気散じさんのためのiPad mini執筆術

ここ最近対談やら遊びやらで都内に出て人と会う機会が多く、生活リズムも気温も乱れており、疲れが出たのか数日前から風邪気味です。

ちょうど以前から予約していた耳鼻科の診療日が月曜日で、そこで鼻と喉の炎症がかなりきているということで抗生物質をもらって飲んだからか熱が出たりはしていないのですが、頭がふわふわして、体に力が入りにくいです。声もいつもと違うところから出ているような。

先日出た『新潮』に掲載されたヴェネチア・ビエンナーレ評は好評なのですが、エゴサで見つけるより直接伝えられる感想のほうがずっと多く、連載「言葉と物」のときからそうなのですが、もうSNSって感想空間じゃないのかなと思います。SNSが感想空間だった20代を過ごしてきた身としては寂しいものだなと。僕自身去年からずっと毎日何かの告知や宣伝をしているようで、人様のことはぜんぜん言えないのですが。

宣伝といえば、来週金曜、21日に批評家の福嶋亮大さんとの対談があります。面識もないし喋っているところを動画で見たこともないのでどんな感じになるかわかりませんが、ヌルい話にならないことはたしかです。仲良しどうしが関係性を再確認するだけのようなトークばかりですからね。あと、このブログももっと読んでほしいので購読よろしくお願いします。

それで、最近はずっと、外での作業はもっぱらiPad miniでしています。僕は仕事の大半を近所の喫茶店でやっていて、締め切りに追い込まれたとき以外は家ではメールの返信等の雑務くらいしかやりません。

これまではMacBook Airを持ち歩いて、家に帰るとそれを閉じたままモニターに繋いでクラムシェルモードでデスクトップ的に使うというかたちでやってきました。仕事(?)として文章を書くようになってからの7, 8年ずっとこれだったかも。

これはこれでシンプルでいいのですが、USB-Cハブを抜いたり繋いだりすることも煩わしいと言えば煩わしいですし、なによりMacBook Airは大きくて重たいです。それに、僕のような基本的にはテキストデータしか扱わない人間にとって、ラップトップPCというのはそれだけでオーバースペックで、よいしょと開いた画面の広がりですら、大袈裟に言えば家具の組み立て説明書を広げたような、ここから順番通りに何かを選んでやるべきことをやらねばならないのだという圧のようなものがあります。それと同じ理由で反対に、スムーズにいろいろできるのですぐに気が散ってしまう。

iPad miniを外出専用機とすることでこうした困難は解消しました。この文章では「A4サイズからの解放」「縦置きという解答」「マウスなしという暴力」「心配ない。われわれにはギガぞうがいる」「オススメアプリ」というトピックに分けて、iPad miniで執筆することの軽やかさ・静けさについて書こうと思います。安い・小さい・軽いという以上の、ラップトップにはない積極的なメリットが、iPad miniにはあります。ぜひ参考にしてください。ガジェット系ブログみたいで楽しいですね。

【あてなき企画書】哲学すること/しないこと入門

よく、それがまだ何なのかわからないタイトルを思いついて、とりあえずツイッターにメモしたりする。本なのかもしれないし、エッセイなのかもしれないし、レクチャーなのかもしれないし、場所なのかもしれない。「スパムとミームの対話篇」とか「郵便的、置き配的」とかはタイトル先行で書いた文章で、あるいは『非美学』も「非美学=麻酔論(Anesthetics)」というかたちでタイトルだけはずいぶん前からストックしていた。まだ内実のない言葉をワーキング・タイトルとして置いて、それを埋めていく過程で思いもしなかったところに連れて行かれる。僕はプロットを作るとどうにも書いている気がしなくて何をしているのかわからなくなってしまうのだが、この書き方はプロットを作ることの代わりのようなものなのだと思う。

「哲学すること/しないこと入門」もいつか何かにはなる言葉だと思うが、これはもう見るからに本のタイトルなので本になるとして、どんな内容になるのか、「企画書」というかたちでフォーマットや章立ても含めて構想してみようと思う。良し悪しだけど、僕はどうしても企画レベルから考えないとコンテンツの方向性が定まらない。トータルな見せ方から切り離して文章を文章として書くことに魅力をぜんぜん感じないのだ。

大ざっぱに言って、哲学はいつも、哲学することが偉いことで、哲学しないことはダメなことなのだとしてきた(ハイデガーの日常性への「頽落」という言い方にもそれは端的に表れている)。哲学入門書ともなれば、あからさまに権威的な見た目はしていないとしても、「誰でもできるんですよ/誰しもしてるんですよ」という優しい感じもそれはそれで、かえって哲学しないことの後ろ暗さを強めている感じがする。

はたして哲学すること/哲学しないことをどちらも等量でリスペクトするとはどういうことなのか? そこから始めることによってこそ哲学の実践性を考えることができるのではないか? というのが、この本のテーマだ。どこからこの問いにアプローチするべきだろうか。

性的なのは、まなざしなのか

2月は思ったよりバタバタして更新が遅くなってしまいました。とはいえちょこちょこ準備はしていたので、今日中にふたつ記事を上げようと思います。エッセイ、論考、習作、企画記事等いろいろやっていくのでぜひ講読よろしくお願いします。

今回は先日「赤いきつね」のアニメCMがSNSで炎上しているのを見て考えたことについて書きます。

僕はふだん性的なことにかんする話はほとんどしていなくて、原稿で書いたのも『ひとごと』に収録された『全裸監督』論くらいだと思う。とくにSNSはそういう話を気軽にできる場所ではないし、僕自身は何にでも口を出してタイムラインがニュースフィードみたいになっているひとを見るとキツいなと思うのでホットな話題について逐一何か言うということはしない。

今回のCMも、燃やされた側にとっても怒っているひとにとってももらい事故のようなもので、両者ともがもらい事故だと思っているからこそがぜん燃えるのだが、とにかくこのCM自体をこまかく表象分析してもしょうがないと思う。むしろ現代の広告や表現や言説の環境のなかでこういうことはこれからも頻発するだろうし、「まなざし」の奪い合いというその闘争の形式自体には出口がないだろう。この文章ではその出口のなさについて、そして性的欲望はそもそも「まなざし」なるものに還元できるのかということについて考えてみよう。

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カテゴリー: 日記

1月26日ver.2

深夜、お腹が減って、夜中でも開いているいちばん近所の店が松のやで、その松のやに行った。とんかつ定食の食券を買って水を注いで席について、これから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝する店内放送を聴きながら番号で呼ばれるのを待っていた。

壁にはこれもまたこれから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝するポスターが貼られており、店を見渡すと、松屋グループの廃油が飛行機の燃料に使われている旨を知らせるポスターも貼られていた。なんと年間で東京大阪間を238回飛ぶ量の廃油が提供されていて、それは「FRY to FLY Project」と呼ばれているらしい。久しく見ない愉快なニュースに元気が出た。ピンチョン的なユーモアというか。豚を揚げる。飛行機を飛ばす。なんだっていいのだ。

1月26日

深夜、お腹が減って、夜中でも開いているいちばん近所の店が松のやで、その松のやに行った。とんかつ定食の食券を買って水を注いで席について、これから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝する店内放送を聴きながら番号で呼ばれるのを待っていた。

壁にはこれもまたこれから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝するポスターが貼られており、店を見渡すと、松屋グループの廃油が飛行機の燃料に使われている旨を知らせるポスターも貼られていた。なんと年間で東京大阪間を238回飛ぶ量の廃油が提供されていて、それは「FRY to FLY Project」と呼ばれているらしい。久しく見ない愉快なニュースに元気が出た。ピンチョン的なユーモアというか。豚を揚げる。飛行機を飛ばす。なんだっていいのだ。

論より証拠より説説

水曜日のダウンタウンの最大の歴史的な発明は、ドッキリやリアリティショーの新しいかたちにあるのではなく、「説」という言葉の使い方にあるのではないかと思う。

開いた口を模したフレームのなかに大正レトロ的(?)なキッチュなフォントで書かれた「説」はもはやネットミームにもなっている(いまググったらすぐに「ロマン雪」というフォントだと出てきた)。特徴的なのは「〇〇という説」とか「〇〇の説について」ではなく、「ビートルズの日本公演で失神した人、今でもビートルズ聴き続けてなきゃウソ説」や「ドッキリの仕掛け人、どんなにバレそうになってもそう易々とは白状できない説」のように、長いセンテンスの末尾にただ「説」と付けるという、ちょっとつんのめるような感覚のあるフォーマットを使っていることだ。

これはおそらくライトノベルのタイトルから来ているものだろう。たとえば「転校生が死んだ姉にそっくりでどうしたらいいのかわからない件」(思いつきで書いた架空のタイトル。ちなみに僕には姉も妹もいないのでシスコンではない)みたいな「件」と水ダウの「説」の用法は、直接の参照関係があるというより、サブカルチャーのなかで培われた言語感覚としてつながっているものだと思う。

加えて、「ドッキリの仕掛け人、」や「失神した人、」のように名詞句を冒頭に置いて助詞を省く書き方はツイッター構文そのままだし、タイトルのフォーマットだけ見ても、バズるべくしてバズったサラブレッド的なミームであることがわかる。

しかしより重要なのは言うまでもなくタイトルのフォーマットではなく、「説」とその「検証」というこの番組の内容がもつ誘引力で、ここには陰謀論の跋扈や保守とリベラルの共依存的な泥仕合といった同時代的な社会状況を考えるヒントがあると思う。

ところで、『チ。』と『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』の作者である魚豊(ずっと「うおとよ」と読んでいたが正しくは「うおと」のようだ)こそ、現代でもっとも深く「説」の問題に切り込んでいる作家だろう。『チ。』は文字通り地動「説」をめぐる闘いの話であり、『ようこそ!FACTへ』は陰謀論というトンデモな「説」がもつ危険なもっともらしさを扱っている。この2作に共通するテーマは、まず説さえぶち上げてしまえば、そしてそれが人々の欲望をある程度焚き付けるものであれば、論も証拠もいくらでも後付けでき、人々の急進性・狂信性をどこまでもドライブするということだ。

したがって『チ。』と『ようこそ!FACTへ』の関係は、前者が社会的しがらみを潜り抜けて「科学的真理」に到達した人々を描き、後者が行き場のない社会的憤懣によって「見せかけの真理」に踊らせられる人々を描くというような、単純な色分けで済むようなものではない。むしろ本当に恐ろしいのは、両作品がメビウスの輪のように互いの背後に滑り込み合っていることだろう。このような複雑な関係が、『チ。』は巨悪との闘い、『ようこそ!FACTへ』はメンターとの出会いによる主人公の能力の覚醒という、少年マンガ的でさえある広く共有されたテンプレートに沿って作られていることも驚きだ。

とりわけ『ようこそ!FACTへ』は、主人公が陰謀論に絡め取られていく過程のディティールを通して——「良識的」な人々にある欺瞞も含めて——現代社会を描いたドキュメントとしても読めるものだ。

(*以下『ようこそ!FACTへ』結末の記述あり。そのあと僕なりの「説」地獄への処方箋を示します。)

主人公の渡辺は、高卒の非正規雇用社員として働く自身の境遇に不全感を抱えながらも、「論理的思考」が得意であるという自認を拠り所として生きている。そして彼にとって論理はロジカルツリーという各要素のつながりや分岐を矢印で図示したダイアグラムに宿る。

このダイアグラムの危うさは、あらゆるタイプの関係を矢印ひとつで因果関係に回収してしまうことにあり、ディープ・ステートとの闘争を画策する組織FACTの「先生」と出会うことで渡辺の能力は覚醒する。たまたま隣り合っていること、たまたま似ていること、たまたま繰り返されることが理由・意味の連鎖に絡め取られていき、世界全体がひとつの必然によって統べられる。とはいえこれは「伏線」の回収や「考察」に熱中する傾向と別種のものではなく、陰謀論者を他者化しないという倫理は本作を貫いている。少年マンガ的な物語類型の使用は批評的なパロディでもあるだろう。

興味深いのは、本作において必然性への閉じ込めが、具体的な距離感あるいはスケール感の失調として描かれていることだ。「東京S区第二支部」という矮小なスケールでの出来事と世界全体の不均衡が短絡するが——しかしそのような不条理な短絡なしに、ひとは「世界をよくしたい」などと思えるだろうか——反対に、渡辺の日常への回帰は遠いものの遠さ、近いものの近さの自覚としてなされる。それは夕日とピザまんの、滑稽な美しさをたたえた対比にも表れているだろう。しかし説明的に描かれているわけではないこの対比をこのように解釈して距離を潰してしまうこと自体がすでに多かれ少なかれ陰謀論的であり、魚豊の資質にはある種の底意地の悪さと区別できない冷徹なリアリズムがあると思う。

ところで、『ようこそ!FACTへ』のテーマが〈誰もが程度の差はあれ陰謀論者である〉ことにあったとするなら、僕が『群像』で連載していた「言葉と物」(とくに第2-3回)のテーマは、〈誰もが誰かを陰謀論者とすることで自身の「現実」を安定させている〉ことであった。前者が「説」の排他的な感染力を問題としているとするなら、後者は「説」をもつことへの畏れとないまぜになった嫌悪感を問題としている。

それはたとえば「思想つよ笑」という揶揄に端的に表れている。誰もが誰かを「狂信者」にすることで自身の実生活の「実」性を護っている。そして、「テロとの戦争」の時代から「コロナとの戦争」の時代への推移と軌を一にしつつ、もはや狂信者は特定の地域や人種として代表されず、誰もが自身にとっての「アルカイダ」と闘っている。引用リツートやスクリーンショットという武器で。

言説の無力化装置としての文化について

どうも、あけましておめでとうございます。日記の更新をやめてから半年ほどが経ちました。そのあいだに『非美学』、『眼がスク』文庫版、『ひとごと』が出て、「言葉と物」の連載が完結し、10年代から考えてきたことにひと区切りついた感じがします。ツイッターはまだ思考の種を撒く場所としても使うつもりだけど、種から苗にするための場としてこのサイトを使っていこうかなと思います。これからここで書くものは基本サブスクにして、月4本くらいをめどにエッセイ的な文章を書いていくつもりなので、ぜひ講読よろしくお願いします。

さて、年始早々おどろおどろしいタイトルだが、最初の記事ということでトーンを測りながらなるべく気軽に書いていこう。

文化って言説を無力化するよなあというのは、ここ数ヶ月のあいだ、毎日数秒ずつくらい頭をよぎっていたことで、しかしそれが深まるわけでも展開されるわけでもなく、ただ「言説の無力化装置としての文化」という言葉が、ポップアップしてきてはスワイプする、つねにいくつか僕の頭の中にあるそういう言葉のうちのひとつになっている。

言説が無力化されるということは、文字通り、「言葉から本来持つべき力が抜け落ちる」ということで、それはたとえば、ものすごく「正しい」意見を見かけたときに感じるある種の乖離感として現れる。

こういうことを考えるきっかけになったのが、Kindleで読みやすい本を探していたときに見つけた『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)で、この本でふたりは、戦後日本について、天皇制について、冷戦崩壊について、アメリカの中東政策について、いまでもほとんどそのまま通じそうなくらい正しい話をしている。とはいえ読んで数ヶ月経ったいまでは具体的な内容はぜんぜん憶えておらず、この本が僕に残したのは「めちゃめちゃ真っ当なことを言っていると思うけど、この正しさってなんにもならなかったよな」という感慨だけだった。ちょっとちぐはぐなたとえだが、ものすごいスピードで互いにさまざまなテクニックを駆使しながらラリーをしている卓球の映像で、しかし延々どちらも球をこぼさないので一向に点が入らず、気づかないうちにどこかでこの映像はループしているんじゃないかといぶかしんでしまうような閉鎖性がそこにはあるように思われた。テクニックはすごい、観ていて飽きない、でもゲームは進まない。

2019-2024年という時代について——2024年10月の近況

今年もあと2ヶ月、早いものだなあ、とはまったく思わず、とっとと終わってくれと思う。でもまあ、やっと区切りがついたのに終わったら休めないからこれでいいのか。

今日、「言葉と物」の第11回にして最終回のゲラを編集者に返した。この回はもともと8月末締め切りだったのをいまは書けそうにないとひと月延ばしてもらい、さらに9月末締め切りを2週間ほど延ばしてもらってやっと初稿が書けた。しかももともともう1回書く予定だったのを急遽最終回に変えてもらって。

どうにも書けなかったのは、まだ終わっちゃダメだと思っていたからで、二度目の締め切りのあとやっと、これまでの10回ぶんをじっくり読み返して、これはもう終わっているのだということに気がついて、気がついたとたんに自分を慰めてあげたい気持ちになり、これまで書いたことをひとつずつ集めなおして、それが全体としてどういう問題に応答するものなのかということを、新しい観点から書いた。必要だったのは新たな解答ではなく、これまで書いたものが解答であるような問題だったのだ。「言葉と物」というタイトルからして、それ自体はテーマというより方法論的な指針を指しているが、やっとこの連載がどういう問題にドライブされているかということに名前を与えることができてほっとしている。

少しさかのぼって9月、もうすぐ刊行される『ひとごと——クリティカル・エッセイズ』の序文を書いた。これももう、僕としては完全に「総括」で、2017年あたりからこれまで書いてきたこと、『非美学』も連載も単発原稿も日記も含めてすべて、8000字ほどのこの序文が圧縮・代表しているということでいい、これを読んでくれたら僕のことはもうわかったということにしてもらっていいと思えるようなものになった。総括なんかせずに「伸びしろ」感を出して引っ張ったほうが得という世界だけど、個人的にそういうタイミングだからというのもあるが完全に総括の季節で、そういう時期にこうしてモニュメンタルなものを書けてよかった。

今年の初めに最終章だけで半年くらいかかった『非美学』を書き上げて、6月に刊行されて——同月に日記が終了し——8月に新たな鼎談を付した『眼がスクリーンになるとき』文庫版が出て、来月『ひとごと』と「言葉と物」最終回が刊行される。あと日記と連載の書籍版が来年出せれば、それでひとつのチャプターが区切られるだろう。そのあとのことはそのあと考えようと思う。

もしかしたら、これまでのところの書き手としての自分のいちばんの功績は、「2019-2024年という時代をちゃんと書いたこと」になるのではないかと思う。コロナ禍以降と呼ぶのがいちばん手っ取り早いのだが、やっぱり2019年の京都アニメーション放火事件や「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」を巡る騒動からひとつながりだと捉えている。生成AIの急激な発展と普及、ウクライナとパレスチナへの侵攻、リベラルな普遍主義の終わり……この時代のことを『非美学』、『ひとごと』、「言葉と物」、そして日記という4通りのしかたで圧縮できたことは、ラッキーと言うほかないが、これからどんどん折に触れて立ち返られるものになると思う(思う)。

なかでも、とりわけ僕にとっては、日記は日増しに不気味な存在になっている。2021年1月から2024年6月という、個人的にも『非美学』リライトの苦闘のなかで前後不覚になっていた3年間が保存されているというのは恐ろしいことだ。あれが本になるとはどういうことなのか。

ともかく、直近のものとしては来月初旬の『群像』に載る「言葉と物」最終回、中旬に出る『ひとごと——クリティカル・エッセイズ』をよろしくお願いします。いまちょうどフィロショピー第2期の講座も販売開始しているので、こちらもぜひ。来月・再来月にかけて書店トークイベントや書店フェアの開催もいろいろ予定しております。詳しい告知はツイッターで追っていただきたく。

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自由は自由でええけど、なんで文章なん?

ちょっと元気がなかった。というか、たんに疲れているんだと思う。『非美学』が出てからの2ヶ月、エゴサリツイート宣伝エゴサリツイート宣伝の日々で、無職だから誰とも会わないし、ぐーっと狭いところに入っていって、その反動が出ているのだろう。一人暮らしに戻ったように朝8時に寝て夕方起きて、夜中に街を歩き回って音楽を聴いて、妻にもいぶかしがられている。そういうのは僕にとっての帰省みたいなもので……という話を家族にするのはくすぐったいが、幸いにして24時間ジムに登録しているので真夜中に出かけても不自然ではない(たぶん)。


さっき、ベッドに入ってから2時間ほどで汗だくで目が覚めて、それで、自分が回復していることに気がついて、これを逃してはダメだと思って二度寝はせずに外に出て、珈琲館でこの文章を書いている。ここ2週間ほど、エディタというものをまったく開く気になれず、ちょうど昨日「言葉と物」の編集者に今月末の締め切りにはとうてい書けないと言って1号休載させてもらうことにしたのだが、こんなにすぐ元気になるなら書けたのにとも思うし、当のその締め切りが不調の原因だったのだという気もする。そういうのは結局よくわからないし、いちばん楽な合理化で済ましておけばいいようにも思う。どうせわかんないんだから。


目が覚める前に、夢を見ていた。スーパーのお菓子コーナーで「さやえんどう」を探しているのだが、ぜんぜん見つからないという夢で、もう「サッポロポテト」でいいやと思ってそちらを探すとようやく「さやえんどう」があって、しかしそれはパッケージも緑一色の「無印」化したもので、おまけの何かが剥ぎ取られた痕跡もあり、完全にがっくしきたところで目が覚めた。普段僕は夢をまったく見ないが、夢を見るときはいつも目覚めがいい。悪夢ならなおさら。たぶん寝汗をかくような代謝のありようと元気が連動しているんだと思う。


この間いろんなことを考えた。自分のことばかりだが。大半は流れ去っていったが、紙のノートにいまの気持ちを書いたりもした。紙のノートはよくない。いきおい元気がなくなるとパソコンを開かなくなり、それが何か着実な一歩でもあるかのようにノートにいろいろ書いたりするが、それだって逃避で、スマホもしっかり手もとにあるわけで、そんな状況で「自分のためだけに」と自己憐憫込め込めで書いたって体にいいわけがない。言葉なんだから他人の目がないと。やっぱりこうしてパソコンでエディタで、手書きの揺らぎや手応えなんかない、見るからに公共的な游ゴシックでぱちぱちと手放していくのが文章というものだ。どこを向いてもセルフケアの時代だが、それだって体のいい自己憐憫の口実が商売になっているだけだとも言える。甘えるな!というのはもはや《絶対に言ってはいけないこと》のカテゴリーに入っているが、それだってそのほうが儲かるから、とだって言えてしまうのだ(言えると言っているだけですよ、僕は)。


いやー、しかしやっぱりMacBookのペラペラのキーボードで振り返りもせずに書いていくと体にいい感じがしますね。とはいえこの数週間で悩んでいたのはまさにそのことでもあって、僕は『非美学』を出してディシプリンとしての哲学には(いったん)ケジメをつけて、ここ数年は美術批評みたいなジャンル前提の批評すら書いていなくて、「言葉と物」初回の冒頭に謳ったようにある種の純粋散文の実践みたいなものに舵を切っていて、日記もその延長にあったわけだけど、そういう、決まった読者がプールされたところに球を投げるのではないやり方を、ずーっとやっていくのはそれはそれでめちゃめちゃタフなんじゃないかということに、ひとことで言うとまあ、ビビっていたんだと思う。僕のあらゆる文章は、世の中に「言うべきこと」があるかのように振る舞い、そのゲートキーパーを自認しているような人間への憎悪によってドライブされている。かといって些細なことを愛でることこそが重要なのだという方向にもいかないし、そのつどめちゃめちゃタイトロープなのだ。しかしいったい誰がそれを喜ぶのか?


まあ現実問題として、哲学にせよ美術にせよ、べつにもはや打てば響くような業界でもなく、そのなかで仕事を回し合ってもしょうがないというのもあり、僕が自分の仕事としてこういう感じでやっていくのはたんに乗りかけた船ということでなく間違いではないと思う。だとしても、だとしても、だとしても、「ただの文章」で生きていくって、完全に虚業だし、音楽みたいに誰かと一緒に演奏したり目の前の人間を楽しませたりするわけでもないし、書いているときはひとりで、読んでいるときも読者はひとりで、それでずーっとやっていくってヤバくないか?小説ですらないし、と考え込んでしまっていたのだ。「言葉と物」の最初に書いた、批評は「もっとも自由な散文」なのだという言葉がベタにブーメランになって返ってきたわけだ。自由は自由でええけど、なんで文章なん?(岡山弁)と。


というようなことを考えたのは、こないだ菊地成孔さんと対談したこともきっかけになったと思う。生粋の非インターネットネイティブの、何十年も舞台に立ってきた人の空間を掌握する力はすさまじく、虚業者としてのレベルがぜんぜん違う。それは喋りの面白さとかそういう話ですらなく、音楽(あるいはセックス)というワイルドカードを持っているかどうかという構造的な話で、最後に菊地さんは僕は人類みんなが音楽家になるといいと思っているという夢を語ってらっしゃって、素晴らしいなと思ったのだが、僕は人類みんなが哲学者になればいいなんてまったく思ってないし(そんなことを言う人間は詐欺師だ)、むしろ『非美学』は「哲学しない」ことの領分を護るための本でもあった。彼のパワーに完全に当てられて、マジで自分は何らかの楽器をやるべきなんじゃないか、いま菊地さんはサックス初心者のクラスとかやってないかしらと調べたりまでして、しかしそれだって僕がもともと感じていた無力感に彼の言葉がぱかっとはまっただけかもしれず、どっちが先なのかはやっぱり問うても詮ない。


文章って、虚業にしてもあまりに半端じゃないか……そもそも存在が偉そうだし……という悩みは、構造的にはこの先も消えることはないだろう(ちょっと音楽をやろうがそれは変わらない。やっぱり自分の夢を賭けるかどうかは大きな違いだ)。悩みは消えないだろうが、いまはもう悩んでいない。なんかそういう気分じゃなくなったから。音楽のおかげで?

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やんわり移される

コンサータを処方できる病院にやんわり移された。うちでは出さないことにしているからと。覚醒剤みたいなものだからと良識的なことを言うが、要は紹介というかたちを取った厄介払いだ。それが昨日で、今日さっそく新しい病院に行った。有隣堂で柴崎友香さんの『あらゆることは今起こる』を買って読んで診察までの時間を潰す。たぶん僕もそうなんだろうなと思う。朝起きて椅子に座ると、これからやるべきこと、やりたいことが遠近を問わず頭に押し寄せてくる。いったんコーヒーを淹れよう。淹れて机に戻ると、またゼロから組み立てなおさないといけない。トイレに立ってもそう。スマホを開いてもそう。なによりまず、ご飯も食べないといけない。買ってきて食べるか、出かける準備をして外で食べてそのまま外で作業をするか。仕事をするために考えることが、どんどん自分を仕事から遠ざける。いっそのこと朝ご飯は抜いて、もう出てしまおうか。でもまださっき淹れたコーヒーは半分以上残っている。また遠ざかる。毎日そんな感じで、これはヤバいのではないかと思ってきた。柴崎さんは20年違和感を抱え続けていたらしい。予約の時間が近づいて、ベローチェを出るときに有隣堂の袋を店のゴミ箱に捨てる。受付で手渡される問診票に自己評価についてのアンケートがついていて書き込む。不思議なほどおどおどした医者が、診察室から腰をかがめて直接僕を呼びに出てきた。昨日の病院からの紹介状があったからか、すでにコンサータを処方する前提で話が進む。結局僕は、MBTI診断より設問が少ないようなアンケートしかエビデンスを採集されていないが、そんなものでいいのだろうか。柴崎さんは脳波の検査まで受けたようだが。症状を聞かれ、考えるほどにやるべきことから遠ざかってしまって、本来1日3-4時間は執筆だけに充てられる体力的・時間的余裕はあるはずなのだが、1時間できればいいほうなのだと言う。子供の頃は? 子供の頃はずっと上手くやっていたけど、宿題はまともに出せたためしがないし、仕事に要する思考のとりとめもなさが、そのまま仕事の手前に染み出してくるようで、ここ数年で酷くなった気がすると話す。まずは18ミリ。2週間後に増量を検討。どうして処方したがらない病院もあるのかと聞いてみる。依存性があるからと言うが、実際危険はそんなに大きくないし、バックアッププランがあるわけでもないからほっとくだけになってしまうのだと言う。コンサータ処方に義務付けられた登録証の仮のものをもらって向かいの薬局で薬を買う。自立支援に申請すると自己負担1割で買えるようになると伝えられる。ドトールに寄って1錠飲んでみる。「2024/07/02、17:12、コンサータ飲み始め」とスマホにメモした。

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