7月30日

また連載の締め切りが迫っている。日記はすでにある気持ちの波を細切れにするが、毎月の連載はそれ自体がひとつの波を作る。月末が締め切りで、20日頃に動かし始める。すぐに3000字くらい書けて、そこからその先に予感されるものの不確かさへのおびえと、本当は確かなのだが向き合うことからの逃避のあいだを揺れる1週間ほどがある。いま5000字ほどで、まだ半分しか書けていない。

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7月29日

妻と一緒に「ポケモンスリープ」をやっていて、どうして食べ物が野菜ばかりなのかと聞くので、カビゴンはヴィーガンなのだ、ポケモンの世界には人間とポケモンしか動物がいないからと言った。

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7月28日

昼に興奮した妻に起こされて、TWICEの誰かとのハイタッチ券が当たったということだった。それも豪華版と通常版どちらも自分の好きな人の券が当たっていて、どうしてこんなことがと聞くので、思いが通じたんやと言いながら、現代思想は偶然性に大きな負荷をかけているわりに幸運(luck)については何も言わないなと思った。

布施くんと八木くんに誘われて新宿で飲むことになる。新宿駅から思い出横丁にたどり着くのに20分くらいかかる。東の南のほうにいて、西の北のほうに出ねばならないのだが、とりあえずアルタのほうまで北上して地下で線路をくぐろうとするのだが小田急が閉店していて出口が見当たらず、モード学園まで行ってやっと地上に出て、ただのデカい壁になった小田急に驚きながら駅のほうに戻ってやっと合流した。

居酒屋、花園神社の階段、居酒屋で朝まで過ごす。ふたりともずーっと酎ハイ、ホッピー、ハイボールを飲んでいて、だんだん曖昧になっていく。最後のほうは僕が言ったことの4分の1を頑張って希釈して1にして返すゲームのようになり、お酒ってそんなに飲むものなのと聞いた。でも10時間ずっと同じ調子で話し続ける僕のほうが変なのかもしれない。普段も起きている時間だから眠くなるわけでもなく。

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7月27日

ストレッチ、筋トレ、セルフマッサージに関連する整体師、武術家、ダンサー、スポーツトレーナー、パワーリフター、ボディビルダーの動画を見てやってみるのが好きなのだが、アメリカで機能神経学(脳機能に特化した運動生理学だろう)を学んで日本で競馬のジョッキーをやっているらしい、サイコパスっぽい話し方の小柄な男が紹介する呼吸のエクササイズが面白くて最近よくやっている。それはただ、息を吸わずに息を吸うエクササイズで、舌の根で気管を閉じたまま息を吸う力を目一杯入れる(鼻をつまむと耳によくないので注意)。すると顎が引かれて肩が下がり、肩甲骨が寄って肋骨が開く、いわゆる「いい姿勢」に自然となる。呼吸を筋肉的な運動として意識化することが肝なのだと思う。呼吸の素振り、フォーム練習ということだ。呼吸にもフォームはある。でもそれは、平倉さん的な言い方だが、身体内外の他の諸々のフォームに巻き込まれて潰れてしまう。生活習慣病という言葉があるが、生(活)−習慣−病とバラすとそれはもうドゥルーズ的な概念である。息を吸わずに息を吸うのは、生理的なものから社会的なものまでをまたぐフォームの係争状態としての習慣の中心を体に置きなおすことだ。習慣をフォームとして捉え返すこと。これは「治癒」のもっとも一般的な定義と言えるかもしれない。

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7月26日

前期最後の京都、と思ったら、他の非常勤講師と一緒にやっているほうの授業がどういうわけかzoomでやることになって、そのひとコマ前で受講者もかぶっている僕ひとりでやっているほうの授業もそうすることにした。朝にミーティングのリンクを共有して横になる。起きるともう20分遅刻していて、学生からミーティングのリンクは合っているかという連絡が来ていた。申し訳ない、寝てしまっていた、30分から始めますと返して顔を洗って授業を始めた。やはりなかなか、一学期かけてもまんべんなくやることと客観的にやることの混同をほぐすのは難しかった。ふたコマ授業を終えてもういちど寝て起きると夜中で、連載の締め切りが近いのでイセザキモールのネットカフェに籠もって作業することにした。帰りに向かいのドン・キホーテに寄って、洗濯の洗剤とバケツを買って帰った。洗剤は洗濯に、バケツは水を張ってそこにタオルの端を浸し、残りの部分をエアコンの室外機にかけて冷やすのに使う。そういうティップスをツイッターで見かけたのだ。家に着くと朝4時で、ベランダで作業をしていると寝ている妻から何をしているのかと聞かれて、室外機を冷やしているのだ、洗剤も買っておいたと言った。

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7月25日

井上尚弥とフルトンの試合が夜にあって、いつもより早めに作業を切り上げて家に帰ったせいで夕方が狭まって夜が間延びした。ふと手遊びで机にあるコピー用紙をカッターで半分に切って、一方を適当にさらにいくつかの小さな矩形に切って、それをもう半分の上に並べてみる。白い紙の上に小さい白い紙を配置するだけで結構遊べる。たぶん、手が遊びのモードに入ったのを放っておけば、そしてそこに紙なり棒なりがあれば結構遊べてしまうのだろう。

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7月24日

ジムを出て地下から上がると朝4時過ぎで、うっすらと明るくなる街を家まで歩いて帰った。この街の夜を棲み処とする人もいなくなって、剥がされたままの看板や空きテナントの大きな窓に垂れ下がる汚れたカーテンが目立って、20年後を見ているようだと思った。セブンイレブンでアイスカフェラテを買って、大通り公園のベンチに座って煙草を吸いながら飲む。そこには石のベンチに混じって同じような石の上に水流をかたどった透明な樹脂がかぶさった、大きな和菓子のような奇妙なオブジェがある。それはここが川だったことを示している。いまは地下鉄が走っている。その上に長い公園がある。その上にその僕が座ったベンチと「水流」が並んで、そのすぐ脇には歌丸桜という、この街の遊郭で生まれた落語家が植えた桜が植わっている。それは「土手」に植わっていることになる。

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7月23日

東京の美術のひとからは本当によく雑な依頼が来る。雑な依頼が許される「友達の友達圏」で仕事が回っているのだろう。なまじっか人が多いのでそれで回ってしまうし、それだけで「シーン」があるように見えてしまうのが東京の嫌なところだ。友達の友達圏内で互いのメンツを立てながら仕事をしているうちに小さくまとまってしまうひとをたくさん見てきたが、友達の友達にはいちばん厳しくジャッジする目をもっていないといつのまにか自分のフィールドも狭くなってしまう。 友達とそれ以外でいいし、そう考えるべきだ。しかし歳を取ってきたからか、怒ることと呆れることの数が後者に傾きつつあると感じる。

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7月22日

ドストエフスキー『白痴』の続きを読む。2週間ほど空いたがまだ筋と人物を覚えている。初めて『カラマーゾフ』を読んだときは自前の人物索引を作りながら読んだ。

「言葉と物」第4回を書き始めて、初回のときにいくつか試した書き出し案のうちのひとつを1000字ほど貼り付けて、今日はそれでいいことにした。

過去の努力にもらった休日。

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7月21日

記憶で参照していた10冊ほどの本の名前を紙片にメモして(ドゥルーズ、ハイデガー、デカルト、ヒンティッカ、ラリュエル、メイヤスー、フーコー、ベルクソン……)、字が気に入らなかったので書きなおして最初の紙を折って捨てて、家に散らばった本棚を回って集める。どうして字なんか気にするのか。たぶん「手作業」としてやりたかったのだ。引用と註の書誌情報を整えて、5章の初稿ができた。まだネジが締まりきっていないところもあるが、最後の6章を優先したほうがいいだろう。 ここまでで22万字。僕は本当によく頑張っていると思う。毎日近所をぶらついているだけじゃないかと言われればその通りだが、君は近所をぶらつきながら22万字書けるかと言ってやりたい。

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