日記の続き#55

文体は無ければ無い方がいいと思っている。というか、文体とあえて呼ぶべきものがあるとすれば、それは自分の文章に出てしまっている凝りのようなものを引いて引いた先に残ってしまうものだと思う。いわゆるツイッター構文と呼ばれるもの、慣用句、ミーム、読者への呼びかけ、意味ありげな鉤括弧、ぜんぶ要らない。「少し重たい風に吹かれながら喫茶店に向かった」という文より「少し重たい風が吹いていた」と書いて次の文ではもう喫茶店にいる方がずっといい。風に吹かれながら歩いている自分を書くのではなく、風を書いたら歩くことが自動的に出てくるような書き方が理想だ。そうして凝りを摘み取っていくと、たとえば同じ文末が続くことがまったく気にならなくなってくる。文末や接続詞の操作によって演出されるのは実のところ書いている側の盛り上がりで、もちろん読者がそれに移入することもあるだろうけど、そういう共同性には先がないだろうとも思うし、書いていてしんどくなってくる。もちろんいろんなレベルにあるテンプレートを許さないと文章は書けないので、それを程度問題として捉え返す距離感が必要だということだ。それでも残ってしまうものとしてイディオムと付き合うべきだ。僕の文章では「剥がれる」という言葉がいい意味で使われることが多くて、「くっついてくる」はネガティブな意味で使われるのに、「両立可能」がポジティブな意味で使われる。そういう傾きに出くわすたびに、これにしがみつくことがこれを肯定することではないんだぞと思う。(2021年5月23日

日記の続き#54

日記についての理論的考察§10各回一覧
そう、テクストをプレーンに受け取ってもらうための鍵は信頼だ。こう言うとすごく当たり前の話に聞こえる。もうちょっと経済学的な言葉で「信用」と言ってもいい。ビリーフとクレジット。毎日書かれ、毎日投稿されるという信用がテクストを実体的——「実体経済」というときの「実体」と類比的な意味で——なものにする。ツイッターに溢れている、どんどん戦線が小さく小さくなっていくなかで加速するポジショントークは、メタレベルでの張り合いが通用する場としてのフィルターバブルと循環的に互いを強化する関係にある。フィルターバブルは言葉の価値の「バブル」を産むのだ。経済学的なバブルと違うのは小さくなるほど変動性が上がるということだろう。
しかし、つぶさに見てみると、ツイッターで起こる社会的・文化的な話の炎上は、たとえば芸能人の失言や失態に対して明示的な悪口が集中する炎上とは規模も質もぜんぜん違うように思える。インテリの縄張り争いは——インテリも亜インテリも変わらないと思う——メタな読みとプレーンな読みをそれぞれが自在にスイッチして、文字通りに読めばそんなこと言っていないとか、文脈や書き手の属性に照らしてこれはこう言っていることになるとか、字義性/解釈のメタ解釈のレベルでの闘争が起こっている。しかもそれは実のところ直接的な対決ですらなく、スクショを貼って嫌味を言うという形式が一般化していることに表れているように、あくまで言った/言われたを自陣に向けてアピールするためになされる。字義性という盾と解釈という矛。逆のほうがまだ知的じゃないか。

日記の続き#53

2日ぶん作ったバッファを早速1日消費して、今は5月29日の午前2時18分。これから寝て起きて、予約投稿機能を使ってこれを夜10時くらいに投稿することになる(ツイッターでの更新通知まで自動化されている)。今日は珈琲館で月末が締切のエッセイを書いた。中学生向けの本に収録されるもので、それだけでも僕にとっては結構なチャレンジなのだが、そのうえテーマが「平和」だ。中学生も平和論もぜんぜん僕に関係ないぞと思ったのだけど、どうやら20代の書き手を集めるという縛りまであるらしく、そうなるとたしかに思想・批評畑で人を見つけるのも大変だろうと思って引き受けることにした(僕は6月で30歳になっちゃいますよと言ったのだが、 92年生まれならセーフらしい。どこまでも狭いのかユルいのかわからない企画だ)。なんか変で面白そうだし。依頼をもらってからずっと頭の片隅でアイデアがぐるぐると回っていて、当然企画の念頭にあるのはウクライナでの戦争なわけだけど、べつに僕が言うことはなんにもないし、ましてや自分の半分くらいの年齢の人間を焚きつけるのは嫌だしと考えていた。それで数日前に、ホーソーンの「ウェイクフィールド」みたいに何か世界のエアポケットに入って、戦争でもコロナでもいいが、そういう世界的な大事件が起こっていることをまったく知らない人の存在をどう擁護するかというテーマで書こうと思いついた。僕らと同じように暮らしている普通の人だが、そういう情報を奇跡的に素通りしてしまっている人がいるとして、その人に今は戦争だコロナ禍だと教えることははたして善なのか。テーマは決まったが入り口が定まらない。僕がよくやる、突飛な概念図式をまず見せてから話を始めることが文章の性質上できないのだ。それで結局小説みたいな対話篇みたいな変な文章になった。読みやすくしようとして変な文章になるのは面白い。引き受けてみてよかった。タイトルは「100パーセントの無知な男の子に出会う可能性について」。

日記の続き#52

引き続き5月27日の未明。夜から雨が降り始めて涼しくなったが、日中はもう夏のようだ。珈琲館でアイスコーヒーの大きいやつを注文したけど、結局ぜんぶ飲まなかった。サッカー部員ふうの日焼けした初めて見る男の子が働いていて、高校生かと思ったけど平日だから違うのだろう。最近もう人の年齢がわからなくなってきて、先日京都に行ったときも京都駅を出て喫煙所に入って、なんでこんなところに小学生がいるんだと思ったら大人で、バスで隣に座った会社員ふうの男が通路側の僕に降りるのでどいてくれという身振りをしてそれで初めて彼が小学生だということに気づいた。ネクタイも腕時計もない夏服だと私立の小学生もサラリーマンも同じに見える。まだみんなマスクもしているし。僕はといえば平日も私服でうろちょろしているわけだから、大学生か何かに見えるのだろう。いま新幹線の喫煙ブースは感染症対策でいちどに一人しか入れないことになっていて、ブースの前に常時2,3人の列ができているのだが、僕が2番目に待っているときに、前に待っていた人が入ると同時にその男の上司らしきおっさんが割り込んできて彼と一緒に入って行った。しょうもないやつだなと腹が立ったが口も聞きたくないし、彼ら含め夜の上りの新幹線は車両全体がスーツのおっさんづいていて、僕はあらかじめナメられていたのかもしれないと思った。それにしてもすぐにナメられているかどうかで物事を考えるのはあまりにチンピラっぽいのではないかと、珈琲館の高校生ふう男子のナチュラルなガサツさと接客のくすぐったさを隠すためのガサツさが口先でぶつかっているような口調を聞いていて思った。本当に高校生なのかもしれない。

日記の続き#51

最初の頃にこの「日記の続き」には1日ぶんバッファがある、つまり、今日投稿するのは昨日書いたもので、今日書いたものを明日投稿するのだという話をしたが、その舌の根も乾かぬうちにどこかでバッファを消費し、それからずっとリアルタイムで投稿を続けてきた。今は5月27日の午前2時54分。 長い昼寝をしてまだ眠くないので明日のぶんを書き溜めておこう。リアルタイムに追いかけられるとキツい。内容的にも鬱屈と焦燥の気配が漂い始めているし、ここらでテコ入れしておいたほうがいいだろう。去年の日記はいつからか当日中の更新を諦めて、翌日の昼に起きてから作業をしたり出かけたりする前の時間に投稿するようになった。その日のことをその日のうちに書くと、忘れないように書き留めるという構えになってしまうのだが、睡眠を挟むともうたいていのことは忘れていて執着もなくなっているので昨日あったことでもいいし最近ぼんやり考えていることでもいいしと思えて楽に書けるのだ。日々と日記の形式的な同期はせいぜいタイトルの日付に宿っていればよい。夏休みの最後の日にまとめて日記を書くようなものだ。そういえば僕はそういう子供だった。今は毎日が夏休みの終わりだ。

日記の続き#50

これがどれくらいの人に当てはまるのか分からないので、漠然と「物書き」ということにしておくが、物書きというものは、何をするにもたくさんの言葉がつきまとってくる苦しみのなかにいるものだと思う。批評家、研究者、エッセイスト、小説家等々とそれぞれ最終的にアウトプットされる文章のジャンルによってその内容の傾向も多少異なるだろうが、少なくとも僕はつねに前後左右に2000字ずつくらい引きずりながら生きていて、そのあいだでスクランブル交差点みたいになった頭のなかで何だか分からないまま何かを推敲しているという感じがある。一挙手一投足とは言わないまでも、ある程度の幅のもとでの最近の考え、やりたいこと、あるいはやってきたことについてさあ書けと言われたらすぐ2000字くらい書けるし、30分喋れと言われれば喋れるだろう。やはりこれがどれくらいの人に当てはまるのか分からないけど、結構多いんじゃないかという気もするし、同時にこれは異常なことだと思う。そうじゃない人と話すときに変に思われないようにするのも難しい。相槌が単調になるし、簡単な受け答えに時間がかかる。(2021年9月5日)

日記の続き#49

日記についての理論的考察§9各回一覧
昨日の続きで〈メタテクスト/プレーンテクスト〉について。一般的に言って、ある文がメタに機能するかプレーンに機能するかというのは文脈による。しかし、多少ややこしい話になるが、文脈によってメタとプレーンを割り振れるという発想自体が、文章に対してメタな視点に立つ物言いである。つまりメタテクストとは己をプレーンテクストから切り離す垂直的な運動に宿ると考えたほうがおそらく正確で、たとえば、タイトルと本文の分割とか、章立てと本文の分割とか、段落中の「キーセンテンス」と「サポートセンテンス」の分割とか、そういうアカデミック・ライティング的なカスケード構造はそうした垂直性の典型だ。日記にはそういう垂直性に抗う側面があると思う。というのも、形式的にメタであるところのタイトルが血も涙もないただの日付で、これがメタが高層化することをブロックするからだ。日付を書いてしまえば、本文で記述的になろうが分析的になろうが内省的になろうが思弁的になろうが扇動的になろうが、それをその日のそういう私としてプレーンに受け取ってもらえる(気がする)。これはべつにマジカルな話ではなく、たんに私が書きつける日付に、このひとは昨日も書いたし明日も書くだろうというヒューム的で投機的な信用が宿っているからだと思う。

日記の続き#48

日記についての理論的考察§8各回一覧
イベントレスネス/イベントフルネスの話はいったん区切りがついたことにして仕切りなおし。イベントレスネスが日記の内容面での具体的な条件(カントにとって超越論的なものはそこから論理的に演繹される可能な経験の条件で、ドゥルーズにとってそれは論理的なオプションの格子を食い破る実在的な経験の条件として捉えなおされるべきものであった。この違いはちょうど、イベントフルな日記の抽象性とイベントレスな日記の具体性に対応する)だとすれば、それに対応する形式面の条件はプレーンテクストだと思う。僕はこの言葉をメタテクストとの対比で使っている。情報理論の用語で「メタデータ」とは文字や画像のデータがいつどこで誰によって作られたものか記されたものを指すが、これを敷衍して、あったことや思ったことを書いたものをプレーンテクスト、それを書く意味や外在的な状況を記したものをメタテクストと呼んでいる。これは相対的な概念で、たとえば本のタイトルは本文に対するメタテクストだが、本の本文のうちにも主題を宣言したりその意義を説明するメタテクスト的なものが含まれる。実体としては底も天井もないが、メタに向かうかプレーンに向かうかという傾向はある程度腑分けすることができる。長くなりそうなのでまた次回。

日記の続き#47

にわかに忙しい。日記本を——もう1日数冊のペースに落ち着いているが——送ったり、日記本についてのエッセイを書いたり、日記本についてのトークイベントの企画のやりとりをしたり、日記本をめぐる選書企画の本をピックアップしたり、テーマは別だが日記についても話したインタビュー(する側)の原稿をなおしたりしている。これはなんだろうと思うと、普通に本を出したあと仕事が群生するのと同じ事態が起こっており、しかも中身を書いたのも本を作ったのも売るのも宣伝するのも僕なので、本としての規模は小さいが仕事が僕に集中しているのだ。とてもありがたいことで、それは希望でもあるのだが、あらためて本が出るというと人々が「おっ」と特別な視線を向けるのは不思議なことだと思う。ずっとひとりで書いていたし、本もBOOTHだけで粛々と売ることになるだろうと思っていたのだが、書店で取り扱ってもらえたり書店員や編集者から諸々のプロモーションの機会をもらえたり、執筆時の長い孤独が報われたようだ。ネットに書き続けているだけだと僕が書き手で、あとはいるかもわからない読者か非読者という貧しい世界に閉じ籠もりがちだったのを、本を作ることでデザイナー、印刷会社、書店員、編集者といった顔の見える仲介者たちが開いてくれたという感じがある。ものを作るのは大事という話。

日記の続き#46


いつもの珈琲館。ライターを忘れたのでマッチを借りた。常連らしきおばあさんを、ひとりで歩いて来られるだけ元気じゃないですかと言いながら、店長が手を取って立ち上がるのを助けている。もう片方の手で彼女は棒の部分に蛍光テープを貼った杖を持っていた。先が4つ又に分かれていて、自立するようになっている。自立する杖。とても哲学的なオブジェだ。いつか何かの名前に使いたい。自立する杖が教えてくれるのは、先端が分かれていない普通の杖は自立しないということだ。人を支えるためのものが自立しないというのは考えてみれば不思議な感じがするし、杖にとって自立するしないがオプショナルであるというのはもっと不思議だ。そして杖の自立があってもなくてもいいのなら人間の自立はなおさらじゃないかという気がしてくる。しかしいろんな事情のもとにある個々人の生き様はともかく、哲学は自立する杖にならなきゃいけないと思う。何かを支えることもできるし、ほっとかれても気にしない。(2021年4月21日