9月29日

ドラフトは28205字(前日比+2556)。昨日は弱気になっていたが、今日は快調に書けた。なんとも世話がないが、この世話のなさも毎日やらなければやってこないわけで、こうやってそのつど自分を信じなおすしかないのだと思う。日記を書いてきて学んだ大切なことだ。

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9月28日

どうにも原稿が書けず、一日中エディタの前をうろうろしていた。自分がいま書こうとしているものの全体に照らした意味づけができず、というか、できるのだがそれは外在的なもののような気がして、日が沈むにしたがって胸の奥が重たくなっていく。あるいはそれは構成の問題ではなく、頭のなかにある言いたいことと論述対象の結びつけ方の、ゆるさの問題なのかもしれない。「証拠」を探す目で次々と本を開いては閉じる。悔しい。悲しい。30分ふて寝することにする。起きると妻が帰ってきて、今日はご飯が作れていないと言って一緒にやよい軒に行く。問題は、もう書いてしまった博論との距離なのかもしれない。博論の第6章を読み返す。もうできている。でもピントの合わせ方もフレームも違う。それがあたかもたんなる引用集であるかのように、使いそうな引用部分を端からドラフトに転写していく。今日はそれで書けたことにする。素晴らしい引用集だ。全体で25649字(前日比+1879)。

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9月27日

秋学期が始まって2ヶ月ぶりの京都。前の夜に予約をしたのだが新幹線の席はほとんど埋まっていて、3列席の真ん中だった。3限は自分の授業で、4限は他のふたりの講師と一緒にやる授業。3限のほうは春と同じく書いた文章をもってきてもらう授業にする。学校のなかで行われる「研究発表」系の授業で身につく技術と最終的なアウトプットとしての修論とのあいだには大きなギャップがある。しかも前者の技術はあくまで「下限」を上げるためのもので、学校を出たら査読にせよ何にせよ面白い順に上から評価されるのだから自身の能力の「上限」を上げなければならないが、それは基本的に個人の努力に委ねられている。そして人文系の論文の面白さとは文章の面白さであり、文章の面白さは研究対象——それは最終的には具体的な物質なりテクストなりである——との関わり方から生まれる。だから自分がすごいと思う論文のすごさが伝わるレビューを2000字で書いてきてもらう。あるいは修論の原稿の一部でもいい。

こういう授業をするのは平倉さんの影響だと思う。彼の演習系の授業はどれもアンチ・カリキュラム的というか、個々人は個々人の問題をもっており、その向き合い方はまだ誰も知らないという前提でなされるので、カリキュラムだと思って来た人は面食らってしまう。でもそれは本当のことだし、とくに院生の場合学校を出てから面食らっても遅い。

夜に家についてまずアイスコーヒーを作りながら、酒を飲むひとは下戸の日常をどのように思い描くのだろうかと思う。

ドラフトは23770字(前日比+830)。往復4時間の新幹線で書けるかと思ったけどそううまくはいかなかった。

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9月26日

一日中眠い日だった。やっと涼しくなってきたから、というのもあるし、学期が始まるのでむりやり朝起きたから、というのもある。あと、何気なくつぶやいたことで1000以上のいいねが付いてしまいいまに心ないことを言われるのではないかと気も休まらなかった。原稿もあまり進まず22940字(前日比+441)でストップ。

商店街の中国人がやっている魚屋でアサリを買う。バット1杯で1000円と書いてあったので500円分でもいいかと聞くと、水を張った発泡スチロールから直接ビニール袋にアサリを入れてくれる。帰ってスンドゥブを作った。ごま油ににんにくの香りを移して豚バラ肉をしっかり炒め、コチュジャン、キムチ、野菜、アサリを入れて火が通ったら水豆腐を入れてダシダで味を付けて煮立たせて出来上がり。卵黄を落として食べる。

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9月25日

数日前に隣の家の解体が始まった。薄い木の壁にトタンを巻き付けただけの家で、2日ほどで基礎だけになってしまう。家を出ると敷地の前に停められたトラックの荷台で男が寝ていた。基礎ももう砕かれて、強い土の匂いがした。

珈琲館。バイトではなくマスターが水を取り替えに来るタイミングでおかわりを注文する。それはいつのまにかわれわれのあいだのエチケットみたいになっている。

きゅうりとマッシュルームのサラダと豚汁を作って、塩鯖を焼く。仕事から帰ってきた妻が日記がおもしろかったと言う。あったことではなく考えたことについての感想を言うのは珍しい。気付けば彼女も2年くらいRIZINを見ている。

原稿は22499字(前日比+1909)。現時点で1日平均1250字(休んだ日も0字としてカウントしている)。いまはひとつのセクションの前半と後半を行ったり来たりしながら書いている。

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9月24日

RIZINを見る。金原がクレベルに勝った試合が素晴らしかった。僕と同世代の朝倉未来や平本連が自分の価値を吊り上げておいて負けて鬱みたいになっているなか、40歳の、PRIDE解体以降の冬の時代を生き抜いてきた金原がまだ日本人が誰も勝っていないクレベルに最後まで何もさせず、なんというか、やっぱりそうだよなと思った。見え方ばかり気にして、エッジが立った仕事しか選ばず出し惜しみをしているひとより、こういう勝とうが負けようがずっとやってきたひとのほうがずっと強いのだ。

格闘技はプロスポーツのなかでも、キャリアを通してできる試合数が極端に少ない。20年選手の金原でもたしか今回で50戦目で、これほど試合ができる選手はとても珍しい。勝たないと呼ばれないし、勝つほど試合を選ぶようになる。他方でこの少なさが「ストーリー」を呼び込み、PRIDEやRIZINの北米の総合格闘技に対する独自性も、各選手のストーリーを興業に編み込んでいくところにある。しかしそうすると、ストーリーのために試合をするような逆転現象が起きてくる。プロモーター的な視点を内面化してしまうわけだ。そこまではいい。しかし朝倉兄弟や平本のつまずきは、それを内面化して「見せる」ことに手を出してしまったことに起因するように思われる。そうするとどうなるか。負けられなくなってしまうのだ。強く同情する。

原稿は一日休み。本を読んで頭をシャッフルする。

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9月23日

外に出ると涼しく、ヨーロッパの空港に降りたようだと思う。セブンでホットのカフェラテを買う。

原稿20590字(前日比+1423)。3万字くらいに収めたいのだが、どうだろうか。最終章なのだが結論という感じでもなく、いままで書いてきたことを素材に別のことを書いている。自分が書いたものが自分が考えるための素材になる。それはそこかしこで起こっていることでもあるが、一冊の長い本のなかではその思考と素材の連鎖自体がひとつのショーになる。

そういえば原稿のなかでちょうど、「それはショーマンシップに反することだと私は思う」と書いた。なぜ僕は哲学者にショーマンシップを要求しているのか。ある種のあけすけさに居直ることを知的なことだと思っている人間への怒りみたいなものが昔からある。

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9月22日

原稿19167字(前日比+1285)。難所は乗り越えたと思う。作業を終えて布団に入ったら続きを思いついたが、寝て忘れる類いのアイデアではないと判断してそのまま寝た。まだ憶えている。

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9月21日

iPhoneの未更新アプリが溜まっていて、一斉にアップデートする。ツイッターの(もうXに変わって2ヶ月ほど経つが、まだツイッターと呼んでいる)アイコンを長押しすると「ダウンロードを優先する」という選択肢が出てくる。かゆいところに手が届くごとに、おのれの矮小さを見せつけられているような気がする、と思うこともなくツイッターを開いた。

原稿は17882字(前日比+1503 )。迷子になっているのは話の目的がぼんやりしているからだと思って下へ下へ書き継ぐのをやめて、節の切れ目に宣言文的なセクションを増設した。同じ迷子でもこれだけでぜんぜん気分が違う。

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9月20日

原稿は16379字(前日比+1465字)。どうにも話がまとまらず、いちど論点整理をしようと思ってworkflowyでメモを書き出すが、それはそれで取りつく島がない感じがして原稿に戻る。しかしやはり話が分裂している。分裂しているなと思いながら書くよりほかない。何が思考と呼ばれるかなんてわからないのだ。

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