12月30日

座談会の校正をして、前編が夜に公開された。後編は31日の今夜公開される予定。12月に入ったときは仕事もぜんぜんなくて、年末年始を締め切りに追われずに過ごすのなんて4年ぶりくらいじゃないかと思っていたら、座談会が入り、コンサートのレビューが入った。断ってもよいのだけどどちらもやったことのない仕事だったので受けることにした。とくにコンサートのほうは僕の美術批評を読んで頼んでくれたということだったし、そういうジャンルをまたいだ繋がりは大事にしたかった。

おせちを食べる習慣はないが、スーパーも閉まるしある程度日持ちのするものをたくさん作っておいたほうがいいような気がしてローストビーフと筑前煮を作った。

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12月29日

昨日に引き続き西早稲田にコンサートを聴きに行った。今日は本番で、やはりお客さんと一緒に聴くと雰囲気が違った。演劇的な要素が組み込まれた公演で、チューバ奏者の坂本光太と演出家の和田ながらの共同制作で、坂本と俳優の長洲仁美によってそれぞれ15分ほどの作品が6つ演奏/上演される。パフォーマンス作品を生で見るのはとても久しぶりだった。それにしてもいつも気になるのだけど、実験的な演劇特有のクスクス笑いって何なのだろう。客席の数人がときおりクスっと笑っている。呼吸と楽音の関係をテーマにした作品を前にして、その鼻腔5センチ分みたいな笑いは何なのか、もっと真面目に聴けと思った。謎のクスクス笑いとフライヤーの束と、客電が灯って醒めた意識に流し込まれるアフタートークがなければ演劇はもっと良くなると思う。

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12月28日

現代音楽のコンサートのレビューを頼まれて、初めて書くジャンルだし一回しか公演がなくて不安なので通しのリハーサルも聴かせてもらうことにした。早めに家を出て高田馬場の喫茶店で作業をして、西早稲田の会場まで歩く。久しぶりに東京の知らない街を歩いていると、岡山から大阪に出てきたときの気分が街にかぶさるようだった。それがよくなかったのかもしれない。呼んだら面白いんじゃないかと思った大和田俊と会場で合流して、演奏を聴いて、また高田馬場に戻っておでんを食べながら感想を話した。別れたのが11時で、山手線から京浜東北線に乗るはずなのだが、巣鴨駅についたあたりで何かおかしいなと思ったら逆向きの電車に乗っていた。反対の電車に乗っていると大崎で回送に切り替わって降ろされて、そこでやっと完全に手詰まりになっていることに気がついた。とりあえず横浜駅まで行ってそこからタクシーで帰ることすらもうできない。コロナ禍で電車に乗るのがすごく下手になったのもあると思う。人が周りにたくさんいると、なんだか群れの動物としての無意識が靄のように立ち込めるようで、気づいたら乗り過ごしたり、見当違いの電車に乗ったりしている。群れだと思っていた集まりはそれぞれ別の家路につく個人で、大崎で放り出されてやっとそのことに思い当たる。とりあえず大崎はあまりに何もないと思って来た電車に乗ったら東京駅方面に向かっていて、そんなところまで行くと帰るのがめんどくさいなと思って適当に降りるともっと何もない田町だった。どうかしてると思いながら目抜き通りらしきところを歩きながら目についたビジネスホテルに予約してないんですけどと飛び込んで、一睡もできず始発で横浜に帰ってきて寝て、ゆっくり風呂に入って、今日記を書いている。もう準備して本番を聴きに行かなきゃいけない。

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12月27日

洗濯物を回して、干しっぱなしになっていたものと、それを干したときに畳まずにまとめて置いただけになってしまっていたものを畳んだ。大変な量でそういうバイトかと思った。洗い終わったものを干してメールを返したりしていると今度は注文していた大きい本棚が届いて、箱を部屋に運んで周りを片付けて作業スペースを確保して梱包を解いた。段ボールは畳んで、ビニール類はまとめて、床の上で組み立てる。今度は今ある本棚のひとつを空にして、片方の足の下にタオルを挟んで引っ張って邪魔にならないところに退避させた。新しいのは2メートル以上あって大変なので設置するのは彼女が帰ってきてからにしようと炊飯器をセットして一息ついて、和風チンジャオロースと味噌汁を作って彼女と食べた。手伝ってもらって本棚を起こして設置場所まで運んで、大雑把にそれぞれの棚のジャンルを再編しつつ本を詰めた。翌朝が段ボールを捨てる年内最後の日なので本棚の箱と、台所の隅に乱雑に積み上げていた箱を潰して括った。ぜんぜん外出しなかったが一日中物を相手にした作業をしていて気持ちよかったし、部屋もすっきりした。

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12月26日

みなとみらいに髪を切りに行った。桜木町の地下から出るともう外は暗くて、ランドマークタワーにつながる長い歩道には海風が吹き付けていてとても寒かった。時間があったのでタリーズでキャラメルラテを飲んで、外の喫煙所に行った。湾に沿う街路樹には電飾がつけられていて、観覧車は刻々と変わる幾何学的な模様を映し出している。ニューヨークの湾岸にも遊園地があったはずだとか思いながら、柱が傾く扇風機のような乗り物から聞こえてくる叫び声を聞いていた。そういう空疎でピカピカとした、しかし途方もない土木のうえに成り立っている街を眺めていると、海を埋めたり人を振り回して叫ばせたりするのに比べてどれだけ書いても1メガバイトにも満たないような自分の仕事がとても心許ないものに思えてきた。日記の公開ボタンを押して、できあがった記事を確認するときも似たような気持ちになる。一日が発光するディスプレイを滑る厚みのない文字になってしまう。

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12月25日

昼はエリンギと春菊とウィンナーで、ちょっと醤油を入れたオイルパスタを作って、夜は鴨を焼いてオレンジソースを作って、クレソンや春菊の入ったサラダに乗せて食べた。鴨と春菊は合う。火入れの調節を魚焼きグリルでやってみた。電子レンジにオーブン機能が付いているが、なんだかそれは信用ならない。フライパンで焼いてホイルに包んで休ませた肉を、芯温を測ってグリルして休ませてを2周してやっと大丈夫そうな温度になった。こういう間延びする料理は他の作業の進行との兼ね合いや、そもそも食事のタイミングを計りかねるのであまり好きじゃない。麻婆豆腐とはぜんぜん違う。麻婆豆腐を作るときは、豆腐を茹で具材を切り香辛料と調味料をすぐ鍋に放り込める状態にして揃え、あとはそれを炒めるだけなので、手数は多いが各ステップにかかる時間は逆算しやすい。鴨のローストは反対に手数は少ないが逆算しにくい。火入れを待つサラダとソースがだんだんみすぼらしく見えてきて、俺は何をしているんだろうという気分になってくる。

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12月24日

大戸屋でカキフライを食べて、夕方のイセザキモールを歩いていると、前を歩いていたおじいさんが転んだ。それはつまずいたとか、めまいがして膝から崩れたとかそういう感じではなく、本来であれば「遊び」として処理されるような微細なズレが適切にフィードバックされず、本人もいつから転び始めたのかわからず、気づいたら手に負えなくなっていた不均衡に静かに降参するように尻もちをついていた。座り込んでいる彼の正面にしゃがんで大丈夫ですかと聞くと、二度目に彼は頷いた。目を覗き込むと焦点は定まっていて、ちゃんと力がある。顔色も悪くないし、デニムジャケットにセーターにニット帽をかぶっていて、それは自分で選んだ服に見えたし、まあ大丈夫だろうと思った。彼の表情に僕に対するかすかな怯えが浮かび上がってきた。いつの間にか転んでいて男に話しかけられている。もういちど聞くと強く頷くので、立たせるのはやりすぎだと思ったのか、彼のまなざしにいたたまれなくなったのか、立ち去ることにした。

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12月23日

直近3日間の日記には何か共通の関心があると思う。ひとことで言えばそれは整合性と連続性の関係ということになると思う。われわれはなるべく世界を整合的に把握する。コップを持ち上げるたびに、それが床に向けて引っ張られているようだと思わないのは、手にかかる抵抗をあらかじめ切り取られたその個体の重さとして登録しているからだ。見慣れたコップを手に取ろうとしてそれがびくともしなければ、私はまずコップがテーブルに釘付けになっていると感じるだろうし、コップの重量が20キロになったとは思わないだろう。つまり、個体の重さとして処理できる閾値を超えると不動性として解釈されるのだ。巨岩は重さと不動性のトワイライトゾーンに位置しているからこそ喚起的になる。山を重そうだとは思わない。認識の整合性とは、重さは重さ、運動は運動、硬さは硬さとして、それぞれの個体に安定的に登録されていることを示している。それは主体と対象のあいだのある種の協定のようなものであって、私はコップに1キロ以上の重さになることを認めない。その意味で連続性は認識のセーフティネットであり、整合性の破れについてのメタ的な協定のようなものだ。コップの重さが机+コップの重さになるのは、コップが20キロになることより机とコップの総重量が20キロになることのほうが自然だからだ。咄嗟の言い訳としての連続性。それは存在論的な連続性とはいちど区別して考えてみる価値があると思う。

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12月22日

新大久保で友達と遊んだ。インド系の食材屋さんでチャイを飲んでパニプリをつまんで、BTSのグッズ屋さんを見て、サムギョプサルを食べて、純粋なしるしみたいに1時間だけカラオケをして別れた。職場でしか会わないバイト仲間と初めて遊ぶような遊び方だ。帰ると彼女の髪がすっかり短くなっていて、30センチほどの毛束を袋に入れて持って帰っていた。ヘアードネーションというものは知っていたが、てっきりお店に渡すのだと思ったら自分で送るらしい。持ってみると思ったより重たくて、猫を抱え上げるときのように支点に重心がくっついてくるような感覚でちょっと怖かった。女子刑務所に送るらしい。カツラになるのだ。

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12月21日

互いに排他的であるということと、両者が共存できるということは両立する。なぜか。世界は広いから。そういう誰でも知っている単純なことが置き去りにされがちな時代だと思う。ちょうど昨日はデカルトの延長概念について書いたが、これもそういう排他的共存の話でもある。『〈情弱〉の社会学』という本をざっと読んで、タイトルから期待していたものとは違ってちょっと残念だった。どうしてわれわれの情報環境は世界を狭く感じさせるのかということが書いてあるのだと思ったら、そういうことでもなかった。SNSを見ていて、YouTubeを見ていて、世界が頭のなかでぎゅーっと狭くなるような感覚、そうした感覚へのアディクションの解析と処方箋があればいいのだけど。しかし「ウチはウチ」なき「ヨソはヨソ」はありえるのだろうか。ツイッターで「あっち行け」とは言えない。いまどこで「あっち行け」と言えるのか。

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