日記の続き#180

まいばすけっとに入るとカートを押しながらおばあさんが大声で「まいばすけっと売れない商店街の合い言葉」と繰り返しながら入ってきて、僕に「おーい売れない商店街のぼくちゃん」と言って、無視すると店員に「いらっしゃいました売れない商店街」と言っていた。狂った言葉をぶつけられると独特の疲労感がある。書店で働いていたときに明らかに挙動がおかしい若い男がカウンターに来て、後輩が対応していたので引き取ると「なんでずっと舌ぺろぺろしてるの?」と言ってくるので引っ張って店の外まで出たこともあったし、大阪で街を歩いていると後ろからおじさんに声をかけられて「キダタローの息子やろ」と言ってしばらくつきまとわれたこともある。彼らの言葉には言葉の威力があまりにダイレクトに宿っていて、憔悴した容疑者が冤罪を自白させられるような気持ちになる。話にならないというより、話にしてはいけない話を前に自分を保つのにはたいへんな努力がいる。

日記の続き#179

もう「日記の続き」に移ってから半年も経つ。いまだにこの名前には煮えきらなさを感じている。日記的な実践にプラスアルファの企画性をもたせるのはとても難しい。内実のある見込みがあるのならそれをわざわざ日付でバラバラにする必要はない。でもそういう見込みがないと漫然と日ごとの切れ目に価値を預けてしまう。そういう押し引きがある。そういう押し引きがあるということのなかでやっていくべきだと思う。

YouTubeを開いたら長州力がアントニオ猪木の葬式に行った話をしている動画があってなんとなく開いてみると、半ズボンをはいてソファに座った長州の日焼けしたゴツい脚を仰角に煽るような奇妙なアングルで、彼はなぜか板チョコをパキパキと割って食べながら話している。熱海からタクシーで行ったとか訥々とそういう話をしばらくして、おれ会長の話しながらチョコ食べてるよ、口の中甘くしないと喋れないんだよ、と呟いた。聞き手は終始ほとんど相づちすら打てずにいたが、それは相づちすら打てないような話だからで、老人にしかできないそういう話し方があると思った。

日記の続き#178

レクチャーの準備が朝までかかって、2時間だけ寝て神保町に向かった。できあがってみたらほとんど引用だけで埋めているレジュメがA4用紙9枚分あって、これを1枚10分で消化するのかと思った。会場は美学校の入っているビルに新しくできたPARAというスペースで、階段しかない古いビルの踊り場に喫煙所があって、開いた窓から外を見ながら煙草を吸った。数年ぶりにお客さんがぎっしり入った会場で話をした。内容はインスタレーションアートを巡る理論的な言説からいま「作品」がどのような状況に置かれているか検討したうえで、そこから抜け出すような別のクライテリアを探るというものだった。インスタレーション以前のインスタレーション論としてハイデガーとベンヤミンを取り上げたうえで、それぞれを引き継ぐ現代の論者としてハーマンとクラウスを並べる。表面的にはハイデガー−ハーマンがフォーマリスティックに「作品」の自律性を称揚する保守派で、ベンヤミン−クラウスが「制作」プロセスの社会への埋め込みを主張するリベラルに見える。しかしこの対立は根本的なものではなく、クラウスにおいてハイデガー的なものとベンヤミン的なものが奇妙なかたちで「止揚」されていて、その核にあるのが「指標の透明性」だという話をする。これが指標−キャプション−パフォーマンスからなるインスタレーション的な体制を支えていて、ここにかかっている無理が現行のいろんな問題の根っこにあるのではないかという話をしたうえで、インスタレーション的な実践のなかからそうした体制から抜け出そうとしている作家として大和田俊と佐々木健の話をして終わった。

日記の続き#177

文章を書くとき、あれとあれとあれを言うみたいなトピック単位のアイデア出しだけして、あとは頭から書きやすい順番に書く。順序だったプロットをあらかじめ立てるのが苦手で、あるアイデアと別のアイデアのあいだの連関はなんとなくありそうな気がするという程度のものだ。盤がこちらとあちらに分かれて、あちらの大将を取る将棋やチェスのような直線的な書き方ではなく、置いた石、置かれた石でなんとなく盤の磁場が移り変わる囲碁のような書き方をしていると言えるかもしれない。こういう考え方は、ひとつには段落(間)の構成に跳ね返る。原理的には段落をどこで終わらせてもいいものとしつつ、実際的にはここでこの段落は終わりだとすることによって初めて次に書くことが開ける。アカデミック・ライティングと呼ばれるような書き方では総論と各論を文全体のあらゆるスケールでカスケード型に反復することが理想とされる。したがって各段落の終わり方は上位のスケールから演繹的に導かれる、というか、理想的には書く前から決まっている。踏み込んだ言い方をすればここには書くことへの恐怖がある。もちろんこうしたお守りに頼ることもあるし、学術的な場で文章を書くときはそうした構造との緊張関係のなかで書くことになる。選択は単純にどちらを取るかというものではなく、いずれかを取ったことで発生する緊張関係に、当の文章のなかでどのように向き合うかというものになる。この話のポイントは、仮に文章を将棋的な書き方と囲碁的な書き方に分けられるとして、前者が権威的で官僚的なもので、後者が革新的で芸術的だと言うだけでは済まされないということだ。文法と修辞の対立に比せられるようなものをここに見るべきではない。修辞学的に隠喩的/換喩的と言ってもいいし、言語学的に連辞的/範列的と言ってもいい。どちらでもいいしどちらでもない。フォーマット化されたリーダビリティに流し込むのでもなく、文体実践に居直るのでもなく、リーダビリティの開発を実験の対象にする必要がある。読者を作るということはたんにその数を増やすことではなく、新しいリーダビリティを作るということとイコールだ。

明日はこの続きを書くかもしれない。(2021年4月15日

日記の続き#176

日記を1行だけで済ませた。本当はもう少し書くつもりだったのだが、一文を書いて、もうこれでできているのではないかと思ってそのまま投稿した。タイトルとかタグとか、そういうメタデータが前景に迫り出してくるというか、コンテンツと同一平面にすべての文字が均されるというか、そういう感じがあって、たまにはそういうものとしてこの画面を眺める機会があるのもいいかもしれないと思った。

こないだ京都からの帰りに、EXカードのポイントが溜まってグリーン車に通常料金で乗れるクーポンがもらえたのでグリーン車に乗った。ワコマリアの虎の絵の総柄のセットアップを着ている若者や、透明のキャリーケースにトイプードルを入れている女がいて、ルミネから伊勢丹に行ったような世界の違いがあった。

日記の続き#174

学期が始まって京都に向かう新幹線に乗っている、と、今朝見た夢を思い出した。同世代の子供が集められどこか知らない土地にいて、旅行しているというより連れて来られているという感じで歩いている。隣にいる女の子が走ろうと言うので一緒に走ると、それに合わせて川の反対の河川敷の上に直線の虹が浮かび上がった。彼女はこの土地の人間で、ここでは光と大気の関係が他の場所と違っていて、光に対してある角度で走るとそうやって虹が見えることを知っているのだ。速度を上げると虹が濃くなって、床屋の看板みたいに斜めによじれた色の帯がくっきりする。しばらく走って虹を見てから、もしかしたら彼女は僕とふたりになりたくて走ったのではないかと思う。その可能性について考えながら黙って歩いていると空き地で暗い顔をしたおばさんがテーブルの前に立って「現象」をやっていた。そこはかつてコンビニだった場所で、かつてレジだったところにテーブルを置いて立つ「現象」が彼女の仕事なのだ。というところで目が覚めて、なんでこんな新海誠ふうの夢を見たんだろうと思った。たぶん京都に行くので昨夜から移動の予感があったこととか、西日本と違って東北は主要道が南北に伸びていて、景色の構成要素はそっくりなのに見え方がぜんぜん違ったこととか、ハーマンがフッサールについて書いた文章を読んだこととか、そういう思いなしが混ざったんだと思った。

日記の続き#173

夜中、煙草を買いにコンビニに行くとサンドイッチの棚を見ているパジャマ姿の女が黒いチワワを小脇に抱えていた。

テフロンが剥げてしまったフライパンをゴミ袋に入れて捨てようとすると妻にフライパンは粗大ゴミではないかと言われ、燃えないゴミなんだから燃えないゴミでいけるはずだと言ってそのまま捨てたのだが、翌朝収集ボックスの外に置かれており、やっぱりダメなんじゃないかと言われたが、ダメなら収集できませんという張り紙があるはずだと言ってそのままにしておくと次の日には無くなっていた。しかしなぜかビニール袋から出して中身だけ持って行っており、これはただ誰かが拾っただけなのではないかと言われたが、資源ゴミとして回収されたのだと言った。

ふと、ジムにあるマシンの大半が電力を使わないものであることが不思議に思えた。電力で動くのは有酸素運動のマシンだけだ。無酸素運動は上下運動で、もっとも高級な機構はせいぜい滑車だ。

日記の続き#172

「情報の非対称性」という言葉があるが、対称なものは情報にならないのでこの言葉自体がトートロジーである。私とあなたがもっている情報が同じであるということすら、その同じであるということが有意味であるような第三者的な視点なり状況なりが仮説的にであれ可能でなければそれを情報と呼びようがない。すると反対に、情報の非対称性という言葉があたかも特殊な、あるいは正したり利用したりするべき偶発的な状況を指すものとして用いられ、流通するのはなぜなのかということが気になってくる。おそらくこの言葉が頻繁に使われるのは金融取引や人狼のようなゲームの世界で、このような世界には、情報の非対称性をそのようなトートロジカルな名で呼ぶことで得られるなんらかのメリットがあるのだろう。対称な情報というありもしないものをあたかも中立的なものとして扱うことに。「情報」という言葉は、「対称/非対称」を奇妙なしかたでブリッジする回路として機能している。一方を理想化・中立化しつつ、自身にとっての存立条件であるはずの他方を特殊化する回路として。つまりあらゆる「情報」はある種のカバーストーリーであるわけだが、それによって覆いをかけられているのは何なのか。これは可能な回答のひとつだろうが、実際にあるのは対称/非対称の非対称性ではなくある非対称性と別の非対称性の非対称性であるということだと思う。ここまで書いてこれはドゥルーズ『差異と反復』のシミュラークル論だと気づいた。ところで「平等」とは何か。

日記の続き#171

夕方、彼女が甥の誕生日プレゼントを買いに横浜に行くのに付いていった。僕の甥でもあるわけだが、結婚したら親と兄姉が増えてその子供が甥になるという形式性、というより、自分が当のその形式の一項になっているという事実と実際の付き合いのなかで人として接するときの様々とが、いまだにすっきり噛み合っていない感じがする。それをなんとか繋ぎ止めているのがプレゼントだということなのだろうが、そんな醒めた「構造」的な理解は先のアンビバレンスを反復しているだけだ。この夏に松江に滞在して——彼女の祖父が住んでいたマンションの一室を自由に使わせてくれる。そこからは宍道湖が見下ろせて、花火がよく見えた——初めて姉夫婦と甥にも会った。ゴムボールを蹴って遊んだり、なぜか料理が上手いということになっていてみんなに筑前煮を作ったりした。プレゼントはノースフェイスの温かそうな上着にした。