4月29日

 雨だった。しっとりした空気のなかにときおり、棚の上に置いていた台湾パイナップルの甘い香りが漂ってくる。こないだのバーベキューに百頭さんが買って来てくれたのが美味しかったという話をして、彼女が買って来ていたものだ。包丁で皮を削って身を切り分け冷やして風呂上がりに食べた。風も強くなっていて、前の家だったら揺れてただろうねと言った。確かにやたら揺れるアパートだった。

 親密さについて考えている。たとえば恋愛が厄介だなと思うのは、同じ思い出の共有に力点が置かれがちなことで、それは記念日やらクリスマスやらが象徴的な価値をもつことに表れている。それはそれで結構なことだと思うのだけど、そうしたステップの延長で結婚やら出産やらに幸せの形を代表させている何かがあることも確かだと思う。親密であるということを同じ思い出の共有だとしてしまうと、その親密さはいつの間にか第三者的な社会のなかでしか位置をもたなくなってしまう。かといって駆け落ちして誰も知らないところへ、みたいなのも違うし。結局親密さというのは、自分が忘れている自分のことを相手が覚えていて、相手が忘れている相手のことを自分が覚えていて、その思い出のすれ違いの積み重ねなんじゃないかと思う。すっかり忘れていたことを言われると、何か自分の存在が分け持たれているような奇妙な感覚がある。とはいえそんなことあったっけとは、やっぱりなかなか言えないんだけど。

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月28日

 二度寝してご飯を食べてだらだらしていると予定まで2時間しかなかった。大急ぎで打ち合わせのための博論本の序論の改稿案のプロットを作ってプリントアウトする(プロットは苦手だと前に書いたが、人に見せるためのものなら作れる)。ここ数週間ずっといろいろ読みながらぐるぐる考えていたので作るのは気持ちよかった。ゼミでの発表とか、いつもこういう感じだった。発表まで数日ではなく数時間になって初めて逆算可能になるスケールがあって、そのなかで書く。先延ばしにしながら、その先延ばしにしている最中に加速する何かというのもある気がする。原稿だって初稿のあとに数往復あるんだから、初稿は紙幅から逆算して執筆は——準備はつねにしておくべきだが——なるべく圧縮された時間のなかでする方がいい。近所の全席喫煙可の喫茶店まで編集者に来てもらって出来たてのプロットをお届けする。さっき作ったので書いていない補足説明もすらすらできる。久々に長い時間喋り続けたので酸欠ぎみになった。歩いて帰りながら近所に唯一あるサードウェーブ的なコーヒースタンドであったかいカフェラテを買って、公園で煙草を吸いながら飲んだ。もともとどこかに出張って行くことは少ないが近所でぎゅっと仕事が済むと嬉しい。帰ってポテサラを作って、なんとなくアオサを入れてみて、なんとなくバジルペーストも入れてみた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月27日

 中学の同級生5人ほどのLINEのグループで、そのなかのひとりの誕生日が祝われていた。何も言わずに閉じる。このあいだ東京でテレビの撮影をやっている友達からまだ横浜にいるんなら久しぶりに遊ぼうと連絡が来て、曖昧な返事をしたままにしている。彼ら——彼らは「彼」なんて言い方をしないが——いや、別の話をしよう。喫茶店を3軒渡り歩きながら近所をうろついていると軽トラにでもはねられたのかという感じの擦り傷を脚に負っている人をふたり見た。なぜかよくわからないがこの街の人はよく怪我をしている。いちど深夜に散歩していて寄ったコンビニで急に後ろから肩を叩かれ何かと思ったら一晩だけ泊めてくれないかと言われ申し訳ないが無理だと断った。顔から目を伏せると傷だらけの拳が見えた。2軒目の喫茶店で入ってきたおばあさんに威勢のいいおばあさんの店員がもうよくなったのと聞いていた。彼女はうんと言って席についてしばらく目を閉じていた。それを見ながらどういう思いがそこにあるんだろうと考えていた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月26日

 煙草を買いにすぐそこのまいばすけっとに出る。明るい月を見ながら1本吸ってから戻った。先日開設した日記掲示板に今日もたくさん投稿が来ている。何が起こっているんだろう。誰とも知らない彼ら彼女らに何かの責任を感じ始めている。義務感とは違う。この違いをすっきり説明できればいいのだけど。この日記だって毎日書く義務はないし、ずっと楽しいわけではないが毎日書いている。いつかこの日記のことを「自立した大人の仕事」だと思うと書いた気がするけど、確かに日々やっていることのなかで仕事だとちゃんと思えるのはこの日記だけで、そこに掲示板も加わった。彼らの多くはおそらくもともとこの日記の読者であり、このサイトのユーザーであり、日記仲間でもある。彼らの日記を読んでいると、いつも書いている自分の日記が、とても個人的なこととして書いているはずなのに、投稿された匿名的な日記の群れのなかに漂流していくような感覚がある。この日記を読む人のなかにも自分の日々の自分への帰属感が剥離していくのを感じる人がいるのだろうか。もしそうだとすれば、それはやはり立派な仕事だと思う。

(日記が仕事だと書いたのは2月24日の日記だった)

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月25日

 コーヒーフィルターが切れそうなのでアマゾンで注文した。明日にはもう届くらしい。いつも近所の注文したらその場で焙煎してくれる店で豆を買っている。たいていのお店より自分の家で飲む方が美味しい。夕方に通り雨があって、すぐ気づいたので洗濯物は無事だった。ざっと降ってすぐ止んで、こんなに通り雨らしい通り雨も珍しいなと思った。今日は一日家にいた。風呂に入ると昨日のバーベキューで日焼けした腕と首筋がピリピリと痛んだ。そういえば昨日みんな途中から顔が真っ赤だった。栃木は山がないので陽が長い。地元は山がちなので太陽が近くで沈んで、それからしばらくぼんやりと明るい。遠くで日が沈むとすぐに暗くなった。

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月24日

 シンクに置きっぱなしになっていたお椀を洗ってグラノーラと牛乳を入れて、食べて、シンクに戻して水に浸けた。満たされたかどうかわからないお腹の感じもあいまって最後に「くりかえし」と書いてある4コマ漫画みたいだ。フルグラ永劫回帰。この瞬間が永遠に繰り返すことにイエスと言うようにこの瞬間にイエスと言えるだろうか。お椀に聞くべき質問かもしれない。着替えて電車に乗った。横浜駅まで出て、栃木の小山駅まで2時間ほど。友達と合流してドンキホーテで紙皿やらウェットティッシュやらを買って、先に準備している人らがいる思川沿いに行って、散漫なバーベキューと小規模な焚き火をして、同じ電車に乗って帰った。行きも帰りも空いていて、広く見える窓をずっと見ていた。今なら聞いてくれていい。いや、そっとしておいてほしいと思った。

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月23日

 髪を切りに横浜へ行く。なぜか髪を切る前にコーヒーを買って出て道端に座って飲みながら煙草を吸うのが習慣になっている。ニュウマンの前を通るとブルーボトルコーヒーがあったのでコールドブリューを頼んでみる。お呼びするのでお名前頂戴してもよろしいでしょうかと言われたので咄嗟に竹下ですと言った。福尾という名字はあんまりないし、聞き取りづらいのかたいてい聞き返されるので、こういうときはいつも思いついた名前を適当に言う。竹下として受け取ったコーヒーは渋みが強くてあんまり美味しくなくて、もっとミルクとかが入った甘いやつにしておけばよかったと思いながら煙草を吸って美容室まで歩いた。さすがに美容室では本名だけど、その場だけのものだし別になんでもいいんだろう。サイトに掲示板を作ってみた。ここだけで使う名前を考えることを唯一のルールとして。どれくらい投稿が集まるのか、どういう話になるのか、それが楽しいのかいろいろわからないけど、その場だけの名前で過ごせる「実生活」から切り離された空間ってとんとなくなっているし、それがどういう感じなのかは興味がある。古き良きインターネットみたいなものにあんまり触れることがなかったからかもしれない。

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月22日

 また——……!——珈琲館。今日はカウンターのひとり席しか空いていない。本を読みながらノートを取る。書いてあることやそれについてのコメントより、読んでいて頭をよぎったことを書く。読んでいるものと関係がなくてもあまり気にしない。読み返して書いていたときの思考をトレースバックできるかも気にしない。読んで書き留めるという回路に「考える」をなるべく差し挟まない方が結果的に考えが捗る。いくつか博論改稿のアイデアも思いついた。前に書いたパラグラフ・パッドと同じで定期的に手を動かすので集中も長く続く。

 机から頭を上げて本に向きなおったとき、何か変な感じがした。男ふたりの声がうしろから聞こえる。うしろにいるのでうしろから聞こえるのは当たり前なのだけど、頭を上げて初めてそれに気づいて、同時にさっきまでその声を前にある厨房の話し声だと無意識に思っていたことに気づいた。確かに頭を下げると聞こえ方が少し変わる。気が散ってどの席にどういう人がいるか気にしていたら姿勢と聞こえの関係の変化には気づかなかっただろう。何かに没頭することでかえって他のものへの感覚が敏感になるということがあるのかもしれない。没頭と知覚の鋭敏化に共通するのは自分の体から意識が脱中心化することだ。それに対して気が散っているときは、たいてい髪の毛や手元にある何かをいじったり脚を組み替えたりしてきょろきょろ周りを見て、意識が体の置きどころに向かっている。知覚がばらばらとあってその齟齬のなかに体が見出されるか、体から出発して知覚を整序するか。この違いは『眼がスクリーンになるとき』で書いた「眼−スクリーン的な知覚」と「眼−カメラ的な知覚」の違いに対応する。

 「ぼおっとする」ことと「気が散る」ことはぜんぜん違うのかもしれない。ぼおっとするときは意識が何か体の外のものにへばりついていて、気が散るときは体の収まりの悪さ——あるいは自分が他人にどう思われるか——にばかり意識がむかう。そしてぼおっとしながら作業をする環境を作ると考えが捗る。「集中」というのは、気が散ることなくぼおっとすることなのかもしれない。

 

 

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月21日

 いつもの珈琲館。ライターを忘れたのでマッチを借りた。常連らしきおばあさんを、ひとりで歩いて来られるだけ元気じゃないですかと言いながら、店長が手を取って立ち上がるのを助けている。もう片方の手で彼女は棒の部分に蛍光テープを貼った杖を持っていた。先が4つ又に分かれていて、自立するようになっている。自立する杖。とても哲学的なオブジェだ。いつか何かの名前に使いたい。自立する杖が教えてくれるのは、先端が分かれていない普通の杖は自立しないということだ。人を支えるためのものが自立しないというのは考えてみれば不思議な感じがするし、杖にとって自立するしないがオプショナルであるというのはもっと不思議だ。そして杖の自立があってもなくてもいいのなら人間の自立はなおさらじゃないかという気がしてくる。しかしいろんな事情のもとにある個々人の生き様はともかく、哲学は自立する杖にならなきゃいけないと思う。何かを支えることもできるし、ほっとかれても気にしない。

投稿日:
カテゴリー: 日記

4月20日

 丸亀製麺まで来たところで、もう暑いくらいで、蕎麦の方が食べたいなと思い少し野毛の方に歩いて蕎麦屋に入った。かき揚げの付いた盛り蕎麦。テレビで宮根誠司が喋っているのが聞こえる。センテンスレベルでしっかりした言葉で早口なのにいやらしくない。学者にこういう喋り方ができるだろうかと思うがよくわからない。道頓堀に中継が繋がれて、看板を少年に蹴り壊された蟹料理屋のリポートをしている。店長はもちろん腹が立ったが、確かに時短営業で迷惑をかけているし、自分はクリスチャンなので許したと言っているらしい。混乱しているうちにその大きな蟹の看板を作った人が紹介され、対して東にはこの人がと東西看板作家対決になっていた。混乱しているうちにCMに入り、小エビやグリーンピースが入ったかき揚げをかじりながら、夏が始まったのかと思った。

投稿日:
カテゴリー: 日記