3月30日

暑いくらいの日和で、ドトールで冷たいルイボスティーを頼む。抗いようもなく眠たくなってきたので帰ってすぐにシャワーを浴びた。

案の定連載原稿がまたつっかかっていて、しかしいつもはworkflowyでぽつぽつと2、3行書いて、行間の心許なさに耐えられずすぐにエディターでのベタ打ちに移っていたのだが、今回はworkflowyに留まりながらブロックの立ち上げとその育成を行きつ戻りつ進めて、ある程度の量と密度を作ることができている。

今回は「理論」について書いていて、いまのところのタイトルは「ポジショントーク原論、あるいは「アテンション」時代の理論」になっている。前回が「置き配写真論、あるいは「コンテンツ」時代の芸術作品」なので、それに対応させたかたちだ。アテンションとコンテンツの時代のなかで、理論と作品について考えること。枠組みはまっすぐでとても気に入っているのだけど、その「枠組み感」がかえって窮屈になっていることもたしかだと思う。いやはや。まあ飛び飛びにでも石を置いてみるしかない。

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3月29日

『非美学』のあとがきの断片がふと降りてきて、ここに書き留めておいたほうがいいだろうと思ったので書いておく。

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博士論文を出してからの3年間は、この本を書く(書きなおす)3年間であり、毎日自分のサイト(https://tfukuo.com)で日記を書いて公開していた3年間だった。

それは私にとって、2011年の春に大学入学とともに岡山の片田舎から大阪に出てきて過ごした、まったく友達ができなかった4年間と同じくらい、暗く、静かな期間だった。不思議なことに当時の私は、誰とも仲良くなんかしてやるものかと思っており、その孤独を孤独とも思っていなかった。そのあいだにドゥルーズの本に出会い、読んだこともなかった哲学書を読むようになり、小説が好きだからという理由で文学部に入ったのに、ルイス・ブニュエルの映画についての卒論を書くことになった。

4年生になって、檜垣立哉ゼミの院生の方たちがやっていた『意味の論理学』の読書会に学部をまたいでお邪魔して、小倉拓也さんや米田翼さんら先輩方にとてもよくしてもらった。彼らは楽しそうだし、自分も彼らのように研究ができるのかもしれないと思った。そもそも就職活動をしていなかった。

ちょうどその頃に、ツイッターを介して同じ世代の書き手たちが自分の文章を自分たちで作った「批評誌」で発表しているのを知り、関係者からの手売りでしか買えない『アーギュメンツ』という雑誌を、著者のひとりである黒嵜想さんから京都の喫茶店で会って買った。そこから「首塚」と呼ばれる彼の家に入り浸るようになり、寄稿者として参加した『アーギュメンツ#2』が出たのは、2017年の春、修士を出て横浜に移ってきた直後だった。

大学院に進んでやっと、友達ができて、自分の書いた文章を学校の先生以外に読んでもらえるようになり、サナギのように硬く閉じこもっていた時間を抜け出すことができた。『アーギュメンツ#2』とその翌年に出た『眼がスクリーンになるとき』は、私にとってその脱出のしるしのような本だ。

思いのほか思い出パートが長くなってしまったが、書きたかったのは、学部4年間の第一サナギ期(と呼ぶことにしよう)を脱した勢いそのままに『眼がスクリーンになるとき』から2年で書いた博士論文のあとにやってきた、第二サナギ期についてだ。

ひとことで言って私は、いろんなところに呼ばれて書いたり喋ったりするようになって調子に乗っており、博論を出すまでは、ちょっとなおせばすぐ書籍化できるだろう、30歳になる前に単著が2冊あればその後の仕事もおのずと転がるだろうし、と考えていた。しかし出来上がった論文は読み返せば読み返すほど、書きなおせば書きなおすほど、世に問えるものではないように感じられ、しかしその疑念に向き合えずにいた。その違和感をひとことで言うのは難しいが、いま思えばそれは、なにか自分が見出したものを、非常に人工的なしかたで取り扱った文章だった。そこにはなにかがあるが、自分はそれにふさわしくない。日記を書くようになったのは、その距離を小手先で埋めるのではない書き方を一から育てないと取り返しのつかないことになるとどこかで感じていたからだった。

日記に書いていたのはおおよそ、近所をぶらぶらしながら喫茶店を渡り歩いてこの本を書き進める日々のことで、つまり、私と私が住んでいる街についてのことだった。早くこの本を仕上げなければならないという切迫感もあって「批評」っぽい仕事の依頼を断ることが増え、コロナ禍が重なって友達と朝まで話すようなことは少なくなった。またサナギになったのだ。

私が住んでいるのは横浜の黄金町−伊勢佐木町あたりで、それは港がある「関内」に対して内陸に引っ込んだ、「関外」と呼ばれていた地域だ(いずれも江戸時代に開発されるまでは海だった)。黄金町はかつていわゆる赤線地帯で、しかし「浄化」の実際は通り数本分ズレただけであり、移民も多く、関内に向かってまっすぐエリアを貫く「イセザキモール」という商店街で聞こえてくる半分くらいの会話は様々な外国語だ。

珈琲館、ドトール、カフェ・ド・クリエ。その日の気分で入った店のテーブルにパソコンを開いて日記を書いて、本を進める(昼頃に前日の日記を書いて、仕事に入るのが習慣になった)。日記は書けば毎日終わるが、本は毎日書いても一向に終わらない。あとちょっと書きなおせばと思っているうちに3年が経ち、30代に入っていた。知り合いは誰もいないが、この街のこと、その小さな変化が手に取るようにわかるようになってきた。そして彼らもそうなのだろう。思えば最初のサナギ期のときもそうだったが、自らに閉じこもっているというより、ひとつの街のなかに溶け込みながら閉じこもっているのだ。イセザキモールの全長に一致する大きな殻の中で私は、私と言葉、私の言葉と世界の距離を再編していった。そして2024年の2月に初稿を書き終わると、腰痛や肩凝り、毎日夕方になるとやってきていた頭痛がウソのようになくなった。やはりキツかったのだ。この街での日々を通して私は、人として成長できたと感じている。

少なくとももう博論本は一生書かなくていいのだと思うと、それだけで元気が湧いてくる。この本を口実にしてまた友達といろんなところに行ったり、なにか作ったりすることができるといいなと思う。もともと友達がいたから書こうと思ったのだ。

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思いのほか長くなり、内容的にもダレているようにも思うのでこのまま組み込むことはないかもしれないが、ここに書いておいてよかったと思う。

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3月28日

なんだか急に首から鎖骨あたり、背中の真ん中あたりまで、ニキビなのか、腫れてはいないのだが小さな薄赤い点が表面にぽつぽつと出てきて痒みがある。乾燥しているのかもしれないと思ってクリームを塗って、iHerbでニキビ用のボディソープと、マルチビタミンとフィッシュオイルのサプリメントを注文した。

フィロショピーのサイトを作っていて、どうしてかデザインの変更だけが保存できなくなった。記事の投稿はできるし、デザインテンプレートごと入れ替えることもできる。でもテンプレート内の要素を変えようとするとやはり保存できない。日本語で検索しても情報が見つからないので英語のフォーラムを渡り歩いて同じ症状のひとを何人か見つけても、解決に至っている事例は、なんだかわからないがネームサーバーを引っ越したら直ったという1件だけだった。さすがにサーバーを移すのは最終手段にしたい。困っているとツイッターでつぶやくと黒嵜さんから友達のエンジニアの村井さんに頼もうかと連絡が来て、お願いしますと返した。村井さんとは数年前いちど彼が友達と立ち上げた会社に黒嵜さんと遊びに行って話したことがある。LINEで作ったグループで通話を始めて、wordpressとサーバーの管理画面を共有する。開発ツールをオンにしてエラーコードを見て、いくつか彼が言うことを試してみると直った。お仕着せのインターフェースより一歩でも外に出るとまったく世界が違う。その手前でやれることがありがたたかった。

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3月27日

いつもの整体。早めに着いてポリエステルの上下に着替えて待っていると、いつもの整体師が楽しそうに客と話しているのが聞こえてきた。こちらが本来の彼女で、僕と話すときは僕に合わせて静かにしていたのだろうかと不安になった。むしろ僕は明るく話すように努めていたのだが。聞かれたことしか答えないからかもしれない。その日は彼女に担当してもらう最後の回で、この前4月から藤沢店に異動するという話を聞いていたのだった。うつ伏せになって施術を受けながら、ゆっくり息をすることだけを考える。彼女は大柄で力が強い。腰回りの緊張はもうだいぶ取れているので、首と肩を重点的にやってもらう。背骨の両脇を何往復か指圧する。後ろから取り押さえるように背中に手を置いて、浮き上がった肩甲骨を外側に引っ張る。首を横に傾けて露わになったほうのうなじを押す。異動の話がぜんぜん出ないので延期かなにかになったのかなと思っていると、会計のときに引き継ぐ整体師の名を伝えられたので、おかげさまでよくなりました、次のお店でも頑張ってくださいと言って帰った。

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3月26日

原稿をworkflowyで書き始めて、ちょぼちょぼとしか進まないのが自分のせいなのかインターフェイスのせいなのかわからず、ずっとひとりで書いているのが急に寂しくなってきた。ついこないだまで踏ん切りをつけるのに3年かかった28万字の文章に苦闘していて、そのあとに前回の1万2000字を書いて、また1万字を書こうとしている。書きたいことはあるような気がするが、書いてみないとそれが一列の言葉になるものなのかもわからない。考えてみてもほしい。3年間、この日記を含めれば誇張でなく100万字くらい、ずっと無視されているも同然の状態が続いているのだ。対話篇にはせずとも、そう思えるような仕組みが必要なのかもしれない。クレジットの請求額と口座残高を見比べてアマゾンで本を6冊注文した。

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3月25日

丸1年、全17回(予定より2回延びた)神保町のPARAでやってきた『存在論的、郵便的』講読の最終回だった。こういう本は放っておくとあっという間に読めないものになるのだろうと最近、『非美学』を書き終えてなおさら強く思うようになった。デリダ論としては読まれるだろうし、日本の批評・哲学の歴史のなかでの東浩紀研究としても読まれるだろう。でもそれでは、なんと言えばいいのか、たとえばこの本で語られる「転移」の複数性と、それをこの本自体に埋め込むためのパフォーマンスとしての中断がどういう切迫感のもとでなされているのか、その「動機」のようなものは復元不可能になるだろうと思う。それが復元されるのは、精読や方法論的なレベルも含めた構造分析によってではなく、分析する側が自分自身の存在を払い出すことによって、つまりこの本がそうしたのと同じだけのチップを賭けたうえで、ある細部から別の全体性に跳ね返るような批判をすることによってだ。読み替えることと復元することの切り離せなさを引き受けることのできるような、自分なりのスタンスをもつこと、そういうことを「批判」と呼ぶのだと思う。今回はあらかじめ長めに時間を取ってもらったのだが、結局さらに30分ほど押して終わって、最後に、これだけ具体的な手触りとともに読んだ哲学書は忘れてしまっていい。「郵便」やら「誤配」やらを引用・活用するより、正しく誤配として各々の実践に跳ね返るはずなので、と言った。

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3月24日

原稿を書かねばならないのだが、頭のなかでフィロショピーの枠組みと趣旨についての考えが走り出してしまっており、そちらを動かすことにした。難しいのが、連続レクチャーに一括で課金してもらうようなサービスがないということだ。単発のイベントであればpeatix等で簡単にチケットが売れるが、通し券の仕組みがないし、複数のレクチャーを同時に走らせるときの一覧性がない。WordPressで作ったサイトにeコマースの機能を組み込むこともできるが、baseやstoresに比べると開店のハードルがずっと高い(事業者であることの証明がないとクレジット支払いを受け付けられない)。それをクリアしたとしても、概要と配信リンクの入ったPDFデータなりなんなりをチケットとして買ってもらうというかたちになるが、それもなんだかしっくりこない。とりあえずpeatixのアカウントを取って、初日をイベント日としてチケットを作って、タイトルやチケットの名前で「全6回」であることを強調するかたちでひととおりテストしてみる。企画としての全体性・一覧性・アーカイブ性はサイトのほうでしっかり把握できるようにして、peatixはあくまでチケット売り場として使う方向性で考える。『差異と反復』と『地の考古学』の文庫本とパソコンを持って珈琲館に出て、ひと息で惹句と概要文を2冊ぶんworkflowyで書いて帰った。

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3月23日

こないだ作って美味しかったのでもういちど春キャベツとアンチョビのペペロンチーノを作った。塩を入れた湯を沸かしながら具材(にんにく、イタリアンパセリ、キャベツ)を切って、冷たいフライパンにたっぷりのオリーブオイル、たっぷりのにんにくのみじん切り、細かくちぎった小さい唐辛子ふたつを入れて、5分半で茹で上がる細い麺を鍋に入れる直前に火にかける。にんにくに火が通ったらアンチョビのフィレを入れる(にんにくが焦げそうであればすぐ火を止める)。麺が茹で上がる2分くらい前にざく切りにしたキャベツを入れて中火で炒め全体にオイルが絡まったら、麺と合わせたときにほんのちょっと汁気が余るくらいをめがけてパスタの茹で汁を加える。茹で上がった麺、刻んだイタリアンパセリ、オリーブオイルを手早くフライパンに入れて軽く混ぜ、汁気を見て皿に盛る。

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3月22日

朝、初稿ゲラの最後の確認。決め切れていなかったことが奇妙にも淡々と進んで、排水口に最後の水がふっと吸い込まれるようにあっけなく終わった。気が楽になったので中目黒に展示を見に行くことにして、打ち合わせ場所もそちらに変えてもらう。妻と一緒に出かけて青山|目黒に向かう。千葉さんが作品を出している「具ささ」を見て、向かいの喫茶店で編集者を待つ。煙草が吸える良い雰囲気の店で、店主のおばちゃんが客と元気よく話している。背の高い中学生はカナダ留学から帰ってきたところで、小さい頃からこの店に来ていたらしい。妻が買い物をするために店を出て、入れ替わりで編集者が到着する。中学生は友達と遊ぶ約束をしていたのを忘れていたと出て行って、あとで母親がタクシーでチャーハン代を払いに来た。こんどは店の電話が鳴って、19歳なのだが店で煙草を吸っていいかと聞いてきたらしい。しばらくしてその青年が入ってきて、僕の背中でおばちゃんがここは煙草が吸える店で、あんたが言わなきゃ年齢なんかわからないんだからと言って、彼は力なく返事をしていた。まだ世界に摩擦が存在することを確認するようにゲラを見終わった編集者と再校のための細かい決め事と広報・営業の方針について話して、彼と一緒にもういちど展示を見て、青山さんと3人ですこし世間話をして帰った。少なくとも、ゲラのぶん鞄は軽くなった。

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3月21日

デエビゴを処方してもらいに病院へ。医者が疲れているように見えた。ひと月ぶん出してもらう。裏の薬局に入る。テレビで大谷翔平の通訳がギャンブルに大谷のお金を使い込んだニュースが流れている。マスクをしていて60歳と40歳にも、40歳と20歳にも見える姉妹のような親子が、さらにその母親の代わりに薬をもらいにきている。浮気かなんかでしょ——ギャンブルじゃなかった?——もらったお金でギャンブルをして何が悪いのかととんちんかんな話をしていて、いまそこで流れているテレビをなぜ見ないのかと思ったが、実家の居間にいるみたいでそういう気持ちが懐かしかった。薬を受け取って外に出ると、母親のほうが軒先に座り込んでアイコスを吸っていた。

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