8月30日

僕の文章を読んだ誰かが文章を通り越して僕のことを好きになる可能性があり、その可能性がある限り僕は僕でそれに寄りかかってものが書ける(どこかしらひとはそのようにして書く)というのは二重に不思議なことだ、というようなことをツイートしていて、ドゥルーズの「可能世界の表現」としての他者論、とりわけその「顔」論としての側面は、「自分の顔は自分より他者のほうがよく知っている問題」として考えたほうがいいのではないかと思いついた。ちょうど連載のほうでも、書くことについて論じる行きがかり上のたとえ話として、自分が書こうと思っている以上のものが文章には出てしまうものだが、それは自分の顔を他人のほうが知っており、その意味で顔は「自分より自分」であるのと同じように、散文は「自分より自分」なのだ、そしてそれが散文の自由なのだというようなことを書いた。それで、ドゥルーズの他者論では他者の顔はいま実現している世界とは別の世界を表現すると考えられている。たとえば、疲れきった私に世界は「疲れ」として見えるが、ある他者の顔は疲れていない世界を表現する。他方で、自分の顔を自分より他人のほうが知っているというのは、恐るべき、しかし厳然たる事実である。この恐怖にひとはどう対処するか。自分の歴史に寄りかかることで、自分のことは誰よりも自分が知っていると思い込もうとする。すると私は過去に置かれる。すでに過ぎ去った世界に私が置いて行かれてしまう。しかしそうしているあいだにも、私の顔を私より知っている他者が、私から何らかの表情=表現を受け取っていく。それで? まだちょっとピースが足りない感じがするのでとりあえずここらへんにしておく。

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8月29日

朝寝て昼過ぎに起きるでたらめな生活リズムになっている。夕方に家を出て、珈琲館で原稿を書き、寿々喜家で「昼ご飯」を食べて、10時の閉店までベローチェで原稿を書く。帰ってゆっくりし、夜中にお腹が空いてきたがご飯を作る気にもなれないのでコンビニで鯖の塩焼きと納豆のパックを買って、冷凍してあるご飯を温め、昨日作ったアボカドとわさび醤油を和えたやつ、きゅうりと塩昆布とごま油を和えたやつと一緒に食べた。立派な定食だ。そうしているうちに外が明るくなってくる。いちど布団に入ってみるが寝付けない。ツイッターも更新速度が最も遅くなる時間。「おすすめ」のほうを開くと大谷翔平のちょっとしたしぐさの5秒くらいの動画が流れてくる。だからどうしたと言うのか。

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8月28日

カフェドクリエとドトールを渡り歩いて「言葉と物」第5回の原稿を書く。いつもはエディタにそのまま書いているのだが、今回はworkflowyでしっかりプロットを立てていて、しかし結局それがほとんど原稿のようになっている。workflowyは文章を書くためのものとして見ると、そのままエディタとしても使えてしまうシンプルな操作感も手伝って、項と散文のあいだのようなもの、というより項でも散文でもいいものを連ねられる気軽さがある。いや、こう言ったほうがいいかもしれない。「項」的なポジショナリティと、「文」的な推進力を自然に交差させて使うことができて、それは実は口語的な言葉のゆるさに似ており、workflowyは音声なき音声入力的なものに適しているのだ、と。実際の作業がどう進んでいるかと考えると、まずある規模(結果として数段落ぶんになる)のトピックを立項する。そこにはたんなる論述対象の宣言ではない「言いたいこと」が含まれている必要がある。以下の項でそれを分節していく。分節していくうちに文っぽいものになっていく。そのあいだに思いついたことをそのブロックの下に書きためていく。当該のブロックが終わったらたまったメモから次の大トピックになるものを選び出し…… というのを繰り返す。たしかにこれは人と喋るときの頭の使い方に似ている。ある種の自己対話だ。「項」が相手に対するキューで、相手が「文」として喋っているあいだに思いついたことを頭のなかに保持しつつ、しかしあくまでいま話されているものに適切な相づちを返し、よいところで次のキューを出し、という。つまり、大事なのはいかに相手に喋らせるかであって、僕は書かなくていいわけだ。

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8月27日

3年ぶんの日記を本にするときに、『日記〈私家版〉』のように個人出版で作るべきなのか、どこか出版社から出すべきなのか、そうするとしてどこに持ちかけるのがいいのか、ときおり考えている。

ルートは未定でも、作りたい物はある程度思い浮かんでいる。3つのバージョンで同時に出したい。

ひとつは普通の本で、造本等についてこちらから具体的に指定するつもりもない。ただ「3年ぶん60万字くらいの日記をあたうかぎりリーダブルなかたちで1冊の本にまとめるとはどういうことか」ということを信頼できるデザイナーに考えてもらって、どういう回答が出てくるのか見てみたい。タイトルは『他人の日記』がいいと思っている。3500円くらい。

ふたつめは硬い1枚のカードに「日記にランダムに飛ぶ」リンクのQRコードとISBNコードがそれぞれ表と裏に印刷されているもの。これを「書籍」として販売する。タイトルは『他人の日記〈普及版〉』。500円くらい。読書バリアフリーと物としての嬉しさの共存のかたちとしても面白いと思う。

3つめは本というよりただのテクストデータで、日記をすべてTXTなりRTFなりHTMLなりにまとめたもの。検索しやすく、生成AIに突っ込みやすい。読みやすくしたければそれぞれ勝手に整形すればいい。こちらはとくに名前もなく、無料で公開する。もともとタダで読めるものなので。

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8月26日

はっきり憶えていないがおそらく半年ほど腰痛が続いている。とはいえ鋭い痛みというほどのものはなく詰まり・張りがあってそれが背中全体のこわばりに響いている感じで、ベッドのマットレスや作業の椅子を買い換えたりストレッチや筋トレ、セルフマッサージをしたり鍼に行ったりするのだがどうにもすっきりせず、なかなか寝付けなくなってきた。凝りというものは極大に見れば僕の全生活とその歴史がなす複合的な線の絡まりとしてあるはずで、症状の確かさとその「病因」のとっかかりのなさのあいだで毎夜低徊して動画や記事を調べ体をもぞもぞと動かすのは、不思議と楽しくもあった。適当な空気でさえあれば趣味を問われて「腰痛」と答えるかもしれない。それで、アマゾンで買った鍼のマットが夜に届いて早速試してみる。マットの大きさは背中を覆うくらいで、スポンジにかぶせた綿のカバーの上にプラスチックでできた高さ5ミリほどの三角錐の棘がびっしり並んでいる。文字通り針のむしろだ。同じ作りの半月型の枕も付属しており、マットの上に仰向けになって寝て、首の下に枕を置く。背中の棘の痛みは思ったほどではない。人工芝の上に寝そべるときのむず痒さをちょっと誇張したくらいだ。しかし首は狭い面積に頭の重さがそのまま加わるぶん胃が引き攣るような痛みがあるが、それもたんに痛いだけなんだと思ってそのまま指示通り20分きっかり寝る。時間が経つにつれ痛みは熱に取って代わり、背中に血が集まってくるのがわかる。サウナよりずっとダイレクトで、鍼に通うよりずっと手っ取り早い。立ち上がると少し背が伸びたように感じるほど背中が自然にゆるんで、煙草を吸っていると素直な眠気がやってきた。試してみている妻を見届けてそのまま布団に入って寝た。しばらくすると彼女がやってきて、そのままマットで寝てしまっていた、あれはなんなのかと聞いた。

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8月25日

髪が短くなってから髪を触るのが指ではなく手のひらになった。右肩ばかり凝るので、使いすぎなんじゃないかと思いいつも右ポケットにiPhoneを、左ポケットに煙草とライターを入れて左肩にトートバッグを提げているのを逆にして出かけた。

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8月24日

夜、来週の『存在論的、郵便的』刊行25周年のシンポジウムで発表する多賀宮さん(大畑さん)のリハーサルをZOOMで聴く。黒嵜さんとひふみさんも参加するはずだったのだが、黒嵜さんはどこかから帰る途中で渋滞に捕まり、ひふみさんは体調を崩してしまって結局ひとりで聴くことになった。コメントと世間話を行ったり来たりしながら2時間ほど喋る。多賀宮さんが「言葉と物」について、固有名(何を言ってもアテンションがつく)か確定記述(どういう属性・クラスタかで判断される)でしか言葉の価値が考えられない息苦しさを感じていたので励まされたと言ってくれる。ふと、いま「男の友情」ほどどうでもよく、有害だとさえ思われているものもないが、僕は最近どうしてこんなに「遊ぶ」ということが難しいのかと悩んでいると話す。みんなツイッターもやめていくし、一緒に何か作ったりするのにも、だんだん互いに込み入った感情的な負荷が乗っかってくるようになった。彼がでもこれは遊びじゃないですかと言って、そうですね、こういうのは楽しいよと言った。

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8月23日

博論本の編集者、吉住さんと打ち合わせ。またサモアールで待ち合わせる。彼もACACに滞在したことがあるらしく、真夏のACACの過酷さについて、大和田さんの炭酸水製造の顛末について話す。最後の6章のプロットをできているところまで読んでもらって、部数と価格の案を聞いたり、デザイナーの候補を決めたりする。思えば彼に最初に連絡したのは博論をまだ書き終わってもいないときで、われながらどうかしていたと思う。たしか2020年の夏頃で、12月の締め切りに向けてやる気が出ず、書籍化が決まっていたらやる気が出るかなと思って企画を持ち込んで会ってもらったのが最初だった。しかしできてみたら博論はおよそそのまま出版しようと思えるものではなく、もう3年も書きなおし続けているのだ。まったく世話がない。

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8月22日

寿々喜家にラーメンを食べに行くと遅い盆休みで閉まっていた。イセザキモールのやよい軒に向かっていると後ろからゴトゴトという奇妙な音とともにベンツの白いセダンが細い道を黄金町のほうに通り抜けていって、見ると右の後輪がパンクしていて、車体が揺れるごとにトランクから水が流れ出していた。やよい軒から来た道を戻ると最近ベトナム料理屋が入った小さな建物が全焼していた。さっき気付かなかったのは正面は看板も掲げられた国旗も壁に貼られたメニューの写真も綺麗に焼け残っていたからで、隣の空き地から見ると焦げた柱と屋根、2階を覆うトタンの壁を残してすべて灰になっていた。

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8月21日

PARAで郵便本講読の日。もう6回目のようだ。範囲は第2章第2節で、平倉ゼミで一緒だった三好くんがレジュメを作ってきてくれる。いつも通りキリの良いところまでレジュメを進めてもらって、僕があらためて全体の文脈に位置づけつつ整理して、質問を募ってレジュメ担当者と僕で答えるのを繰り返す。現地とZOOMのハイブリッド開催で、僕はいつもiPadからZOOMに繋いでホワイトボード機能を使って板書し、現地ではそれをプロジェクションしているのだが、今回はiPadを忘れたのでパソコンを繋いでworkflowyで板書してそれを画面共有する。発表を聞きながら話そうと思ったことをメモし、話しながらメモに肉付けしていく。このやりかただと結果的にふたつめのレジュメができるし、見返したときにホワイトボードよりずっと理解しやすい。板書はすべてworkflowyでいいかもしれないと思った。順番と階層がひとつの動作で変えられるのも話し言葉の冗長性と相性がいい。授業のあと、三好くんがレジュメの作り方について相談してきたので、テクストを切り貼りして議論を再構成するのはもう十分できているので、あとはそれと自分の言葉でパラフレーズしたものを混ぜること、各トピックにタイトルを付けなおすように自分なりに抽象化して文脈を整理することを意識してみるといいと言った。とくに後者について言えば、僕自身書いていてよくそうなるから気付くのだが、郵便本はトピックに引きずられて説明が自己目的的になり、なぜその話をしているのかという説明がスキップされがちなので、あらゆる細部に意味があるという態度と、これは自己目的化した細部だと突き放す態度をふたつ並走させるといいんじゃないかと言った。

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