10月30日

彼女とイセザキモールを歩いていて、葉っぱが黄色くなっている木があって、日本大通りの銀杏並木も紅葉しているんじゃないかと言って、そのまままっすぐ海のほうへ歩いて行った。天気が良くて背中に当たる陽が温かい。結局銀杏はまだぜんぜん色づいていなかったが、そのまま歩いて赤レンガ倉庫に突き当たって南に折れて、左手に空き地みたいな灰色の海を見ながら、象の鼻公園——カフェのある建物の屋上で半裸の男がものすごい大声で叫んでいて、何を言っているんだろうとよく聞くとI will always love youを文字通り絶唱していた。エンダーーアーーイアーーというやつだ——を過ぎて大桟橋のところまで行って、シェアバイクに乗って内陸に引き返した。横浜スタジアムの脇を抜けて、正面に降りてきた白くて埃っぽい西陽に目を細めながら大通り公園を通ってサミットの裏手の駐輪場に返して、そこで夕飯の材料を買って帰った。思ったよりずっと長い散歩になった。

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10月29日

デスクマットとデスクライトを買った。引っ越したときにイケアで買った、天板がライトグレーの8000円くらいの机を使っているのだけど、ここ2年くらいである種の手触りに過敏になってしまい、そのプラスチックのカサカサした感じがちょっと気になっていた。買ったのはダークブルーの合皮のマットで、合皮だから濡れたり汚れたりを気にしなくていいし、そのままマウスパッドにもなるし、手触りがしっとりしていて落ち着く。ライトはBenQのScreen Barというモニターの上部に引っかける形のもので、スタンドがないので場所を取らないし、光が直接画面に当たらないようになっている。ライトはちょっと高かった(机より高い)けどいい買い物をした。揃えてみてこれは机で手書きするためのセットだなと思った。

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10月28日

起きて、棒状のレーズンパンをふたつ口に入れて、しばらくだらだらして日記を書いて、外に出た。イセザキモールを歩いて久しぶりにマクドナルドに入って、ダブルチーズバーガーとポテトとコーラのセットを食べた。しょっぱさの濃淡だけがある。あとは炭酸。よくできた食事だ。カルディでコーヒー豆を買って有隣堂でノートを買ってコメダで本を読んだ。急にぐるぐるとお腹の調子が悪くなってきてトイレに行った。すぐトイレに行ける場所でよかった——やはりマックは特別なのだ——それにしてもコロナにかこつけて多くのコンビニはトイレを貸さなくなった——かなり重要なはずのインフラが不意に取り上げられたわけで、その意味するところは——それにしてもまた副交感神経が壊れてしまいそうなくらい熱い便座の季節がやってきた——などと考えながら手を洗って喫煙ブースに入った。「社長」と呼ばれるくたびれた背の低いおじさんと、「マネージャー」と呼ばれる、割れた氷のような奇妙なエイジングを施されたジーンズを履いた細身のおじさんが話している。悪いことっていろいろあるんだよ、いつも言ってるでしょ、とマネージャーが言った。でも困っている人がいたら助けるとか…… と言って社長は黙ってしまった。社長は誰かに騙されて、マネージャーは訳知りにそれはありふれたことで、気をつけるべきだったのだと諭しているようだった。彼は昔は不動産取引も今みたいに銀行を挟まず現金でやったし、それは向こうにも後ろ暗いところがあるからだし、そういうところに盗みに入っても向こうも何も言えなかったのだとか、そういう話をした。俺は知ってるよ、社長にもいつも言ってるでしょ。社長は悪い人がそんなにまっすぐに悪いことをするのが信じられないようだった。

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10月27日

なんだかここ3日くらい日記にうまく取りかかれない。ばらばらとイメージは浮かぶのだが、それを頭のなかで文章にしたとたんに味気なく感じられて、エディタを開くまでに時間がかかる。ここまでやってきて波があることはわかっていることは救いだ。『ノルウェイの森』を英語で通して読んでから、外国語の文章のほうが読んでいて落ち着くということもあるかもしれない。いまは邦訳が絶版で高騰しているフーコーの『安全、領土、人口』をいい加減観念して原書で少しずつ読んでいる。すごく久しぶりに読書ノートも取りながら読んでいて、ゆっくりだけど楽しい。日本語だとわかりすぎてしまうし、その「わかる」も書き手としての手つきのバリエーションや言外の配慮として処理している感じがあり——わかるわあというやつだ——書き手−読み手というよりも書き手−書き手の関係になってしまう。外国語の文章と日本語の詩をメインに読んだりするといいのかもしれない。書いてみると思わぬところに転がった。やはり素直に書くのが大事。

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10月26日

寒くなってきて食事による代謝の振れ幅が大きくなってきたのか、晩ご飯を食べたあとものすごく眠たくなって、寝て起きたら夜中の1時だった。夢を書き留めておきたいという気持ちと、もうちょっと寝ていたいという気持ちのあいだでうつらうつらしているうちに夢を忘れたが結局起きて煙草を吸った。誰かのためにその人の部屋を片付けるか何かしていて、曲線と穴を作ったらダメだと言われる夢だったと思う。その人は脳梗塞を患っていて、曲線を見るとそれがこちらにぶつかってくるように感じ、穴は黒い平面に見えるのだ。僕がそう言って誰かに片付けてもらっていたのかもしれない。湿気を含んだ空気が滑らかに感じられる秋らしい夜で、日記を書きたいような気がしたのだけど、どうもきっかけを掴めずにだらだらしてまた寝た。

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10月25日

もはやいつぶりかわからないのだけど、黒嵜さんと久しぶりに長い電話をした。あんまり長かったし、どこからが実際的な話でどこまでが感情的な話で、どれが言いたいことでどれがエピソードだったのかぜんぶが絡まり合っていてこういう話だったと言いにくい。なんか元気そうですねと言うと介護施設の人みたいだと笑っていた。でもそれはそこから表情の変化を引き出して話のトーンを探る彼のやり方なのだ。僕はよく知っている。とにかく元気そうでよかった。これはあんまり良くない「とにかく」だ。でもそこでスキップされている屈託はとうてい書けない。

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10月24日

アマゾンで買ったエアコンの内部を洗浄するスプレーが届いて使ってみた。フィルターを外して中にある細かいアルミの板に向けて1本丸ごと噴射する。もっと霧みたいな感じなのかと思ったらしぶきに近くて手に跳ね返ってくる。もともと見た目が汚れているわけではなかったので効いているのかわからないがカビの予防にもなるのだろう。キッチンのレンジフードも掃除した。周りが汚れないようにコンロの上に大きなビニール袋を敷いて、油汚れを落とすスプレーをかけてしばらく置いて、それを拭き取る。こっちはひどく汚れていて、とくに縁のところにある溝に飛んだ油が溜まっていて大変だった。手袋をつけてそれをなんとかこそぎ落として、そんなつもりはなかったのだがなんだか大掃除みたいになってしまった。それにしてもエアコンにしろ換気扇にしろ排水溝にしろ、何かが出ていくところは汚れる、というか汚れているから出すわけで、そういうところを掃除すると家の中と外の境界線が引きなおされたような感じがする。そうすると家の周りの道路のゴミを拾っている老人はそこを内部だと思っているのだろうか。有機洗剤しか使わない人は家の周りまで掃除するだろうか。それとも一足とびに地球が内部になるのでそういうことにはならないのだろうか。

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10月23日

いままでずっと横向きに寝ていて、仰向けに寝ようとするとうなじのあたりが詰まったような感じがしていたのだけど、ストレッチを続けているうちに仰向けで寝られるようになってきた。横向きだと首が前に倒れたり、肩が内側に巻き込んだりしたまま固まってしまう。昔から冬になるといつもそれがひどい凝りになって寝起きも辛かったので、ストレッチを続けていてよかった。とはいえとくに首のストレッチをしているわけではないので、肩甲骨、背骨、胸郭が全体的にほぐれてきたんだと思う。仰向けに寝て、下腹部に手を置いていると、睡眠というのは意識がなくなるときには下半身ですでに始まっていることがわかる。足先とお腹が温まってきて、それにつられて手の先もじーんとしてくる。ヴァルドマールの「私はもう死んでいる!後生だから殺してくれ!」じゃないけど、体がもう寝ていることを頭で認識できる。頭が寝るのは最後でいいんだと思うと、寝つきが悪くて悶々とすることもないかもしれない。

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10月22日

ものすごく寒かったし、3時くらいに起きたのですぐ日が暮れた。こないだ友人の家に遊びに行って『ドライブ・マイ・カー』の話になって、いま村上春樹をデビュー作から順に読んでいて次は『ノルウェイの森』なんだけど、読むのが辛いですと言うと英語で読んでみたらと言われた。たぶん彼は辛いというのをたくさん読むのが大変だという意味で受け取って、英語にして気分を変えたらと言ってくれたのだと思うけど、僕はたんに『ノルウェイの森』が悲しい話で読むと絶対落ち込むから辛いと言ったのだった。でもそれもいいなと思ってキンドルで英訳を買って読んでいる。

それでいま半分くらいまで読んだ。原書だとちょうど下巻に切り替わるあたり。たぶん初めてこの小説を読んだ中学生のときと同じくらいのスピードで読んでいる。先日読み返した『世界の終わりと〜』は3日くらいで読み切ってしまったし、どうして日本語を読むのがこんなに速くなってしまったんだろう。英語でどこまでが独自の比喩でどこからが慣用句なのかわからなくなりながらつっかえつっかえ読むほうがふさわしい感じがして不思議だ。

分厚い靴下に分厚いスリッパを履いて、脚に毛布をかけて真夜中に読んでいると、それにしても僕は何をしているんだろうと思った。この小説はいろんな言語に翻訳されて、それぞれの地域で多くの人に読まれている。それは村上が文壇の潮流に背を向けて、自分の文体と自分のナラティブを作ることに注力した結果だ。作品が自分の足で立っているから業界的な論理や土着的なものの外で読まれるものになる。それに比べて哲学や批評は、まず論ずる固有名や主題の社会的価値に寄りかかっているし、書き方のレベルでも書き手の供給のレベルでも、寄りかかれるものはたくさんある。いままで僕はそういうところでぬくぬくとやってきたのだと思う。生活費が稼げて定期的に原稿依頼が来て個人事業主として成立すれば自立だと思っていたが、そんなのはまったくの間違いなのだ。その点この日記は初めてひとりでやっている。「自分の足で立っている」と言えるような一貫性はぜんぜんないのだけど。でもそれは日記にとっては弱みでもなんでもない。

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10月21日

夕方の珈琲館。博論の序論を書き換えたものを見直す。おばあさんが「あんた手え綺麗やなあ」ともうひとりのおばあさんを褒めている。「肉があるからや」。この辺りに長く住んでいる様子で、かつ関西弁を喋る老人のグループをよく見かける。どういうルートで横浜にやってきたんだろうか。カルディでコーヒー豆を買って、スーパーできゅうりと挽き肉を買って帰ってご飯を作る。まず先日作った鶏ハムで棒棒鶏を作る。鶏ハムは鶏より作るときに出る出汁が美味しくて、昨夜はそれを使って水炊きにした。きゅうりを千切りにして、練り胡麻でタレを作って、細く切った鶏ハムにかけるだけ。挽き肉は麻婆茄子用。ちょっとだけ買い足してあとは家にあるもので作れるようになると料理が楽になる。途切れ途切れに作ってたくさん買って余ったものがダメになってを繰り返していると楽しくもないし上手くもならないと思う。この場合上手いというのは、台所のストックや調理器具と店にある食材とに関係を見出し、それを料理として具現化できるということだ。その意味で料理は近所のスーパーの棚を把握することから始まる。研究と似ている。

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