6月29日

地下鉄に乗ると、大きなリュックを席に置いてその隣に座っている人がおり、その振る舞いを警戒してさらにそのリュックの隣の席が空いており、これ幸いとそこに座った。リュックにはヘルプマークのタグがついており、彼はスマホのパズルゲームに集中していたと思ったら、今度はおそらくイヤホンから流れる音楽に合わせて人差し指を立てて上下させている。ときおり恨めしそうに彼を見る立ったままの乗客もいたが、さしあたり座ったほうがよさそうな人も、怒り出してトラブルになりそうな人もいないと判断して、いつのまにか自分が、彼とこの車両を守らなければならないのだという気持ちになっていることに気がついた。彼も僕も横浜駅で降りて、なんとなく後ろから様子を見ていると、彼はエスカレーターで律儀に空けられた右側のラインに立ち、歩いて上りたい人がつっかえていた。でもリュックのせいで座れなくなるのはそれほど混まない時間帯の4駅ほどのあいだだし、エスカレーターに至っては10秒にもならないほどのロスしか生まない。人よりちょっと寛いでいるということが、これだけ人をピリピリさせるのだということが怖くなった。彼は人よりちょっと寛いでいるだけなのだ。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月28日

寝不足のまま京都へ。行きの新幹線で日記を書いて、学生が発表で扱う論文を読む。先週の失敗から学んで、冷房対策でユニクロの小さく畳めるナイロンパーカーを持って出て、正解だった。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月27日

文章を書くのは、迷路を作るのに似ている。どういう入り組んだルートにするかと考えることに意味はなく、結局のところ一本道である正解のルートを決めたあとでしかそこから枝分かれする道を考えることもできない。ボルヘスにそういう小説があった。最も恐ろしい迷路は直線である、と。明け方まで粘っても腰の入っていない数百字しか書けず、いちど布団に入ってそういうことを考えて、もういちど起きて、こないだ作った手製のノートにボールペンで頭から書きなおすとやっとここからなら始められるような気がした。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月26日

月末にはもう連載3回目の締め切りが来るのだが、どうにもまだ取りかかれていない。書くのが嫌なときほど読書ははかどるもので、まあこうしているうちにも義務感が引力になって勝手に頭のどこかで結晶化は始まっているのだ。しかし今日あったそれらしいことと言えば「たんなるパフォーマンスの限界内における宗教」というタイトルが思いついたぐらいで、しかも「たんなる理性の限界内における宗教」を読んだことがない。しかしたしかに、「パフォーマンス」ほど奇妙な負荷がかかっている語彙も現在なかなかない。

とりあえず以下の一節を、昨日引用したものと並べてみる。

「私の言葉が私の証文であるときに私の言葉を反故にすることは、私の身体を反故にするようなものであろう。そのときまだ法が存在していて、私の身体がまだ読解可能なものであるならば、それは新しい法であるにちがいない。」
(スタンリー・カヴェル『哲学の〈声〉——デリダのオースティン批判論駁』中川雄一訳、春秋社、2008年、172頁)

バトラーもカヴェルも、言葉と身体の不一致をテコにして表象的な真理とパフォーマティブな権能を同時に解体しようとするが、そのとき身体なき言葉、言葉なき身体は想定されるやいなやブラインドされる。どうしてか。なぜそれが嫌な感じがするのか。そこにある広義の現象学的な匂いが嫌なのか。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月25日

「発話と身体の関係は、交差対句的なものである。発話は身体的だが、身体はそれが引き起こす発話を超えている。そして発話は、その言表の身体的手段に還元されない。」
(ジュディス・バトラー『触発する言葉——言語・権力・行為体』竹村和子訳、岩波書店、2004年、241頁)

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月24日

ウクライナで闘うはずのロシアの民間軍事会社が「敵はモスクワにあり」と言わんばかりに自国の軍事施設を制圧し、首都に向けて北上するニュースが刻々とタイムラインに流れるなか、YouTubeで無料配信されるRIZINの大会を見ていた。試合の合間にはこないだの日記で引用した『意味の論理学』の戦争=出来事論の箇所で参照されるフレミングの『勇気の赤い勲章』を読んでいて、なんだか戦いばかりの一日だった。ドゥルーズの戦争=出来事論と言えば、江川隆男はその文脈で「平和の叙事詩」はいまだ書かれていないという問題を提起している。平和は出来事たりうるのかという問いだ。第一にそれがドゥルーズの出来事論に依拠しつつ彼の戦争論にどう落とし前を着けるのか明示されていないのが気になるし、僕としては「いまだ書かれていない」と言いたくなってしまうそのロマンティシズムこそが平和の叙事詩の可能性をブロックしているのではないかとツッコみたくなる。みんな書いているし、書けばいいのだ。アパートのすぐそばの商店街で誰でも飛び入り参加できるスリッパ卓球のイベントをしていて、張り切った実況が聞こえてきた。これも戦いだ。賞品は小玉スイカらしかった。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月23日

シェアバイクの日。阪東橋駅のポートで自転車を借りて、大通り公園をまるまる横断して関内まで抜けて馬車道のサモアールに入る。隣の席の夫婦がテーブルに阪神タイガースのグッズを広げて、家がタオルだらけになってかなわないと言っている。今日は阪神戦なのだ。会話は関西弁ではない。関東に住んで、中年で、夫婦で阪神ファンで、横浜に応援に来るのは楽しいだろうなと思う。こうして「関内」側では駅からすぐのスタジアムに観戦に来たビジターのユニフォームを着たファンもよく見かけるが、僕が住んでいる「関外」側ではだいたいベイスターズの青い服しか見かけない。「関内」はいまでも港であり、「関外」はいまだ地元民(移民も含め)の土地であるかのように。夕方に元町の美容院を予約していたのであらかじめ近くまで出てきたつもりが、直線距離で見ればほとんど近づいていないことに気付く。早めに店を出て、スタジアムの脇を抜け、中華街を縦断し、石川町駅のポートに自転車を停める。どこかから降ってきてそこにあるような山手の断崖を見上げながら中村川を渡って、ひと昔前の「よそいき」感を凍結した元町の商店街にある、看板のロゴが古いままのドトールに入って煙草を吸う。時間になったので美容院まで歩いて髪を切り、自転車を借りなおして鳩のように道の脇に老人が並ぶ寿町のドヤ街を抜け、近所のポートで返却し、スーパーで夕飯の食材を買って帰った。あらためてこの街には、自転車で5分10分の範囲にこれだけ異質な地区が重なり合っているのだと驚いた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月22日

アーユルチェアーの話。しばらく前に腰痛が出て、鍼に行ったりストレッチをしたりしてよくなってきたのだけど、普段の姿勢から変えるべきなのだろうと思い同じ時期にアーユルチェアーという椅子を買った。前の椅子はふつうのオフィスチェアーで、外国製だからか座面がやけに広く、いきおい前側に座るので背もたれに寄りかかると骨盤が後傾しやすいし、座面がかすかに前に向かって登り坂になっており、腿の裏側が圧迫される感覚もあった。それで腰にいい椅子を探して見つけたのがアーユルチェアーで、メルカリで中古品を買った。特殊な形の椅子で、縦半分に割れた硬い素材の座面によって両方の座骨をしっかり乗せる感覚がつかめるようになっていて、骨盤の背面のみをホールドするような低い背もたれがついている。最初のうちは硬くてお尻が痛いし、変なところに力が入るからか股関節回りが筋肉痛みたいになったりしたのだが、数週間経って慣れるとともに、普段の姿勢をセルフモニタリングできるようになってきた。歩くときの脚の軽さまで変わってきて、股関節から下腹部にかけてのあたりで筋や骨の地勢図が移り変わっているような感覚もある。というような話を妻にすると、どうしてそういうところだけ素直なのかと言われた。どうしてこういうところだけ素直なのか。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月21日

起きて、新幹線に乗って、京都に向かう。半袖のTシャツだけだと冷房が腕に当たって寒かった。毎日コーヒーを何杯も飲むので、今日はカフェインなしで過ごしてみようと思う。巻き寿司と水を買って行きの新幹線で食べて、焼肉弁当と水を買って帰りの新幹線で食べた。3限の授業は発表者が体調不良で休みで、急遽僕が講義をすることにした。ちょうど月曜のPARAでの『存在論的、郵便的』の講読のために準備した、郵便本、『動きすぎてはいけない』、『ゴダール的方法』に共通する構造とその意義についてのレジュメがあったので、それを使って話す。4限も発表者がひとり休みで、いつもより早く終わってバスで京都駅に戻る。後頭部が痛くて、それがコーヒーを飲んでいないからなのか、久しぶりに90分ぶっ続けで話して酸欠なのかと思っていたら雨が降ってきて、気圧が低いのかと思った。焼肉弁当を食べて30分ほど眠る。新横浜のドラッグストアでロキソニン持ってレジに並ぶと、前の人もロキソニンを持っていた。やはり低気圧なのだ。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月20日

この時期はヤングコーンが旬だというので、スーパーで皮付きのものを買っていて、おひたしにした。硬い皮をむいて、魚焼きグリルで焼く。粗熱を取ってからさらにむいた皮をめんつゆを薄めたもので軽く煮出して、実と合わせて冷やしておく。それが昼の3時頃で、すぐに食べないものを作るのもいいなと思った。気晴らしになるし、実験という感じがする。夜に塩鯖を焼いて、卵とトマトを炒めて、晩ご飯にした。皮付きのヤングコーンを食べたのは初めてだった。きゅうりのような爽やかさとナッツのような香りがある。水煮のヤングコーンは食べたことがあるが、味なんてあったか思い出せない。

投稿日:
カテゴリー: 日記