日記の続き#122

八月の30年——5歳

まだ5歳か、とも思うが、もう1997年かとも思う。研究領域に沿って言えば20世紀というひとつの大きなスパンがあって、その意味で21世紀はオマケのようなものなのだが、僕の半生から言えば反対に20世紀というのは純粋なモラトリアムのようなものだ。とはいえそこには何か固有の闘いがあったはずで、今となってはそれを思い出すことはできない。幼稚園で飼っていたハムスターはよくブロックの下敷きになって死んでいた。無謀にも幼稚園で飼われるハムスターほど憐れなものもないが、当時の僕がそのことについてどう感じていたのかはわからない。学芸会の演劇で白い綿のタイツを履かされたのがとても悲しかったのは覚えているが、それが何の役だったのかはわからない。たぶん当時もわかっていなかったのだろう。

日記の続き#121

八月の30年——4歳

幼稚園には団地の小学生と班になって一緒に歩いて通うことになる。小学校の隣に幼稚園があって、その「本町3班」という班で8年間同じ道を通っていた。考えてみれば半径3キロくらいの範囲にいる小学生・幼稚園生が同じ時間に班ごとに集まって列をなして登校・登園するしくみがあり、それがおそらく数十年にわたって維持されるというのはなかなか途方もないことだ。居住地区ごとに「班」で分けられて、学校では「組」で分けられ——組の名前は数字でなく「いろは」だった。学年2クラスしかなかったのでい組とろ組だけだったが——それがまた机の並びとかで「班」に分けられ、それぞれに飼育係とか連絡係とか特定の機能にも対応している。小学校にはもうひとつ赤・白・青・黄の「縦割り班」というものがあった。これは全学年をまたいだ集団で、掃除場所のローテーションや、運動会のチーム分けに使われる。それぞれの色がさらに6班に分かれていて、たとえば「赤1班」には各学年から数人ずつ所属し、6年生がリーダーとなり掃除や運動会の練習を指揮する。こうしてみると小学校というのはすでにかなり複雑な組織形態が縦横に交差した場であって、物心つくころにはすでにそういうもののなかにいるわけだ。いきおい小学校のことばかり書いてしまったが、幼稚園は年少は「きく組」で年長は「すみれ組」だった気がする。年少のときの担任の先生が、数年後に行った歯医者で受付をやっていた。

日記の続き#120

八月の30年——3歳

それにしても最も古い記憶が自転車に乗るのと文字を書く記憶だというのは、三つ子の魂百までというのはよく言ったもので、今でも乗り物は好きだし、文字はこの通り毎日書いているので、よくできたものだなと思う。しかし3歳の頃の記憶というともうひとつあって、こっちはどうにも収まりが悪い。父がジェミニという車——たまたまだが僕は双子座だ——をハイエースに乗り換えた頃の記憶で、ふたまわりほども大きくなった車体にうっすらと恐怖を感じていたのだが、その後ろを回って車に乗るときに、すでにエンジンがかかっているマフラーから出る熱風が足に当たってそこに激痛が走ったのだ。それからは排気をまたぐようにして歩いていた。振り返ってみればそれは風が当たると同時に足を挫くかなにかしただけなのだが、因果関係の錯誤による子供らしいマジカルな世界の構築に、痛みが関わっているというのはどういうことなのだろうか。大きい車の排気は痛い。たしかにその排気は僕がそれまで見知っていた排気とは異質な熱をもっていた。痛みはその異質さを認定させてくれるものとしてやってくる。一方でそもそも痛みなしに因果という概念は起動しえないとするなら、そして他方で、そうして立ち上がる因果がファンタスマティックな防護壁でもあるとするなら、痛みは合理と非合理の区別より先にある裸の推論のようなものの条件であるだろう。痛みと推論。それは人を因果から剥離させると同時に、因果を見出されるべきものにする。

日記の続き#119

八月の30年——2歳

この日記内連載はどういう意味で「日記の続き」として書かれているのか。すぐに思いつく日記との共通点は毎日書いていること、そして各回の内容の連続性が(必ずしも)ないことだ。日記は昨日の日記の続きを書くわけではなく、その不連続性は日付のあられもない形式性によって作られている。それをある種拡張して、この「八月の30年」ではそれぞれの年齢に引っかけてそのつど思いついたことを書いている。だからこれは30年間を振り返るという意味では日記より強く自伝的なテクストだが、その振り返りかたは31通りあり——そうなるはずだ——それぞれの振り返りのトリガーのあいだに整合性を求めるべくもないので、書けば書くほど散らかっていくことになるだろう。円環的時間の権化であるような暦を円環的時間から脱臼させること。こうして毎日書いているとよく知人との会話で引き合いに出される河原温の日付絵画の何が面白いのかいまだにわからないのだが、僕はあくまで日付とそこに含まれるものとの関係が暦の秩序にどう跳ね返るかということに興味があるのだと思う。それで、2歳、あるいは1994年は僕にとってどのような年だったのかというと、親の話から推測すれば、単語を発したり歩いたりはできるが、ひらがなを書いたり自転車に乗ったり靴紐を結んだりはできない端境期ということになる。前者ふたつは1歳のときに、後者三つは3歳のときにできるようになったということらしい。たしかに団地のなかの道を自転車で走ったり、忍たま乱太郎のイラストが入った袋に自分の名前を落書きしたりしていた記憶が、最も古い記憶としてある。つまり1年ほどめぼしい成果を出さず家で寝転がっていたわけだが、そういう意味で言えばこの1年くらいの僕とあまり変わっていない。

日記の続き#118

八月の30年——1歳

タイトルを年齢にするか西暦にするか迷って、西暦のほうが「ぽい」のだがここは最初の思いつきにしたがって年齢にした。昨日と同様記憶がないので頼れるものが少ない。写真を見るといまより髪の毛がくるくるしている。それから毛が太くなってパーマは抑えられているがいまだにクセ毛はあるし、湿気のある日はそれが顕著になる。誰しもどこかしらそういうところはあるだろうがこれまで髪型がしっくりくるということがなかった。量がやたら多いし、変なクセはついているし、うなじのところが猿のしっぽみたいに尖っている。一時期は伸ばしっぱなしにしてどうでもいい風の居直りをしていたが、このごろはなるべく頻繁に切るようにしている。収まりの悪さと向き合うしかないということに30年経ってやっと向き合えるようになってきたのだろう。親の話では1歳で言葉を発し始めて3歳で自転車に乗れるようになり、靴紐を結べるようになったらしい。それからは団地の中をところ構わず跳ね回ることになる。それでよく猿みたいだと言われていて、後ろ髪のしっぽはその名残なのだろう。逆だったかもしれない。

日記の続き#117

八月の30年——0歳

とうぜん当時の記憶はなく、物的証拠も写真(あとへその緒?)くらいなので主に周辺情報を書くことになる。1992年6月4日、岡山県井原市井原町の井原市民病院で生まれて、そこから国道313号線をまたいで向かいにある県営住宅に住む。生まれた場所と家の近さ、「井原(いばら)」という地名の連打にすでに表れているように——幼稚園は井原幼稚園で、小学校は井原小学校で、中学校は井原中学校だ——僕は非常にコンパクトな環境で子供時代を過ごすことになる。中国地方を南北に貫く313号線と、それに沿って近づいたり離れたりする小田川だけがそうした環境の外と通じ合っているかのようだ。ドゥルーズ゠ガタリならそれを「脱領土化の線」と呼ぶだろう。これは次のように図式化して構わない。まず313号線という経線があり、そこから東へ200メートルほどのところに小田川というもう一本の経線があり、それが環境の横幅を規定しており、国道にへばりつく団地の位置に対応する緯線に始まって縦幅が徐々に拡張される。これが大局的に見たときの僕の成長に対応した環境の拡張プロセスであり、その時々の頭のなかの地図もおおよそこのようなものであった。国道の西と小田川の東は山になっていて、なおさら縦長の帯の上を上下するイメージが定着したのだろう。313号線の最南端でぶつかり瀬戸内海沿いを東西に走る国道2号線の存在が自覚されるまで世界の横幅は決まっていた。たとえ「環境」の外に出て実際には倉敷やら福山やらに行っていても、それはあくまで縦方向の遠さとして感じられる。「環境」より遠くはレーシングゲームの主観映像のようにただこちらにやってきて脇をすり抜けていく。

日記の続き#116

移動と暑さで疲れていたのか昨夜は久しぶりに夜に寝て、朝起きた。倉敷から山陽本線に乗って鴨方駅で両親の車と合流し、昼ご飯を食べて実家でひとしきり話して、備中高梁駅まで送ってもらってそこからやくもに乗って松江まで来て、そこから今度は妻の両親の車で滞在先のマンション——かつて彼女の祖父が住んでいた——まで送ってもらった。去年もこの時期この部屋にいた。今年は宍道湖の花火大会が3年ぶりに開催されるらしく、それがベランダからよく見えるという。実家で去年帰ったときは入院していて会えなかった祖父にあった。ここ数年生気がなかったのだが最近透析を始めたらしく、胸に溜まっていた水も抜けて痩せて声に力も戻っていて、若返ったなと言った。居間でみんなで写真を撮った。祖母はあいかわらず元気そうだった。2時間ほどやくもに乗っているあいだ煙草が吸えないのがつらかった。高橋駅には蔦屋書店の大きな図書館ができていてそこにスタバも入っていて、知的な人たちはこういうのを馬鹿にするけど、こういう場所にこういうものができるのはすごいことだと思った。山の緑のまぶしさが、こないだいった相模湖と似ていた。

日記の続き#115

倉敷のビジネスホテル。明日親と祖父祖母と会って昼ご飯を食べて、そのあとすぐ妻の実家がある松江に移動する。倉敷まで出てきて、ホテルの部屋に荷物を置いてから美観地区を散歩したがあまりに暑くて部屋に戻った。テレビで初代ウルトラマンの初回の再放送をやっていて、最初から最後まで見た。泥まみれになりながら馬乗りになったりボディスラムをしたりしていて、こんなラフファイトだったのかと思った。同じショットに同居しえない怪獣と人間が、ウルトラマンの登場とともに同居し始めることの興奮が醍醐味なのだろう。人間は万物の尺度であるという言葉があるが、それはこの尺度の形骸化でもあって、「人型」の誇張的使用による脱人間中心主義が…… とか考えながら昼寝をした。『シン・ウルトラマン』は結局まだ見ていない。晩ご飯を食べる場所をさがしつつ再度美観地区を歩いたが、閉まっている店も多くあんまりピンとこなくて、コンビニで買って食べることにしてファミマに入ったら今度は近くでやっていたらしい誰かのコンサートの客でごった返していて、もうご飯は後にしようといってまた部屋に戻って先にお風呂に入ることにした。大浴場に入ると洗い場で男が男の体を素手で洗っており、ぎょっとしたが改めて見るととたしかにひとりはおっさんだが、洗われているほうはおっさんとおなじくらい体が大きい息子とおぼしき12歳くらいの少年だった。サウナがあって、サウナも水風呂も苦手だったのだがちょっと我慢していちどちゃんとしたやり方で入ってみようと思って10分入って水風呂と休憩を3セットやってみたら気持ちがよかった。

日記の続き#114

歌舞伎町で布施さんとトークがあって、打ち上げを抜けて終電に滑り込んで車内で日記の下書きを書いたのだがなんだかうまく書けなくて消して、横浜駅からタクシーで帰ってきて、晩ご飯を逸していたのでコンビニで買った弁当を食べて書いている。車内で隣に酔っ払った男が座っていて、居眠りして頭をぶつけてくるので向かいの空いた席に移動したら入れ替わりで女の人が座って、今度はその人が頭をぶつけられていたので申し訳ない気持ちになった。横浜駅のタクシー乗り場では泥酔して立ち上がれなくなっている人と彼を介抱しているグループが乗車拒否されていた。酒飲みばかりはいつまでも謎だ。高校の頃、成人した兄が泥酔して帰ってきて玄関からも上がれず、母に介抱されているのを見てこうはなりたくないなと思った。父は毎晩ビールを飲んでいたが酔っ払っているのを見たことがない。タクシー運転手に日ノ出町のところを曲がる道でいいですかと聞かれたのでなんでもいいと言った。それにしても打ち上げもセットで楽しめるトークイベントは久しぶりだった。配信無しのイベントをしつこいくらいやっていく必要があるんだろう。こないだひと悶着あっただけに布施さんとは立場の違いを出発点にして、その実質的な意味を探るという方向性で話せて、それでかえってお互い素直に話せたと思う。来ていたお客さんのコミットメントも強かったし、ツイッターだと怖い人だと思っていたけどぜんぜん違ったという感想もあった。気持ちはわかりますと言った。それにしてもどうしてかささけんさん、大和田俊、布施さんとアーティストとの対談が続いた。さいきん(聞き手としての)喋りを褒めてもらえることが増えて嬉しい。

日記の続き#113

昨日のこと。相模湖からの帰りに横浜駅で彼女と合流して、週末帰省するときに親に渡すお土産を高島屋で買った。こないだ父からお中元の桃が届いて、そのお返しだ。結婚してからというもの、われわれと彼女の両親とうちの両親のあいだで、折に触れて何かが送り合われている。いまだに自分が構造主義的民俗誌の一コマになったようで落ち着かない。構造というのは恐ろしいもので、彼女の親は僕の「親」でもあるわけだが、親が増える——入れ替わるのなら話としてはわかる——というのはとても奇妙なことだ。しばらく前に友達に結婚について相談されて、例に漏れずそれは彼女にそれとなく結婚を迫られているという話だったのだが、僕は大きく言ってふたつのことを伝えた。ひとつは穏当な話で、そうはいっても結婚をめぐって女性と男性を取り巻く状況には非対称性があって、べつに僕らが結婚しようがしまいが誰も気にしないが、女性はなかなかそうはいかないし、他方でこれだけ夫婦別姓や同性婚が叫ばれるなか結婚したいと言うことの「ダサさ」もプレッシャーとしてある、それは考えてみてもいいのではないかということ。もうひとつは、親が増えるというのはとても奇妙なことで、これは面白いといえば面白いということ。じっさいたとえば彼女の親御さんは僕が日記本を出そうとしているのをなぜか知っていて、資金が足りないなら貸すとすら言ってくれたし(借りずに済んだ)、それはものすごく変な関係なのだと。そしてこういう「無理」を維持するためにものが送り合われる。それは面倒なところもあるが、逆に言えばそこには関係のはかなさへの自覚みたいなものがあって、それはそれで切実なことなのだと。そう僕が通話で話しているのを彼女が聞いていて、変わったねえと感心していた。