日記の続き#146

八月の30年——29歳

雨だった。しっとりした空気のなかにときおり、棚の上に置いていた台湾パイナップルの甘い香りが漂ってくる。こないだのバーベキューに百頭さんが買って来てくれたのが美味しかったという話をして、彼女が買って来ていたものだ。包丁で皮を削って身を切り分け冷やして風呂上がりに食べた。風も強くなっていて、前の家だったら揺れてただろうねと言った。確かにやたら揺れるアパートだった。

親密さについて考えている。たとえば恋愛が厄介だなと思うのは、同じ思い出の共有に力点が置かれがちなことで、それは記念日やらクリスマスやらが象徴的な価値をもつことに表れている。それはそれで結構なことだと思うのだけど、そうしたステップの延長で結婚やら出産やらに幸せの形を代表させている何かがあることも確かだと思う。親密であるということを同じ思い出の共有だとしてしまうと、その親密さはいつの間にか第三者的な社会のなかでしか位置をもたなくなってしまう。かといって駆け落ちして誰も知らないところへ、みたいなのも違うし。結局親密さというのは、自分が忘れている自分のことを相手が覚えていて、相手が忘れている相手のことを自分が覚えていて、その思い出のすれ違いの積み重ねなんじゃないかと思う。すっかり忘れていたことを言われると、何か自分の存在が分け持たれているような奇妙な感覚がある。とはいえそんなことあったっけとは、やっぱりなかなか言えないんだけど。(2021年4月29日

日記の続き#145

八月の30年——28歳

年の終わりに博論を出す。学振DC1がなくなった年でもあって、バイトしながら博論書くのは嫌だなと思っていたが、給料がなくなる春にちょうどコロナが来たので働かずに済んだ。個人事業主向けの100万円の持続化給付金をもらって、利息が実質ゼロの救済制度でもう100万円借りて、それで1年間食いつなげたのだ。お金を借りるのは面白い経験だった。申請書を出すと、事業で使っている通帳やら収入の証明やらを持って日本政策金融公庫に来られよという手紙が来て、それらを持って関内にある支店まで徒歩で行った。スーツを着て髪を整えて結婚指輪を着けた若い男に出迎えられて、パテーションで区切られた机に案内された。どういう「事業」をしているのかと聞かれたので、雑誌に原稿を書いたり本を出したり大学で喋ったりしていると言った。どうして「融資」が必要なのかと聞かれたので、コロナで仕事が減ったからですと言うと、ウチは事業で必要なお金を貸す場であって、生活費を出す場ではないのだと言いながらも100万円貸してくれた。僕がもともと申請していたのは200万円だったのだがそれは貯金と事業規模が小さすぎて無理だということで、肩を落として歩いて帰った。でも翌週に全額振り込まれたときは嬉しかった。それでなんとかかんとか博論も書けた。

日記の続き#144

八月の30年——27歳

学年で言えば博士の3年、年号で言えば2019年なのだが、そこから何かを思い出すことができない。プロフィールの活動一覧からその年にやったことを見てみても、仕事の内容より向こうにいる自分がどんな感じだったのかが見えてこない。本を出した後でいろんなところから執筆やインタビューの依頼がくるようになって、それが楽しかった時期だと思う。初めて文芸誌に自分の文章が載ったとき、表紙に町田康の名前があって、なぜか母が僕が中学生の頃町田を読んでいたのを覚えていて、あの頃読んでいた人と同じ雑誌に書いてすごいねと言われたことを覚えている。今思えばなんというか、「仕事」っぽいことがやれて嬉しかったんだと思うけど、わりと調子に乗っていたような気もする。だからダメというより、その頃の調子に乗った展望に比べれば1、2年ほど齟齬が生まれているようにも思うので申し訳ないなと思う。まあその齟齬のなかから日記も書くようになったわけで、わからないものだなと思うし、当時の僕もわからないものだなと思ってくれると思う。

日記の続き#143

八月の30年——26歳

『眼がスクリーンになるとき』が出る。なるべくいろんなところで刊行記念イベントがしたいと思っていて、夏のあいだに東京、横浜だけでなく、大阪、京都、金沢、福岡に行った。横国大のイベントでは同時期に刊行された『オーバー・ザ・シネマ』の面々のうち、平倉圭、三浦哲哉、石岡良治と座談会をした。3対1はさすがに分が悪いんじゃないかとも思ったがなんとかなった。折り悪く大雨で、夜の山を登ってキャンパスに来るのでみんな足下がびしょ濡れだった。自分が何を喋ったのかは覚えていないが、石岡さんが「理論」というのは貧者の武器なのだという話をしていたのが心に残った。今の時代誰でもいろんな情報にアクセスできるかのように思われているが、実のところ海外のジャーナルや博物館の資料などアクセスのハードルが高いものはたくさんあり、そういう状況で貧しい者が頼れる武器こそが理論なのだと。編集者がウェブ記事にしますと言っていたが文字起こしが送られてくることはなかった。よくある話だ。

日記の続き#142

八月の30年——25歳

もう部屋着は半袖Tシャツでよくなった。夜に窓を開けていても寒くない。前の家は目の前が大きい道路で2階の部屋だったので窓を開けると車の音がものすごくうるさかった。あまりにうるさいので友達と通話していて外にいると思われた。確かにほとんど外みたいな家だった。1階が薬局の倉庫で、2階に2部屋だけ単身用の賃貸がある。内装はリフォームしたてで綺麗だったけど、構造が薄っぺらいのでトラックが走り抜けるだけで揺れた。音と揺れで最初のうちはろくに眠れなかったので、これが家なんだと思い込むことにした。車と風と地震でそれぞれ違う揺れ方をする。泊まりに来た人が地震?と言うと車だよと言う。ちょうどその部屋に越してきたときに佐々木友輔の「揺動メディア論」についての文章を書いたばかりで、家が揺動メディアになったと笑っていた。つねに分厚い遮光カーテンを閉めて電気をつけて、せめて光のあり方を内部っぽくしていた。夜外に出ると暗くてびっくりするし、昼外に出ると眩しくてびっくりする。横になって目を閉じると波打つ音と揺れに家の輪郭が紛れた。(2021年5月8日

日記の続き#141

八月の30年——24歳

ここまで来ると今やっていることとさほど変わらない生活なので、書くのは簡単だが僕自身にとって驚きのある話が出るかどうかはわからない。大きく言えば『アーギュメンツ』(関係者からの手売りのみで販売される批評誌)の購入をきっかけに黒嵜さんと出会って、今でも友達のひととたくさん知り合うことになる。これが今の活動につながる僕の個人史の本流だとして、そこからちょっと外れた話をしよう。それは正確には僕が24歳になる2016年ではなく2015年のことだったのだが、当時、今で言えば「暗黒啓蒙」的な、アングラなサブカルチャーと現代思想や批評を連動させた同人誌を作っていたはるしにゃんという人がいて、面識もなく共通の知人もいなかったのだが突然彼から今度作る雑誌に寄稿しないかというDMが来た。内容はなんでもいいということだったので、直前に出した卒論で参照したエリー・デューリングの映像論についての文章でいいかと聞いたらオーケーだった。今当時のDMが残っているか見てみたら、2015年3月7日に連絡が来ていて、彼の「期待しています」というメッセージでやりとりが終わっていた。それからしばらくして彼は亡くなってしまうのだが、そのあと友達になるひとの多くから同じように寄稿依頼があったという話を聞いた。まさか自分が書き手として誰かに関心をもってもらえるなんて思っていなかったし、批評の同人誌に自分が関わる可能性があるとすら思っていなかった(そういうものが存在するのも知らなかった)。それで『アーギュメンツ』を買って、『アーギュメンツ#2』には執筆者として関わることになる。この「それで」がどれくらい直接的なものなのかはもうわからないが、けっこう強めの「それで」だったと思う。結局本流の話に回収してしまった。

日記の続き#140

八月の30年——23歳

夏にメルボルンのスリランカ人の家に1ヶ月間ホームステイした。とはいえこちらの夏は向こうの冬なのでずっと寒く、遠浅の広いビーチに行っても海を眺めることしかできなかった。この話はいままでしないようにしていたのだが、修士のときに文学研究科と並行して、阪大内のリーディング大学院の「超域イノベーションプログラム」というものに所属していた(名前がダサいのと、サボりすぎて1年でクビになったので言いたくなかったのだ)。リーディングはRのリードじゃなくてLのリードで、つまり次世代のリーダーを養成しようという文科省肝いりのプロジェクトで、いくつかの大学に設置された特殊な学科(?)だ。そこに所属しているだけで月に20万円の「奨励費」がもらえるということで、読書会でお世話になっていた現代思想研究室の先輩に紹介されて試験を受けたら通って、それで進学を決めた。それがなかったら大学院には行かなかっただろう。それで、そのカリキュラムのひとつに同期のみんなでメルボルンの語学学校に通うというのがあって、街の真ん中にある自分らより年下の中国人・韓国人留学生ばかりの小さな学校に通っていた。毎日ココナッツミルクの入ったスリランカカレーを食べていた。「フラットホワイト」とか「ロングブラック」とかしゃらくさいメニューがあるサードウェーブ系のコーヒースタンドがたくさんあった。家のそばに6車線のバカでかい道路があって、向かいにあるマックに行くのもひと苦労だった。まだSIMフリーのスマホが普及しておらず、小さなノキアのガラケーを買って持って行った。南極海に面する海岸に野生のペンギンの群れが陸に上がってくるのを見るツアーに行って、何千ものペンギンが陸の寝床に歩いて行くのを見た。

日記の続き#139

八月の30年——22歳

絶望的に単位が足りず、4年の後期なのにも関わらず週20コマも授業を履修し、ひとつも落とせないという状況だった。美学のいちばん年長の上倉先生に呼び出されて、君は卒業できないぞと言われた。黒い革張りのソファベッドがあって、カセットコンロと土鍋があった。人を呼んでそこで酒盛りをしているのだ。彼はいつも少し顎を引いてまっすぐ僕の目を見る。僕の態度が曖昧だからか、彼は君のお父さんは何をしているのかと聞いた。よくわからないですと言うとわからないわけがないだろうと言われ、農業機械の営業をしていて、毎日のようにトラックで岡山県を縦断していますと言った。でも本当にそれが何なのかよくわからないのだ。その返答が先生にどういう印象を与えたのかわからないが、ともかく留年して困らせたらダメだという話がしたかったのだろう。それに僕はすでに院試に受かってしまっているのだ。しかもそれも儀礼的に受けただけだったのが、本来行こうと思っていた人間科学研究科の檜垣先生の現代思想研究室の願書を出し忘れていて受けられなくなってやっぱり美学で進学したいと言っていて、つまり幾重にも失礼かつ迷惑な話だった。上倉先生はその年で退官が決まっていたが、いちどこいつをしゃきっとさせておかないと残される先生が大変だと思ったのだろう。彼はどうせ君は授業サボるでしょと言って彼の授業の日が公演の歌舞伎のチケットをくれたこともあったし、とても面倒見がいい先生だった。その彼が困り果てている。腹が立つけどどうしようもないと思っていたのだろうか。こちらはこちらで申し訳ないなと思うがどうしようもない。結局どうにかこうにか単位が揃って卒業した。なんとかなるものだ。

日記の続き#138

八月の30年——21歳

僕がシネフィルっぽかったのは学部生のあいだだけだったと思う。十三の七藝、九条のシネ・ヌーヴォ、茶屋町のロフトの地下にあるテアトル梅田、スカイビルのシネ・リーブルに通って、ありとあらゆるレトロスペクティブをチェックして、タル・ベーラやアピチャッポンやギョーム・ブラックの新作を見ていた。固有名の次に思い出すのはなぜか、いつもお腹が空いていたなということだ。いつも上映ギリギリに着く時間に家を出て、席に着いた時点でそのことを後悔していて、見終わるとすぐマックとかに入ってお腹に何かを入れる。七藝の向かいにある半分屋台みたいな、チャンポンみたいなスープの担々麺みたいに挽き肉が入ったラーメン屋にもよく行った。そしていつもひとりだった。おなじ美学専攻の学部生が僕以外みんな女性だったということもあるし、それで院生の演習にまで出て偉そうにコメントしたりしていたから、今思えば敬遠されていたのだろうが、ぜんぜん友達ができなかったのだ。学部時代でいちばん多く言葉を交わしたのは指導教員の三宅先生だと思う。喘息持ちで煙草もばかばか吸うので、いつも身をよじるように咳をして、水筒からお茶を飲んでいた。講義ではエイゼンシュテインからシーモア・チャットマンまで映画理論の歴史を膨大な引用集をもとに話して、演習では何年経っても第8セリー以降に進まない『意味の論理学』原書講読をやっていた。中世哲学が専門の博士課程の先輩が、いつも枕くらい大きいリトレの辞書を持ってきていた。

日記の続き#137

八月の30年——20歳

書店に行ったら新書ランキングのところに『裏横浜』という本があって、目次を見てみると黄金町、曙町、伊勢佐木町、寿町と僕が住んでいる地区を取り囲むような地名が並んでおり、誰が裏やねんと思った。大阪は大阪市とその北の豊中市とでふたつの「南北問題」を反復するような格好になっていて、つまり、大阪市のミナミより梅田があるキタのほうが裕福で、豊中市の北部には高級住宅街があるのに対して南部の庄内や服部には70年代のベッドタウン再開発で集められた労働者の「文化住宅」がたくさんある。塾を辞めて書店でバイトを始めて、10年以上バイトを続けているハマグチさんという先輩は庄内にある実家に住んでいて、一緒に帰りながらよくそんな話を聞いていた。彼が言うにはこれでも文化住宅はだいぶ減っていて、95年の震災であらかた倒壊したのだということだった。夕方になると洗面器にタオルを入れて銭湯に向かう老人をよく見かける。深夜になると文化住宅でルームシェアをしているらしい外国人が路上でたむろし始める。最初はおっかなかったが、みんな地元の家族や友達と通話するために——部屋で寝ている同居人に気を遣って——出てきているのだと気づいた。駅前のちょっとした商業ビルの2階にある喫茶店は全席喫煙可で、あらゆるソファが破れていた。というか、ほんの10年前までは喫茶店で完全禁煙というところはかなり少なかったはずだ。庄内と梅田のあいだにある繁華街の十三という街はマックでさえ喫煙可だった。飲み残しを捨てる穴の横に吸い殻を捨てる穴があったのだ。それにしてもハマグチさんにはよくしてもらった。彼が本の話をしているのをいちども聞いたことがないが、社員も一目置くとても優秀な書店員だった。実家はかつてたこ焼き屋をやっていたらしい。