかのような読後の感だった。
俯いて夜道を帰っていると、新しい公道の舗装された法面と暗く濡れた路面のぶつかる角から、道行く車のヘッドライトに毛を輝かせるネコジャラシがむくりと群生しはじめていて、それらを自分が傘で散らしながら歩いていることに気づいたのだった。植物たちが慣らされた環境を自分たちの混沌へと際限なく引きずり込もうとしている。輝きながら。それで前借りでもこの文を引用しないといけないと思ったのだ。
参照されている『子規全集第11巻』、『海辺のアポリア』、『建築する身体』を近いうちに読んでみたいと思う。もちろん『2号』も。忙しい半休日だった。
先の投稿から2時間も経ってないけれど、2月まで日記の投稿を遡っていたらもう書きたいことが飽和してしまった。「そういえば昨夜は妹にピカタの作り方を改めて教わった」とか、「流行りなのか大縁の丸眼鏡をかけた女性があちこちにいて、一昨日観た『ひらやすみ』のアカリン的萌えを感じる」とか、「冬によく投稿していた人の葬式や詩集についての文が今になってようやく理解できた」とか、「「怒られてるその人はもう忘れてるんだけど、前もそれ怒られてたじゃんって聞いてる私のほうがそのしきたりを覚えちゃう」と話しながら乗り込んできた声が聴こえる」とか、「席は空いてるのに長めにできた列の後ろから「さつまいもだって、たべたいたべたい」と聴こえる」とか、書いてしまえば大したことのない文ばかりが増え、しかし書かずにはいられないのはどうしてなのだろうか。
ディスコ的なK-POPを聴き終えて駅の広場に出ると空があまりにも不穏に赤かったので、その空について人びとがどれくらい言及するのかと気になって座っていたら、「赤テント」のチラシを配りに出ている共産党のおばちゃんに話しかけられる。首から提げているアクセサリーを飛行石のようだと褒められる。気さくな様子なので、こちらも淡々と職場のこどもにもらったのだと説明する。民が戦時へと過酷になだれ込んで行ったら、僕も党員のひとりになってビラ配りをしないといけなくなるのだろうか。遠く見える「テント」には若者が集まっているのが見える。たったの2時間で2日分くらい書いてしまうのは節操がないけれど、飛ばしている分を換算するという言い訳を半年後くらいに読み返す自分はどう思うだろうか。