日記の続き#365

生の筍を買って、皮の付いたままアルミホイルにくるんでオーブンで時間をかけて焼いて、パスタの具にして食べた。公募書類をzipファイルにまとめて送って、絶対下手に出ないぞと思った。坂本龍一が死んでから、彼の曲でいちばんたくさん聴いた、phewがカバーした「Thatness and Thereness」を繰り返し聴いている。大阪にいた頃だ。まだ有線のイヤフォンで、よく夜中に散歩をしていた。アパートの1階で、いつも鍵を開けていた。妻と住むようになってやっと部屋の鍵を閉める習慣ができた。廊下は外のアスファルトと地続きで、玄関で切り替わる10センチほどの高さだけ床は浮いていた。いつも湿った砂利道に面した窓の外を人が通ると、こちらは座っているか寝ているかなので見上げるようだった。それは家というより窪みのようだった。北に向かって20分ほどで大学、南に向かって20分ほどで梅田に行ける臍。そこに6年住んで、横浜に移ったのが2017年の春なのでそこからまたちょうど6年経ったことになる。

これで「日記の続き」は終わり。こないだわざわざ「続き」と言うようなことはできていないので失敗だと言ったが、ここのところ書く文章のどれもが文字通り日記の続きに思える。この2年でゆっくりと、とにかく書き続けるのだという覚悟のようなものをつけてきたのだと思う。しばらく経ったらまた日記を始めます。

日記の続き#364

まいばすけっとに入る。軒先にガラスの壁を通して外に向いている縦長のデジタルサイネージに目をやると、星座占いが表示されていて、双子座は星三つ中ゼロ個で「雑になる」というコメントが書いてあった。そんな雑なコメントってあるだろうか。

寝付けないときに試すことが無数にあるのだが、夜、新しいものを思いついた。頭のなかに走っている思いなしを、タイピングするところを思い浮かべながら言葉にしていくのだ。キーボードがはっきりと思い浮かべられるわけではないが、キーの位置と指の運動のなんとなくの対応を感じることはできる。強制的に思いなしがゆっくりになって眠れる気がする。ふつうにしていると瞬間的なスピードでたくさんのことを考えているように感じるけど、それはべつに「考え」ではない。

日記の続き#363

どうにも「書類」だと思うと書く気が出ないので昨日の続きをここに書いていこう。

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……こうした問題意識のなかで、私は早い段階から、狭義の哲学研究に収まらない、批評というフィールドでも活動してきました。私はそれを研究の「アウトリーチ」とは呼びたくありません。なぜならアウトリーチには、啓蒙という口実のもとでの専門家と非専門家の分断とともに、応用という口実のもとでの非哲学的領域の哲学への包摂が含意されているように思われるからです。もちろん哲学には専門性があり、それを用いて他領域のことを説明することが必要な場合もあるでしょうが、私が批判的に見ているのは、専門性・必要性が哲学とその外との関係のありかたを考えないで済ませるための理由にすり替わってしまうことで、「権威」とはそのすり替えのことなのだと思います。

美学への批判、哲学的理論の適用への批判、実践的・制度的なレベルでの哲学の自閉性への批判、これらは私の活動において、学術的な論文から文芸誌等での批評やエッセイまでを含めて一貫しています。そしてそれは「哲学の他者関係」を考えるためのものであると同時に、「他者関係一般」を考える実践でもあります。

柄谷行人の『探求』以降、他者論は日本の批評の中心的なテーマのひとつとなっています。それはもちろんレヴィナスに由来するフランス哲学における他者論の流行を受けてのことでもあるのですが、柄谷、そして彼を批判的に引き継ぐ東浩紀においてより顕著なように、彼らはたんに抽象的に他者を論じるだけでなく、出版や組織の立ち上げを通して、社会的・政治的なレベルでの「公共性」として他者関係を実験する活動を繰り広げています。たとえば東は『観光客の哲学』において、一見軽薄な観光というトピックから出発して、とりわけ現代思想においていきおい絶対化・神秘化されてしまうきらいのある他者論を批判しつつ、軽薄であることが可能にする開かれを論じました。そしてそれは、彼が自身の会社ゲンロンで企画しているチェルノブイリ原発ツアーなどの活動と不可分であり、それはおよそ学術的研究のアウトリーチとはかけ離れているものです。

研究の話に折り返すと、私がドゥルーズの哲学を芸術との関係という観点から考察しているのは、そもそもこうした、日本において「批評」と呼ばれている動向を受けてのことです。あらためてそのプロジェクトを要約すると、哲学と芸術の異質性を前提としつつ(つまり、両者のあいだに予定調和や共通の土台を想定せず)、いかにして哲学は芸術との出会いをおのれの変化の契機とするのか(これは具体的には新たな哲学的概念の創造に相当します)ということです。これをさらに一般的な問いとしてパラフレーズすると、自律的であるということを閉鎖的であるということにせず、他者に開かれているということを包摂の口実にしないということになります。

これは私のあらゆるジャンルの文章に一貫しているスタンスであり、かえって具体的にどこがどうだと示すのが難しいのですが、ここではそのうちでももっとも非学術的で、もっとも非社会的にも見える「日記」という形式で書きながら考えてきたこと、実践してきたことを通して説明してみようと思います。

私は自分のウェブサイトで毎日日記を書いていて、2022年には1年分の日記をまとめた『日記〈私家版〉』を自主制作して刊行しました。これはおよそ学術的な「業績」にはカウントされないような活動ですが、それについては「業績一覧」から判断していただくことにします……

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なんだか書いているうちに最近考えていることに引っ張られて話がねじれてきた。最近はどの文章もこういう感じになるが、これはこれでいいのだと思っている。それにしても公募書類で日記の話なんてしてどうするのか。まあそうなったのだからしょうがない。あとすこし書き足して形を整えて出そう。

日記の続き#362

学振が今年度で終わるので、今年は生まれて初めて就職活動をすることになる。もとはと言えば働くのが嫌で、入るだけで月20万円もらえる副専攻が阪大にあったからという理由で修士に入って、なんだかんだでここ8年働かなくてもお金がもらえるという生活が続いてきた。2020年は学振DC1が切れてまだ博論も出していなかったが、渡りに船でダイヤモンドプリンセス号がやってきてコロナ関連の個人事業主支援と利子実質ゼロの特別貸し付けで乗り切った。博士に入った段階から大学に就職しなくても生活できるような状況を作っておいたほうがいいと思っていて、実際それはもうできているのだが、そうするといずれにせよ活動の端々に「あくせく」感が出る感じもするし、いちおうあらゆる選択肢をオープンにしている。ということで、いちど大学教員の公募に出してみようと思って横国から学位証明書を取り寄せた。提出書類のひとつに「研究内容とその社会的インパクト」について2000字で書くものがあって、書いているとなんで僕が多くて大人が3, 4人読む程度の文章を書かなきゃいけないのかという怒りが湧いてきて、その勢いで半分ほど書いた。もったいないのでここに貼っておく(内容も怒っている。僕は哲学をその外に出ないための方便として使うことに対する怒りでやってきたのだろう)。

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私は現代フランスの哲学を専門としており、とりわけジル・ドゥルーズの哲学を、彼の哲学実践と芸術との関係という観点から研究してきました。ドゥルーズは「リゾーム」や「器官なき身体」といった概念を提唱したことで知られる哲学者ですが、これらはいずれもカフカやアルトー、画家のフランシス・ベーコンといった作家たちについての批評のなかで生み出されました。つまり、彼が自身の哲学を彫琢するにあたって、芸術はきわめて重要な役割を果たしており、ここまで芸術の存在が哲学の構築に強く影響している哲学者を私は他に知りません。


芸術を扱う哲学は「美学」と呼ばれていますが、ここで私はドゥルーズの「批評」と美学一般を区別してみたいと思います。というのも、美学が「芸術とは何か」、「美とは何か」といったすでに与えられた問いに応答するために哲学的理論を駆使し、その事例としてあれこれの芸術作品を包摂するのに対して、ドゥルーズ的な批評は、それぞれに特異な作品が応答している固有の問題を探すためにこそ、芸術作品や芸術家に向き合うからです。美学においては哲学者はあらかじめ抱いている問いに適合する作品を探すことが求められ、批評においては作品との出会いによって初めて惹起される問いを捕まえることが求められます。


私のドゥルーズ研究に独自性があるとすれば、ドゥルーズが芸術一般について、あるいは特定の作家なり作品なりについて「何を」言っているかという観点ではなく、彼の芸術論が「どのように」作られ、それが狭い意味での彼の哲学とどのような関係を形作っているかという観点から研究している点だと思います。


ドゥルーズにとって芸術が哲学を適用したり応用したりする対象ではなく、むしろ哲学をそのつど作り替えることを強いるような、それ自体 “critical” な存在であるとすれば、問われるべきはそのような他律的な哲学とは何なのか、哲学史のなかでそれがどのような意味で際立ったものであるのかということです。哲学者があれこれの作品から「影響を受ける」というのはよく聞く言い回しですが、その実相を哲学のなかで明確にするということは案外なされて来ませんでした。

こうした問題意識のなかで、私は早い段階から、狭義の哲学研究に収まらない、「批評」というフィールドで活動してきました……

日記の続き#361

日記ワークショップ4回目。コーヒーをどこで手に入れるか考えるのが面倒なので、家で水筒に入れて持っていった。下北沢で降りると、駅前のスペースでいくつかの古着屋が出店を出していて、歩いてみるとスピーカーから坂本慎太郎を流している店があって恥ずかしくなってしまった。ゆらゆら帝国も坂本慎太郎も好きだが、下北沢の日曜の古着屋の出店から聞こえるとこんなに恥ずかしくなる音楽もない。

夜中、また寝付けず布団から起き出して、そういえばと思って国会図書館のサイトから『ホトトギス』のスキャン画像を閲覧した。面倒で先延ばしにしていたがとても便利なサービスだ。初めて日記を募集したときの要項には次のように書かれている(第3巻第10号、1900年)。

一、各日多少の記事あるべき事。
一、記事は、気象、公事、私事、見聞事項、又はそれに関する連想議論等凡て其日に起こりたるものに限る事。
一、事実ならぬ事を事実の如く記すべからざる事。
一、文体は随意の事。
一、詩歌俳句等を用うるも妨げざる事。

足すことも引くこともあまりない。初めて募集日記が掲載された号は3年間伊予で制作していた『ホトトギス』を一念発起して東京で発行した号(第4巻第1号)で、子規の巻頭言も気合が入っている。いわく、東京の雑誌は「議論、批評、史伝、小説、詩歌、雑録などと一々欄を設けて、しかも毎号其欄には何か埋めて」あり、体裁を尊ぶと見えるが、われわれは田舎者なのでそうした体裁にはこだわっていられない。東京の雑誌は学校で『ホトトギス』は私塾だと言っている。それで半分くらいのページが募集した日記、俳句、挿絵で埋まっているのだから、相当にパンクだ。

日記の続き#360

寝付けないまま朝になって日記を書いて、2時間だけ寝て、それでも眠くて本も読めないので午後はRIZINのオンラインチケットを買って見ていた。なんだかんだここ2年くらいの全体会を見ているんじゃないか。演出としてはPRIDE以来のおっさん世代と朝倉未来以降の令和ヤンキー世代の価値観のあいだに奇妙な連続性が出来上がっていて、その全体としてのガキっぽさはあれ、ともかくもそうしてひとつの「アリーナ」が機能しているというのは今の日本にはあまりないことだ。なぜそれが総合格闘技なのか。ひとつには選手生命が比較的長く、こないだの大晦日に所英男(あの「闘うフリーター」だった人)と20代前半の神龍誠の試合があったように、競技レベルでベタに世代交代劇を演出しやすいということがある。とはいえこの大乱闘スマッシュブラザーズ感(日本における格闘技と格ゲーの関係についてはいずれまとまった考察がなされるべきだろう。黒嵜さんと何か考えてもいいかもしれない)もそう長くは続かないだろう。なぜならもう、いまの20歳くらいでRIZINを飛び越えてUFCで活躍し始めている選手は、キックボクシングやら空手やらレスリングやら他競技からの転向ではなく最初からひとつのスポーツとして総合格闘技をやり始めている世代で、「異種」格闘技だったものがベタに「総合」格闘技になりつつあるからだ。

連想を続けると、朝倉未来が平本連をSNS上の煽り合いの末に訴訟したというのは非常に象徴的なことだ。つまりこれは、「決着」の場としてリングと法廷が同等のものになりつつあるということで、言論の世界でも訴訟沙汰が散発するようになっていることと考え合わせるとおもしろい。言論のパフォーマンス化、スタイルの「総合」化、決着の司法化。に抗するには?

日記の続き#359

夜中3時頃に布団に入ってじっとしていると、体の端から痺れのような眠気が浸透してきて頭だけが冴えているヴァルドマール状態になったのだが、それからいくら経っても寝付けないので諦めて起きたら6時で、3時間もただ横になっていたのかと思った。『カラマーゾフの兄弟』を読み返そうと思って亀山郁夫訳版をまとめて買ったのが届いていて(昔読んだのは原卓也訳だった。中学生の僕でものめり込んだので良い訳だったのだろう)、別巻の長い評伝の部分を読んだ。ドストエフスキーは大変な人生だったようだ。カーテンを開けて朝の景色が見えるようにする。こないだ登った丘が遠くに見えて、商店街のアーケードを挟んで建っている10階建てのくらいのマンションの東の壁面がまぶしく照らされている。急に卵焼きが作ってみたくなって、YouTubeで検索して作った。起きてきた妻がいぶかしそうに見る。巻いているうちに形が崩れたが巻き簀があったのでなんとかなって、今、朝の11時前。これから寝ると余計変なリズムになるので夜まで起きておこう。しかしこれは何日の日記なのか。4月1日の今日はまだまるまる残っているので3月31日の日記ということにしておく。

日記の続き#358

朝まで友達ふたりと通話していて起きたら昼の3時で、「朝ご飯」にトーストを、夕方6時に「昼ご飯」にペペロンチーノを作って食べた。最近は小倉知巳というシェフのYouTubeを参考にパスタを作るのにハマっていて、彼の作り方だと作り始めてから食べ終わるまで15分くらいしかかからないし、実際手際のよさが直接味に跳ね返るので作っていて楽しい。彼のペペロンチーノには、なんというか、よくできた塩ラーメンみたいな瑞々しさがある。仕事から帰ってきた妻が疲れているからと言って寝室で横になって、翻訳の校正を2章ぶん進める。夕飯の準備ができていないがこれから食材を買うのも億劫なので、ふたりで近所のココスに行った。日付が変わって人が少ない時間になってからジムに行って、ローイングマシン10分×2回、補助付きの懸垂とディップスを交互に3セット、バーベルスクワットを3セットやって帰った。重いものを担ぐと、重りと地面に挟まれた体のなかでいろいろなことが起こるのが見える。スクワットが怖いのはこの同時多発性が怖いのだと思う。

日記の続き#357

#365で終わりにするつもりなので、そろそろこの「日記の続き」が何だったのか総括しないといけないだろう。結論を言ってしまえば失敗で、たぶん最初のほうから読み返せば、一日に何個か書いてバッファを作って書かない日にそれを細切れにして出したりとか、日記内連載をやってみたりとか、たんなる日記以上の何かを絞り出そうとしているのだろうけど、少なくともいまはそういうものを見返す気になれない。毎日書くという形式のなかで日記以上のことをやるのは無理だったということだ。「日記の続き」も「日記」でしょと言ってしまえばそうで、失敗も何もないのだが、だとすれば逆にどうして早々に日記を裏切るようなことをしてしまったのかと思う。いやはや。失敗でした。

日記の続き#356

イセザキモールのカトレヤプラザにサーティワンアイスクリームができた。妻が店の軒先に出ているメニューの写真を撮っていて、大納言あずきがおいしそうと言うのだが、それが「ペンタゴン・スズキ」みたいなイントネーションだったのでなんでそんな地方プロレスラーの名前みたいな読み方なのかと聞くと、何がダメなのかと聞くので、九条葱を「クジョウ・ネギ」とか、雪国まいたけを「ユキグニ・マイタケ」とは言わないでしょと言った。