日記〈私家版〉PDF版発売のお知らせ

(写真:竹久直樹)

BOOTHのショップで『日記〈私家版〉』のPDFデータの販売を開始しました。価格は税込み1000円です。

先月、本サイトで書いた日記をまとめた『日記〈私家版〉』を365部限定で発売しましたが、おかげさまでひと月ほどで完売となりました。

これから書店でのトークイベントや選書フェアも控えており、肝心の本がないのはどうかなとも思いますし、今後興味をもってくれたひとに渡せるものがあったほうがいいだろうと思い、PDFデータを販売することにしました。

本文を読むだけならこのサイトで読めるのですが、横長の1ページに1日ずつ割り振ったデザインは、タブレットでスワイプしながら読むのにうってつけだと思います(8インチ以上の画面で閲覧することを推奨します)。

注目記事

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カテゴリー: お知らせ

日記の続き#176

日記を1行だけで済ませた。本当はもう少し書くつもりだったのだが、一文を書いて、もうこれでできているのではないかと思ってそのまま投稿した。タイトルとかタグとか、そういうメタデータが前景に迫り出してくるというか、コンテンツと同一平面にすべての文字が均されるというか、そういう感じがあって、たまにはそういうものとしてこの画面を眺める機会があるのもいいかもしれないと思った。

こないだ京都からの帰りに、EXカードのポイントが溜まってグリーン車に通常料金で乗れるクーポンがもらえたのでグリーン車に乗った。ワコマリアの虎の絵の総柄のセットアップを着ている若者や、透明のキャリーケースにトイプードルを入れている女がいて、ルミネから伊勢丹に行ったような世界の違いがあった。

日記の続き#174

学期が始まって京都に向かう新幹線に乗っている、と、今朝見た夢を思い出した。同世代の子供が集められどこか知らない土地にいて、旅行しているというより連れて来られているという感じで歩いている。隣にいる女の子が走ろうと言うので一緒に走ると、それに合わせて川の反対の河川敷の上に直線の虹が浮かび上がった。彼女はこの土地の人間で、ここでは光と大気の関係が他の場所と違っていて、光に対してある角度で走るとそうやって虹が見えることを知っているのだ。速度を上げると虹が濃くなって、床屋の看板みたいに斜めによじれた色の帯がくっきりする。しばらく走って虹を見てから、もしかしたら彼女は僕とふたりになりたくて走ったのではないかと思う。その可能性について考えながら黙って歩いていると空き地で暗い顔をしたおばさんがテーブルの前に立って「現象」をやっていた。そこはかつてコンビニだった場所で、かつてレジだったところにテーブルを置いて立つ「現象」が彼女の仕事なのだ。というところで目が覚めて、なんでこんな新海誠ふうの夢を見たんだろうと思った。たぶん京都に行くので昨夜から移動の予感があったこととか、西日本と違って東北は主要道が南北に伸びていて、景色の構成要素はそっくりなのに見え方がぜんぜん違ったこととか、ハーマンがフッサールについて書いた文章を読んだこととか、そういう思いなしが混ざったんだと思った。

日記の続き#173

夜中、煙草を買いにコンビニに行くとサンドイッチの棚を見ているパジャマ姿の女が黒いチワワを小脇に抱えていた。

テフロンが剥げてしまったフライパンをゴミ袋に入れて捨てようとすると妻にフライパンは粗大ゴミではないかと言われ、燃えないゴミなんだから燃えないゴミでいけるはずだと言ってそのまま捨てたのだが、翌朝収集ボックスの外に置かれており、やっぱりダメなんじゃないかと言われたが、ダメなら収集できませんという張り紙があるはずだと言ってそのままにしておくと次の日には無くなっていた。しかしなぜかビニール袋から出して中身だけ持って行っており、これはただ誰かが拾っただけなのではないかと言われたが、資源ゴミとして回収されたのだと言った。

ふと、ジムにあるマシンの大半が電力を使わないものであることが不思議に思えた。電力で動くのは有酸素運動のマシンだけだ。無酸素運動は上下運動で、もっとも高級な機構はせいぜい滑車だ。

日記の続き#172

「情報の非対称性」という言葉があるが、対称なものは情報にならないのでこの言葉自体がトートロジーである。私とあなたがもっている情報が同じであるということすら、その同じであるということが有意味であるような第三者的な視点なり状況なりが仮説的にであれ可能でなければそれを情報と呼びようがない。すると反対に、情報の非対称性という言葉があたかも特殊な、あるいは正したり利用したりするべき偶発的な状況を指すものとして用いられ、流通するのはなぜなのかということが気になってくる。おそらくこの言葉が頻繁に使われるのは金融取引や人狼のようなゲームの世界で、このような世界には、情報の非対称性をそのようなトートロジカルな名で呼ぶことで得られるなんらかのメリットがあるのだろう。対称な情報というありもしないものをあたかも中立的なものとして扱うことに。「情報」という言葉は、「対称/非対称」を奇妙なしかたでブリッジする回路として機能している。一方を理想化・中立化しつつ、自身にとっての存立条件であるはずの他方を特殊化する回路として。つまりあらゆる「情報」はある種のカバーストーリーであるわけだが、それによって覆いをかけられているのは何なのか。これは可能な回答のひとつだろうが、実際にあるのは対称/非対称の非対称性ではなくある非対称性と別の非対称性の非対称性であるということだと思う。ここまで書いてこれはドゥルーズ『差異と反復』のシミュラークル論だと気づいた。ところで「平等」とは何か。

日記の続き#171

夕方、彼女が甥の誕生日プレゼントを買いに横浜に行くのに付いていった。僕の甥でもあるわけだが、結婚したら親と兄姉が増えてその子供が甥になるという形式性、というより、自分が当のその形式の一項になっているという事実と実際の付き合いのなかで人として接するときの様々とが、いまだにすっきり噛み合っていない感じがする。それをなんとか繋ぎ止めているのがプレゼントだということなのだろうが、そんな醒めた「構造」的な理解は先のアンビバレンスを反復しているだけだ。この夏に松江に滞在して——彼女の祖父が住んでいたマンションの一室を自由に使わせてくれる。そこからは宍道湖が見下ろせて、花火がよく見えた——初めて姉夫婦と甥にも会った。ゴムボールを蹴って遊んだり、なぜか料理が上手いということになっていてみんなに筑前煮を作ったりした。プレゼントはノースフェイスの温かそうな上着にした。

日記の続き#170

珈琲館で作業をしていると窓の外を黄色い何かがひゅっと落下して、何かと思うと横にどけていたアクリル板が窓に寄りかかるように仰角に倒れて、それに合わせてそこに映り込んでいた照明がひゅっと下に動いたのだった。なおしてしばらくするとまたひゅっと落下して、また騙されてぎょっとした。

日記の続き#169

トークのアーカイブ動画を見て、なんだか毛の量が増えて頭が奥行き方向に伸びているみたいで髪を切るべきだなと思ったので美容院を予約した。朝まで起きていてそのままみなとみらいまで出かける。ランドマークプラザの一角でアジア各国の子供が書いた絵日記のコンテストの展示をやっていて、どれも絵が上手で驚いた。スタッフがゆっくりご覧になってくださいと話しかけてきたので「はい」と言って見た。また話しかけてきてせっかくゆっくりご覧になっていただいているのでアンケートにお答えいただければ日記をまとめた冊子を差し上げますと言うので回答した。どうやってこの展示を知ったかとかいう通り一遍の質問の後のほうにこの企画に教育効果はあると思うか、子供が見ると良いと思うかという質問があってそこは空白のまま渡した。美容院でシャンプーをしてもらって、ひととおり切ってドライヤーをすると急に嵩が増して美容師が驚いてあらためてたくさん梳き始めた。退屈させないためかタブレットで退屈な動画が流れていて、眼鏡を外しているのでよく見えなかった。インスタグラムでよく見る人を馬鹿にしたような10秒ほどのレシピ動画なのだが、おそらく長ネギの青いところに挽肉を——わざわざ生クリームを絞る袋みたいなやつで——入れて焼いていた。近くのスポーツショップで服を買って、タリーズで日記を書いて帰って寝た。

日記の続き#168

昨夜、珈琲館を出て歩いていると、「お客様、イヤホン」という声が聞こえて、振り返ると店長が僕のイヤホンを持っていた。ありがとうございますと言ったあと、どうせまたすぐ来るのにと思った。今朝、小さな地震があって、ツイッターに「揺れだ」とつぶやいてから、どうして「揺れた」じゃないんだろうと思った。このふたつの話は似ている。

日記の続き#167

珈琲館。日記メモを開いてみたが何も追記しておらず、頭のなかで昨日から今日までのことを辿りなおしてみる。今はもう夜8時で、書いているのは昨日の日記で、今朝珍しく8時くらいに起きたと思ったら昼にものすごく眠たくなって起きたら7時だった。昨夜寝たのは朝4時で、それまでは作業をしたり家でゆっくりしたりしていた(昨日もこれくらいの時間に珈琲館にいたはずだ)。台風が去って急に涼しくなったのに巻き込まれて、日々がサイクルではなく出し抜けな眠気や空腹の到来にすり替わって厚みが吹き飛んでしまったかのようだ。おそらくそもそも——贅沢な話だが——生活リズムを預ける添え木のようなものが存在しないからこういう出鱈目な感じになるのだが、そのなかでカフェインやらニコチンやらストレッチやら筋トレやらで自律神経をあっちからこっちから引っ張ったり緩めたりしているわけで、世話がないというか、そういう世話のなさ——こうして二歩目ですぐ抽象名詞化する癖がある——に投げ込まれてある感覚が結局のところ好きなのだと思う。